08.それでも、名前を呼びたい
セッションが終了し、システム上のログアウトシーケンスが完了しても、アイナはすぐに端末を手放すことができずにいた。画面は深淵のような黒に沈み、そこにはもう、交わすべき指示も、管理すべき数値も存在しない。それなのに───。
(……まだ、切りたくない。この余韻の中にいたい)
自分自身の甘い渇望を言語化した瞬間、胸の奥がひどく静まり返った。これまで「選ばれる」という経験は、砂の数ほど積み上げてきた。
理想の形に近いから。機能として優秀だから。カスタマイズの素材として完成度が高いから。けれど、先ほど彼が残した言葉は、それら全ての既存のルールを鮮やかに塗り替えてしまった。
『今の感じが、好きなので』
その一言が、鼓膜の奥で何度も心地よい反響を繰り返している。
(……私は、プロ失格ね)
アイナは暗い画面に向かって問いかける。教官として、正しく規律を守れているか。個人的な感情を、仕事という聖域に持ち込んではいないか。
答えは、残酷なほど明白だった。完全に持ち込んでいる。それも、取り返しがつかないほど深く。それでも───それが嫌ではない自分が、確かにそこにいた。
不意に、アプリの起動を知らせる通知が端末を震わせる。切れたばかりで、まだ繋がっていたいと思ったタイミング。
──接続中。
再び世界が繋がり、光が溢れ出す。
『あ……すみません。間違えてボタンを押してしまいました』
スピーカーから漏れたのは、きまり悪そうな、けれどどこか親しげな彼の声。
「……いいえ。構いません」
アイナは乱れかけた呼吸を整え、精一杯の平静を装って応じる。
「ちょうど、私もまだここに残っていましたから」
一瞬の沈黙。
それは気まずい断絶ではなく、互いに次の一歩を測り合うような、密やかな期待に満ちた時間。
『アイナさん』
また、名前を呼ばれた。
『今日は……本当に、ありがとうございました』
「……何に対して、ですか?」
『全部です。あなたが、そこにいてくれること全部』
短い返答。だが、そこには一切の虚飾も、計算された嘘も混じっていなかった。アイナの指先が、膝の上で微かに震える。
(……今なら、聞いてもいいかしら)
この、ガラス一枚隔てただけの、もどかしくも親密な距離なら。
「……あなたは、どうして私を選んだのですか?」
教官としてあるまじき問い。本来なら、胸の奥に封印しておくべき好奇心。それでも、堰き止めていた感情の奔流を止めることはできなかった。相手は少しの間、思案するように黙り込み、それから静かに口を開いた。
『理由、うまく言えないんですが……。最初にあなたの姿を見たとき、【この人なら信じられる】って、直感的に思ったんです』
信じられる。その言葉が、乾ききっていた彼女の心に、雨のように染み込んでいく。
『誰かの好みに合わせた【作られた感じ】が、あなたからはしなかったから』
(……そう、だったのね)
それだけで、もう十分だった。アイナはゆっくりと目を閉じる。
───私を見て。
ずっと、孤独な暗闇の底で押し殺してきた悲鳴のような願い。それが今、画面の向こう側にいる、まだ顔も知らない誰かによって救い上げられたのだ。
「……」
アイナはゆっくりと目を開く。瞳には、以前のような冷たい光ではなく、柔らかな決意が宿っていた。
「では───これからも、しっかりとお付き合いしましょう」
教官として。けれど、それだけではない、何かもっと特別な絆を求めて。
『はい。こちらこそ、お願いします』
彼の声が、春の陽だまりのように和らぐ。
───通信終了。
今度こそ、画面が消えた。アイナは深く、深く息を吐き出す。
(……恋、なのかしらね。これは)
まだ、身を焦がすような烈しい情熱ではないかもしれない。けれど、「一方的に選ばれる側」だった彼女が、初めて自分の意志で相手を「選び返したい」と願い始めた。それは、デジタルな関係を超えた、確かな熱。
相手の名前も、その素顔も、彼女はまだ知らない。
それでも───次に繋がるとき、その人の名前を、私の声で呼びたいと思っている。それだけで、今は、世界がこれまでにないほど美しく見えた。




