第五十九話 『来客』
もし俺が黄泉の国に来て唯一良いと感じている点を挙げろと言われたのなら、夏が過ごしやすい所だと答えるだろう。
日本の夏と違って蒸し暑さを感じない。そんな肌に張り付くような暑さではなく、カラっと乾いたような暑さで体感的には随分とこっちの夏は過ごしやすい。
ついこの前まで長袖でもやってこれたし、クーラーや扇風機がなくても汗をかかない。一切不快感がない夏なんて夢のようだ。だけど……
「はぁー、また雨か……」
どうやら本格的に梅雨入りしたようで、ここ三日ほど窓を叩く雨音が途絶えてくれない。そろそろ鬱陶しいと感じる頃合いだ。
最初はやっぱりこっちでも雨が降るんだと感動に近い気持ちだったし、ヘルガも初めて見る雨にテンションが上がっていた。思い返してみればエルフの里は空を覆い隠してしまうほどデカい霊樹の葉っぱに囲われている。
それに風の魔法が使えなかった彼女は他のエルフたちよりも外の世界を見る機会も少なかっただろう。そう考えると微笑ましい。
二日連続で雨が降っても俺は『最近が忙しすぎたんだな……』と自室でレインちゃんにお勧めされた本を読んで時間を潰していた。あんな死ぬほどの目にあってやっと自由な時間の大切さが身に染みて分かった。
夕食後はアリアさんが開催した勉強会にヘルガと一緒に参加した。いや、ほとんど強制参加みたいなものだった……
ヘルガは勉強会に参加中も集中できておらず、ずっと上の空で窓の外で降り続ける雨を見ていた。俺も『さすがに飽きないのか?』と質問をしたが彼女は『全然?』と純粋な笑みで答えてきた。
そして現在三日目連続で雨が降り続けている。昼食の時間に集まってきた面々からもさすがに外に出たいという雰囲気が微かに滲んでいたが、やっぱりヘルガだけはテンションを上げていた。生まれたての赤子のようにすべての出来事が新鮮で楽しめているようだ。きっと彼女の緑の瞳に映る世界は俺たちよりも彩度が高く、輝いて見えるのだろう。
そんな嫉妬すら覚える彼女だが、実は悪い方向に変化が起きていた。本当に外に出なくなったのだ。いや、もちろん屋敷の中はウロウロしているし、俺たちとは変わらずに話している。ただ屋敷の敷地内から外に出ることがなくなったのだ。
屋敷から外へ出なくなったのはとても心配だが、所謂ホームシックみたいにエルフの里に帰りたくなったというわけではないみたいなのだ。
いや、ホームシックでもないのに外へ出なくなった方が解決法が思い浮かばなくて困っているんだけど。早く外でも彼女らしく振舞って欲しいと思いながらも、俺たちは大人しく見守ることを選択した。
俺たちが無理やり外に引きずり出すことはできるが、これは彼女の心の問題だから俺たちには明確に取れる手段がない。だけど、『このままアリアさんの命令に従っていいのか?』と最近疑念を抱いている。
彼女を優しく見守ることはできる、でもそれはエルフの里のみんなとしていることは変わらないんじゃないか?
この気持ちを今度アリアさんとリーネに伝えてみよう。
……あ、そういえば他にも気付いたことがある。
最近の生活を振り返えると男性陣と最低限の会話しかできていない。というか女性陣としかまともに話していないのだ。
いや、それはもう仕方がないことだろう。いつも稽古には付き合ってくれるヒビキは俺がいるいないに関係なく、朝から晩まで屋敷と併設しているあの道場に引きこもっているし、シュテンは飲み仲間たちと夜遅くまで深酒しているせいでいつも昼過ぎに起きて来る。
まあ、航海中はどうしても酒を制限しないといけないし、鬼の友人と会うのもなんやかんや久しぶりなのだと言っていた。語る話が尽きないだろう。
というかこっちに来て本当に鬼が酒を死ぬほど好きなのだと知れた。解像度が上がったと表現してもいいかもしれない。シュテンは酒を浴びるように飲む。給料の半分は酒代で消えているのではないかと考えてしまうほど飲む。あんな生活をしていると人間だったらアル中まっしぐらだ。リーネも心配していたしいくら鬼でもさすがに少しは控えた方がいいと思う……
いや、そう言う意味では海賊が転職なのか?
