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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第13章 誰かの理想ではなく、私を見て【選択前夜編】

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05.削られない輪郭


 次のセッションが訪れるまでの時間が、不思議なほど短く感じられた。これまで何千回、何万回と繰り返してきたルーチンワークのはずなのに、時計の針が進む速度に自分の感覚が追いついていかない。


(……こんな落ち着かない気分、いつ以来かしら)


 アイナは、自分でも正体の掴めない胸のざわつきを抱えたまま、異世界のジムに立っていた。鼻をくすぐる鉄の匂い、規則正しく響く他者の呼吸音、そして己の限界に挑む者たちが発する意志の重さ。周囲の景色は何一つ変わっていないはずなのに、彼女の内側の歯車だけが、僅かに軸をずらして回転している。


(仕事よ。いつも通りに、完璧に振る舞えばいい)


 自分自身に厳格な規律を課し、静かにデバイスを起動させる。


 ──担当教官:アイナ・ホロウフィールド

 ──セッションを開始します。


 接続を知らせる電子音の直後、スピーカーからあの声が届いた。


『こんにちは。今日もよろしくお願いします』


 昨日と同じ挨拶。ありふれた言葉。それだけのはずなのに。


(……やっぱり、この声だわ)


 胸の奥の深い場所で、眠っていた何かが微かに震えるのを感じた。アイナは一瞬だけ視線を伏せて動揺を逃がすと、いつもの凛とした教官の調子で応じた。


「ええ。今日は体幹の安定を、いつもより少し丁寧に作り込んでいきましょう」


 的確な指示を飛ばす。呼吸の深さ、重心の微細な移動、筋肉の連動性。「肉体」という対話を通じて、相手という存在を理解していく。それがトップトレーナーである彼女の、譲れない矜持だった。


『……なるほど。言われた通りに意識すると、昨日より体が軽く感じます』


 画面の向こうで、相手が素直に頷く気配が伝わる。


(ちゃんと、私の言葉を拾ってくれている)


 その事実に、小さな安堵が静かに滲んだ。誰かの理想を無理に押し付けることもなく、目に見える結果だけを焦って欲しがることもない。彼女が紡ぐ専門的な言葉を、その純度のまま、真っ直ぐに受け取っている。


(……本当に、変わった人)


 それは決して悪い意味ではない。むしろ、これまでの「理想の押し売り」に疲弊していた彼女にとって、救いのような違和感だった。セッションの間、彼は一度として「もっと胸のボリュームを」「脚を細く」「理想の体型に近づけて」などという要望を口にしなかった。


(……一つも、聞いてこない)


 そのあまりにも静かな受容が、かえってアイナの胸をざわつかせた。トレーニングの合間の、短い休息時間。相手が、ふと思いついたようにぽつりと呟いた。


『……そのままで、本当に綺麗ですね』


 その言葉に、計算された媚びや深い思惑はない。ただ感じたことをそのまま口にしただけの、羽毛のように軽い言葉。だからこそ、防壁を立てる間もなく、彼女の胸の深くにまで刺さってしまった。


(やめて……)


 心の中で、小さな悲鳴が上がる。それ以上、私の境界線に触れないで。これ以上、身勝手な期待を膨らませないで。アイナは一度喉を鳴らし、意識的に冷ややかな教官の声を作った。


「美しさは、このトレーニングの目的ではありません。必要なのは、正しく機能し、動ける体です」


 正しい。あまりにも正しい、プロとしての正論。だが相手は、少しだけ照れたように笑って答えた。


『はい、分かっています。でも……それでも、いいと思ったんです。アイナさんは、そのままで』


「でも」という、余計な接続詞。否定もされず、訂正もされず、ただ「そのまま」の自分という存在を肯定された。


(……困るわ、そんなの)


 一方的に選ばれることよりも、ずっと戸惑う。誰かの好みに合わせて削られることもなく、加工されないありのままの輪郭を、そのまま受け取られてしまうことが。


 アイナは、自分自身の身体のラインを、今までとは違う意味で意識し始めた。強靭な意志を宿した筋肉と、女性としての柔らかさ。その両方を内包した、自分という個体。これまで、数多のユーザーたちの欲望によって削り取られてきたはずの部分が、今、確かにそこに在るのだと実感する。


(……怖い)


 未知の感覚に怯えながら、セッションは終了の時間を迎えた。画面がゆっくりと光を失い、黒い静寂が戻ってくる。


 ──本日のセッションを終了します。


『ありがとうございました。また明日』


 名残惜しさを孕んだその声に、アイナは一瞬だけ、返事を詰まらせた。


「……こちらこそ。お疲れ様でした」


 通話が切れる。後に残されたのは、耳の奥に残る余韻と、胸の真ん中にぽっかりと空いた不思議な熱。


(……何を期待しているの、私は)


 恋と呼ぶには、まだあまりに遠い。けれど、「選ばれ方」が違ったというたった一つの事実が、彼女の中でゆっくりと熱を帯び、細胞を書き換えていく。アイナは自分の手を見つめた。過酷なトレーニングを共にしてきた、しなやかで力強い指先。


(……私を見て)


 かつて、あまりの虚しさに心の深淵へと叩き落としたはずの願いが、今、微かな呼吸を始めている。それを否定することも、今の彼女にはもう、出来そうになかった。

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