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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第13章 誰かの理想ではなく、私を見て【選択前夜編】

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04.指名という行為


 指名という言葉を、アイナはこれまで幾度となく網膜に焼き付けてきた。それは彼女にとって単なる事務的な手続きであり、数ある選択肢の中から効率的に最適なピースをはめ込むだけの、無機質な作業に過ぎない。


 ──教官を選択してください。


 システムが表示するその一文を、アイナは感情を排して眺めていた。


(……どうせまた、誰かが作り上げた「理想の完成形」を選ぶだけ)


 その予測は、経験則に基づいた揺るぎない確信だった。画面の向こうで、見えないカーソルが滑らかに動く。案の定、それは誰かの指先によって「都合よく調整された姿」のサムネイルへと吸い寄せられていく。


(そう、それでいいの。それがこの世界のルールなのだから)


 心がわずかに温度を下げる。期待などしていない。だから傷つくはずもない。そうやって心の防壁を固めようとした、その時だった。


『……あれ?』


 スピーカー越しに届いたのは、戸惑いを含んだ短い独り言。吸い寄せられていたカーソルが、ピタリと動きを止めた。そして、あろうことか一つ前の階層……カスタマイズ前の画面へと戻ったのだ。


(え……?)


 アイナは思わず瞬きをした。


『この人……カスタマイズ、してないよね』


 その言葉が、耳の奥に不思議な残響を残す。画面に映し出されているのは、初期設定のままのアイナ・ホロウフィールドだ。


 ダンスで培ったしなやかな筋肉の躍動、過剰な強調を排した自然な曲線。鍛える者としての矜持が宿る、嘘のない「実用的な美」。誰かの理想に寄せて削られたり、誇張されたりしていない、本来の彼女の姿。


『……これで、いい気がする。いや、これが………この人がいい』


「これが」いい、という限定的な響き。それは、他の誰でもない彼女そのものが選ばれた瞬間だった。加工も、忖度も、理想の押し付けもない。ただ、そこに在る「そのまま」を肯定された感覚。アイナの胸の奥が、きゅっと音を立てて収縮した。


(……そんなわけ、ないでしょう。ただの気まぐれよ)


 自分に言い聞かせる。偶然だ、ただの操作ミスに過ぎない。それでも、無慈悲なシステム音とともに「指名」のボタンが押し込まれた。


 ──担当教官:アイナ・ホロウフィールド

 ──トレーニングセッションを開始します。


 確定音が、静まり返った部屋にやけに大きく響き渡る。


(……選ばれた?  本当に、私が?)


 理解が追いつかず、思考が数秒ほど空白になる。これまでのどんな指名とも、手触りが決定的に違っていた。理想を満たしたから選ばれたのではない。調整後の完成度で比較されたわけでもない。


(……私を、選んだの?)


 鏡の中の自分を指差すように、内心で問いかける。そんな馬鹿なことが、このデジタルの海で起こるはずがない。


『よろしくお願いします』


 画面の向こうから聞こえる声は、どこまでも穏やかだった。そこには過剰な期待も、支配欲も、一方的な投影も感じられない。ただ、隣に並んで歩き出すような、自然な響き。アイナは一瞬だけ躊躇いを見せたが、すぐにプロとしての仮面を被り、指導者の顔を作った。


「こちらこそ。まずは無理のないところから、体調に合わせて始めていきましょう」


 声は落ち着いていて、淀みない。トップトレーナーとして、一点の曇りもない完璧な対応だ。


 だが、理性で抑え込んだ心の深層には、小さな、けれど消えない疑問が波紋のように広がっていた。


(……どうして、私だったの?)


 トレーニングが始まり、画面越しに指示を飛ばす。フォームを厳格にチェックし、乱れがちな呼吸を整えさせる。動作の一つひとつは、これまでの数千回に及ぶセッションと何ら変わりはない。なのに───。


「……アイナさんの指示、すごく分かりやすいですね。身体にスッと入ってくるというか」


 相手から不意に投げかけられた言葉が、彼女の心臓の鼓動を跳ねさせた。褒め言葉なんて聞き飽きるほど浴びてきた。それでも、今この瞬間の言葉は、明らかに質感が違った。機能としての「教官」ではなく、意思を持つ「一人の人間」として向けられた言葉だと、直感が告げていた。


(……勘違いよ、アイナ。落ち着きなさい)


 首を振り、自分を律する。期待するな。一喜一憂するな。これはただの業務であり、相手は一人のユーザーに過ぎない。そう、すべて分かっているはずなのに。トレーニングが終了し、画面がゆっくりと暗転していく。


 ──本日のセッションはすべて終了しました。


 その無機質な文字を眺めながら、アイナは自分でも驚くような感情を抱いていることに気づいた。


(……終わるのが、こんなに早く感じるなんて)


 名残惜しい、という実体のない感覚。それは、完璧なシステムの一部として生きてきた彼女にとって、致命的なエラーにも似た異常事態だった。


(私、何を……何を浮かれているの)


 胸の奥に灯った、微かな、けれど確かな熱。それはまだ、恋と呼ぶにはあまりにも頼りない火種だ。ただ、「ありのままの自分を選ばれた」という、たった一つの、しかし絶対的な事実が、彼女の中で静かに、そして激しく形を変え始めていた。

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