史実の海賊も酒をよく飲むはずだ。俺の記憶が確かなら大海原を駆ける商船からラム酒を強奪していたとか、酒場で酔い潰れた若者を攫って海賊にしてしまうとか聞いたことがある。たぶん海賊と酒は切っても切れない関係にあると言える。
窓に張り付く雨粒を眺めながらそんなことを考えていると――
「うん?」
ゴン、ゴン、ゴンと力強くドアを叩く音が玄関の方から聞こえて来た。
来客か? こんな雨の日に?
だけど来客のノック音に気づいてしまったのだから対応しないといけない。わざわざこんな小雨の中、この屋敷まで来ているのだ。リーネたちに重要な話があるのかもしれない。
「はーいー! 今開けます!」
階段をいつもよりも気持ち速く下りる。二階に自室があるのでいつもは誰かが俺よりも速く来客に対応してくれるんだから、たまには役に立たないとな。
そう思い俺はガチャリと音を立てて玄関のドアを開く。するとそこには――
「あら、気が利くじゃない。ありがとね、坊や?」
「う、ッうわ!!」
軽く化粧をして、サンバの衣装を身にまとっている。シュテン並みにガタイがいいおじさんが玄関前に立っていた。俺は未知との遭遇に思わず声を出して驚いてしまった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「人の顔を見てあんな声を上げるなんて、まったく失礼しちゃうわね!」
「ごめんね、うちのが……」
「うぅ、本当に失礼しました」
俺の悲鳴を聞きつけて近くにいたリーネとアリアさん、ヘルガの三人が『どうしたの、ジン!?』と駆け付けてくれた。まあ、俺たち二人を見てすぐに状況を理解してくれたみたいだけど。
リーネに案内された応接室で俺たちは長机を挟んで向かい合っていた。
アリアさんが美味しい紅茶を用意している間、俺たち三人でサンバコスチュームに身を包んだこの人を対応しろってことらしい。彼の立場で考えれば俺の第一印象は最悪だろうから、俺はこの場にいない方がいいと思うけどな……
「それで、この粗野な坊やが現世から来たジン君ね」
「あ、そうです」
「そうなの。私の名前は赤羽よ。赤羽正一郎。社交辞令で教えたけど下の名前は嫌いなの。だから、赤羽さんと呼びなさい。あ、恋愛対象は女性だから安心して?」
「ハハハ、本当にすいません」
俺は乾いた笑い声をこぼしながら赤井さんと握手を交わす。さっきの件は俺が全面的に悪かったと思っているけど赤羽さんにも一割ぐらい問題があると思う。なんでそんな恰好をしているんだよ。
ドアを開けると自分よりも頭一つ大きい背丈の男が、おかま口調でサンバ衣装のような服を着て立っているなんてそこらのホラー映画よりもホラー映画みたいな状況だ。しかも、名前は赤羽なのにピンク色の羽を広げているし。
「彼は藤ノ大路に店を構えている呉服屋の二代目よ。ヘンリーが言うにはかなりのやり手らしいわ。藤ノ大路では和服をメインに取り扱っているけど、彼の代になって他の店舗は実験的に和服以外にも手を出し始めたみたいね。まあ、色々試行錯誤をして頑張っている人よ」
「あら、頑張っているなんて嬉しい評価ね。でも、実験的って表現は減点よ。私の試みはすべて結果を出しているもの」
「呉服屋か……」
呉服屋って言い換えれば和服屋みたいなものだったよな。つまり赤羽さんはファッション系の人か。彼の服が変だと思っていたがやっと腑に落ちた。歴史を見ればファッション系や芸術系の人たちは可笑しな奴らが多い。彼もその一人なのかもしれないな……
というかそもそもなんで彼はこんな服装なんだろう。暑いからだろうか?
