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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第13章 誰かの理想ではなく、私を見て【選択前夜編】

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06.触れない距離


 その日は、セッション開始を告げるシステム通知が、予定時刻を数分過ぎても届かなかった。


(……珍しいこともあるものね)


 アイナは、完璧に整えたウェアの襟元を正し、無機質な画面をじっと見つめる。異世界と現実世界、二つの場所を繋ぐこのデバイスにおいて、時間は絶対的な指標だ。彼はいつも、秒単位で正確に現れていた。その几帳面さが、アイナにとっては心地よい規律の一つになっていた。


(何かあったのかしら。体調でも崩したの?)


 不意に過ぎった懸念に、アイナは内心で小さく舌打ちをする。ただの教官が、ユーザーのプライベートに想いを馳せるなど、プロとしてあるまじき越権行為だ。


 ──接続中。


 ようやく、待ち望んでいた電子音が鼓膜を叩く。


『すみません、少し遅くなりました』


 スピーカーから流れる声は、聞き慣れた穏やかなトーン。

 けれど、その背後で微かに混じる、乱れた呼吸の音をアイナの耳は逃さなかった。


「構いません」


 アイナは努めて淡々と、感情を削ぎ落とした声で応じる。


「準備はできています。始めましょう」


(……私の声、安堵してる?)


 それを自覚してしまった瞬間、胸の奥が焼けるようにひりついた。遅れた理由を問うこともせず、ただ彼が「そこに現れた」という事実に救われている自分がいる。セッションが始まる。今日は下半身の可動域の確認だ。


「股関節、昨日より開きがスムーズですね。意識が変わったのが分かります」

『分かりますか?  はい。教えてもらった通り、寝る前に少しだけストレッチを続けてみたんです』


 “教えてもらった”。その何気ない一言が、アイナの胸に小さな刺のように引っかかる。教官と会員。導く者と、従う者。そこにあるのは、ガラス一枚隔てたような、正しく、そして絶対的な距離。


「……無理はしないでください。急な負荷は逆効果ですから」

『はい、アイナさんの言う通りにします』


 簡潔なやり取り。なのに、言葉が途切れた後の静寂が、以前のように寒々しいものではなくなっていた。沈黙さえも共有できているような、居心地の悪い、けれど甘やかな感覚。


(……慣れてきている。この空気に)


 それが、今の彼女にとってはどんな拒絶よりも恐ろしかった。ふと、画面の向こうで彼が声を落とす。


『アイナさん』


 名前を呼ばれた。この世界では、キャラクターとしての名前。けれど、彼の唇から放たれるその響きには、特別な温度が宿っている気がした。


「……何でしょうか」

『今日は、少し疲れていませんか?』


 心臓が、ドクリと大きく跳ねた。


(どうして。そんなはずはないわ)


 表情の微細な変化を読み取るような機能は、このアプリには実装されていない。数値化されたデータと、限られた音声情報。それだけのはずなのに。


「別に。いつも通りです」


 即答。それは彼女が長年かけて築き上げてきた、トップトレーナーとしての鉄壁の防御だった。


『そうですか。なら、いいんですけど……』


 一拍。彼はそれ以上、無理に踏み込んでこようとはしない。


(……引き際が、早すぎるのよ)


 胸の奥が、じくりと痛んだ。望んでいたはずの適切な距離。踏み込ませないための拒絶。成功したはずなのに、何故こんなにも虚しさが押し寄せるのか。


『でも、声が……少しだけ、硬い気がしたから』


(やめて……)


 見ないで。それ以上、私の内側に触れようとしないで。機械のように完璧な「理想像」でいさせて。アイナはほんの一瞬、言葉を失い、喉を詰まらせる。


「……トレーニングを続けましょう。時間は限られています」


 無理やり話題を切り裂く。相手は、抗うことなく素直に従った。それが救いであり、同時に耐え難いほど残酷に思えた。セッションの後半。いつもなら、淡々とノルマをこなして終わるはずの時間。


『今日は、ありがとうございました』


 彼が言う。


『アイナさんが無理をしていないなら、それでいいんです。また、明日』


 その言葉は、指導に対する感謝というより、もっと個人的な、深い気遣いのように響いた。


(……触れない距離を保っているくせに、どうしてそんな風に笑うの)


 心の中で、届かない毒を吐く。踏み込まない。踏み込ませない。互いにその境界線を守り続けているからこそ、この安全な関係は成立している。なのに、その「触れない距離」こそが、今のアイナには鋭い刃のように突き刺さる。


「教官として、当然の振る舞いです」


 そう返すのが、彼女に残された最後のプライドだった。


 ──通信終了。


 画面がゆっくりと光を失い、深い黒へと沈んでいく。アイナは、誰もいないフロアで独り、その場に立ち尽くした。


(……私は、一体何を求めているの?)


 選ばれたことに対する、ただの満足感? それとも、彼を「選び返したい」と願い始めている自分への戸惑い? 凍りついていた感情が、はっきりと形を持ち、鼓動を打ち始めている。それが怖くて、堪らなく逃げ出したい。それでも、もう目を背けることはできなかった。


(触れない距離ほど、残酷なものはないわね……)


 アイナは、静かに、そして深く息を吐き出した。次のセッションが始まる時間を、もう無意識に待ち焦がれている自分を、もはや否定することさえできずに。

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