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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第13章 誰かの理想ではなく、私を見て【選択前夜編】

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08.それでも、名前を呼びたい


 セッションが終了し、システム上のログアウトシーケンスが完了しても、アイナはすぐに端末を手放すことができずにいた。画面は深淵のような黒に沈み、そこにはもう、交わすべき指示も、管理すべき数値も存在しない。それなのに───。


(……まだ、切りたくない。この余韻の中にいたい)


 自分自身の甘い渇望を言語化した瞬間、胸の奥がひどく静まり返った。これまで「選ばれる」という経験は、砂の数ほど積み上げてきた。


 理想の形に近いから。機能として優秀だから。カスタマイズの素材として完成度が高いから。けれど、先ほど彼が残した言葉は、それら全ての既存のルールを鮮やかに塗り替えてしまった。


『今の感じが、好きなので』


 その一言が、鼓膜の奥で何度も心地よい反響を繰り返している。


(……私は、プロ失格ね)


 アイナは暗い画面に向かって問いかける。教官として、正しく規律を守れているか。個人的な感情を、仕事という聖域に持ち込んではいないか。


 答えは、残酷なほど明白だった。完全に持ち込んでいる。それも、取り返しがつかないほど深く。それでも───それが嫌ではない自分が、確かにそこにいた。


 不意に、アプリの起動を知らせる通知が端末を震わせる。切れたばかりで、まだ繋がっていたいと思ったタイミング。


 ──接続中。


 再び世界が繋がり、光が溢れ出す。


『あ……すみません。間違えてボタンを押してしまいました』


 スピーカーから漏れたのは、きまり悪そうな、けれどどこか親しげな彼の声。


「……いいえ。構いません」


 アイナは乱れかけた呼吸を整え、精一杯の平静を装って応じる。


「ちょうど、私もまだここに残っていましたから」


 一瞬の沈黙。


 それは気まずい断絶ではなく、互いに次の一歩を測り合うような、密やかな期待に満ちた時間。


『アイナさん』


 また、名前を呼ばれた。


『今日は……本当に、ありがとうございました』

「……何に対して、ですか?」

『全部です。あなたが、そこにいてくれること全部』


 短い返答。だが、そこには一切の虚飾も、計算された嘘も混じっていなかった。アイナの指先が、膝の上で微かに震える。


(……今なら、聞いてもいいかしら)


 この、ガラス一枚隔てただけの、もどかしくも親密な距離なら。


「……あなたは、どうして私を選んだのですか?」


 教官としてあるまじき問い。本来なら、胸の奥に封印しておくべき好奇心。それでも、堰き止めていた感情の奔流を止めることはできなかった。相手は少しの間、思案するように黙り込み、それから静かに口を開いた。


『理由、うまく言えないんですが……。最初にあなたの姿を見たとき、【この人なら信じられる】って、直感的に思ったんです』


 信じられる。その言葉が、乾ききっていた彼女の心に、雨のように染み込んでいく。


『誰かの好みに合わせた【作られた感じ】が、あなたからはしなかったから』


(……そう、だったのね)


 それだけで、もう十分だった。アイナはゆっくりと目を閉じる。


 ───私を見て。


 ずっと、孤独な暗闇の底で押し殺してきた悲鳴のような願い。それが今、画面の向こう側にいる、まだ顔も知らない誰かによって救い上げられたのだ。


「……」


 アイナはゆっくりと目を開く。瞳には、以前のような冷たい光ではなく、柔らかな決意が宿っていた。


「では───これからも、しっかりとお付き合いしましょう」


 教官として。けれど、それだけではない、何かもっと特別な絆を求めて。


『はい。こちらこそ、お願いします』


 彼の声が、春の陽だまりのように和らぐ。


 ───通信終了。


 今度こそ、画面が消えた。アイナは深く、深く息を吐き出す。


(……恋、なのかしらね。これは)


 まだ、身を焦がすような烈しい情熱ではないかもしれない。けれど、「一方的に選ばれる側」だった彼女が、初めて自分の意志で相手を「選び返したい」と願い始めた。それは、デジタルな関係を超えた、確かな熱。


 相手の名前も、その素顔も、彼女はまだ知らない。


 それでも───次に繋がるとき、その人の名前を、私の声で呼びたいと思っている。それだけで、今は、世界がこれまでにないほど美しく見えた。

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