これは俺の完璧な主観でただの目算になるが、禊木町を行く人は和服を着ている割合が多い。しかし、彼は時代が違うっていうか、国すらも違う。なので気になって仕方がない。
「あのー、聞いていいのか分かりませんし、もし聞いたらダメだったらダメって言ってくれると有難いんですが……赤羽さんはなんでサンバみたいな服を着ているんですか?」
「聞いちゃダメよ」
「……そうなんですか」
いや、気になる! 赤羽さんは先程の意趣返しのつもりなのか『やってやったわ』という笑顔を浮かべている。そんな主張が激しい服を着ているくせに……
「意地悪はダメですよ。それに止めないとその可笑しな格好が赤羽さんの私服だとジン君が誤解してしまうかもしれません。せっかく良識がある方なのにそれはもったいないでしょ?」
アリアさんが「どうぞ」と紅茶が注がれたカップを人数分机に置く。わざわざ人数分用意してくれるなんて流石の気遣いだ。
「……はぁ、これは祭りの衣装よ。近々夏祭りがあるのは知っているでしょう?」
「夏祭り?」
「ちょっと、なんでそんなことも知らないのよ。……まあ、いいわ。細かく話すと長くなるから夏祭りがあるってことだけ覚えてちょうだい。そこでファッションショーがあるの。これはそのサンプルの一つよ。使い道が少ないグリフォンの羽に目を付けたのだけど失敗みたいね。反応が悪いわ」
「え、赤羽さんが出るんですか?」
「……悪気がないのは分かっているけど。ジン君はちょくちょく失礼ね。少し礼儀を身につけなさい。ショー出るのは各自で選んだモデルたちよ。運営の意向でそういう手筈になっているわ」
「結構ガチですね」
「結構どころか、ガチのガチよ! 売名目的の素人もいるけど私たちのとってはただのショーじゃないの。競合相手どもを潰すチャンスなんだから! 一位を取ると商人の命、売り上げが直接変動するの。かと言って出なかったら出なかったで旨みがないし、周りの奴らの『あ、自信がなかったんだ』って態度がが気に食わない。そんな侮辱を受けないためには勝つしかないの!」
「……あの、先に要件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
夏祭りで行われるファッションショーへの意気込みを熱く語る赤羽さんにアリアさんが水を差した。あのままだとテンションが上がった赤羽さんのせいでご近所迷惑になるところだった。いや、屋敷がバカほど広いから大丈夫だろうけど……
「いえ、特に要件はないわ。たまたま近くを通ったから寄っただけよ。まあ、強いて言えば……」
そう言うと赤羽さんはヘルガの方をチラリと見る。その視線に敏感に反応した彼女が注がれた紅茶を手に持って「な、何よ」と遠慮気味に返した。
「やっぱりエルフって肌が綺麗ね。嫉妬しちゃうわ」
「いえ、赤羽さんも綺麗だと思いますよ」
「あら、ありがとう。でも、そうね。正直に言うと我慢ができなかったの。噂になっているヘルガちゃんと話がしてみたくて……」
「え、まさかワタシにその服を……」
「いや、違うわよ。視線を恐がっている娘にそんなこと提案しないわ。それはただのマナー違反だからね」
「……何で」
「『何で知ってるか』って、ヘルガちゃんの状況を考えればわかるでしょう。よほどの馬鹿でもない限りね」
彼の心を読んだかのような返答に一瞬だけ驚いてしまったが、いつも怯えた様子で街を歩き、ついには屋敷の外に出なくなったという情報から考えれを巡らせば自然と彼と同じ考えに辿り着くのか?
「実は今日、私がね。ヘルガちゃんに会いに来たのは、私が立ち上げようとしているファッション雑誌の第一回目のモデルになって表紙を飾って欲しいという打診をしにきたのよ」
「それって夏祭りにモデルとして出るのと同じことなんじゃ?」
「全然違うわよ! 人の噂も七十五日って言うじゃない。でもね、噂っていうのは必ずいつか再燃するの。また、誰かが騒ぎ出したら何人かに一人が追従するもなのよ。だから先手を打たないと……」
赤羽さんはヘルガの反応が渋いことに気が付いたのか、座っているヘルガの目線に合わせてゆっくりと、諭すように優しく話を進めた。
「断ってくれても構わないわ。でもね、ヘルガちゃん。私から一つアドバイスしておくわ。他者の視線なんて気にするだけ無駄よ、それでも黙らせたいのならアピールするの。あなたという存在をこの街の全員に!」
「……」
「好奇の視線を好意の視線に変えるのよ。ヘルガちゃんにはそれができるだけの魅力があるわ! ファッションというのは自分のことを表現する最も手っ取り早い方法よ。そして、私が企画している雑誌はヘルガちゃんという為人を知ってもうのに最も適したツールだと自負しているわ。……まあ、急すぎたわね。今日の所はもう帰るから、考えておいてちょうだい」
赤羽さんは一度だけヘルガの肩に手を置くとあらかじめ用意していたと思われる名刺を渡した。一応俺にも。そしてそのままリーネに頭を下げて一礼するとドアの方へと歩き出した。
「リーネも突然の来訪だったのにありがとうね。迷惑だったでしょう?」
「全然迷惑なんかじゃないわよ。まあ、欲を言えばもうちょっとあなたと話をしたかったわね。だから次はちゃんとしたアポイントを取ってくれると嬉しいわ」
「そうね、次はちゃんと伝えるわ。それじゃあ、またね」
「……待ちなさい! あ、いや。そ、そのモデル?ってのをやってあげてもいいわよ」
「え!?」
ヘルガの予想外の返事に赤羽さんは嬉しそうに足を止めた。いや、実際俺も彼女の口からモデルを引き受けると聞いて驚いていた。俺はてっきり彼女はこの誘いを断ると思っていたし、リーネも、アリアさんも断ると思っていたみたいだ。
「大丈夫なの?」
「……ええ、むしろちょうど良かったわ! このままじゃダメってことは分かってるつもりだし、自分でもなんとかしないとって感じてたしね。せっかくエルフの里から来たんだもの、ワタシだっていつまでも足踏みしたままでいたくないわ!」
ヘルガは俺たちの心配そうな視線を掻き消すように、勢い良く椅子から立ち上がった。やっぱりヘルガは心が強いな……
エルフの里でもそうだった。生まれつきどうにもできない問題に彼女はそれでも諦めずに立ち向かっていた。エルフの魔法が使えないという劣等感に、他のみんなとは違うっていう鬱屈感に、現世の俺は無理だったが彼女は一人で立ち向かっていたのだ。尊敬するべきことだ。
だから、俺もヘルガから街の人々から向けられる奇異の視線が恐いと相談された時に彼女なら乗り越えられるだろうと楽観的に考えてしまったのだ。相談された俺が真っ先に協力しなければ、力を貸さなければいけなかったのに……
「そうなのね! なら、今すぐ撮影しましょう!!」
「え、いや。今からはちょっと……」
「ほら、行きましょう!!」
赤羽さんは彼女の返事を待たずに背中を押して、屋敷からヘルガを外に連れ出してしまった。俺はただ赤羽さんと同じようにすれば良かったんだ。行動すればよかったんだ。こんな簡単なことだったのに俺は何をちんたらと悩んでいたんだろう。
「嵐が過ぎ去ったみたいに静かになりますね。賑やかな二人がいなくなると」
「……心配だな。本当に大丈夫なのか?」
「安心しなさい。彼には良識があるって言ったでしょう。ヘンリーが評価しているぐらいだもの、いくらテンションが上がってるって言ってもヘルガに無茶をさせるようなことはないはずよ」
「まあ、そうか。そうだよな」
俺はリーネのその言葉に納得して、リーネとアリアさんの後に続いて応接室を出た。今は昼過ぎだから、赤羽さんの撮影会が終わってもヘルガは夕食までに戻ってくるだろう。
そんなことを考え、レインちゃんから借りた本を読むために自室に戻った。レインちゃんのオススメだけあって本の内容は文句なしに面白いのに俺は集中できていなかった。心から楽しむことができなかった。
なんで俺は助けになれなかったのか、という小さな後悔が胸に内に生まれたからだ。だから、俺はそれを誤魔化すように本の世界に入りこもうと試みたがどうにも目が滑る。なぜか昨日よりも窓を叩く雨音が煩く感じた。
ヘルガは夕食の時間になっても帰って来なかった。赤羽さんに連れていかれたヘルガが屋敷に帰ってきたのは翌日の太陽が地平線から顔を覗かせる時間帯、つまり完全に朝になってからだった。
俺が洗面台で顔を洗っているとドアが開く音がして、ふらふらと歩く彼女の姿を発見した。俺は倒れそうな彼女に急いで駆け寄ると「……部屋につれてって、疲れたから寝る」と一言だけ残して俺の肩で寝てしまった。
しょうがないと溜息をつくと、俺はぐっすりと寝ているヘルガを彼女の自室にあるベットまで運んだ。この日を境に彼女の中にあったサイクルが崩れて、順調に昼夜が逆転していった。どうやら彼女は完全に引きこもりの世界に片足を踏み入れてしまったみたいだ。
というか赤羽さんも赤羽さんだ。良識ある大人がモデルに無茶させるなよ。
……あ、これは完璧に余談だが赤羽さんがこだわっただけあってヘルガが表紙になった雑誌は重版されるほどの人気となったらしい。俺も見たが『妖精の風』とデカデカと書かれた見出しに、驚くほど美化されたヘルガの写真が乗っていた。
いや、話していると忘れてしまいそうになるがエルフという種族は美男美女の集まりだったな。まあ、問題はヘルガの姿を一目見ようという野次馬が多くできたことだろう。好奇心が再熱したみたいだ。ノギさんの所の警邏団に依頼するしかないとアリアさんがぼやいていたな……
赤羽さんの目論見通り、好奇の視線を好意の視線に変えることには成功したようだ。この再熱している街の人々が大人しくなるまで待てば彼女も外出しやすくもなるだろう。だって、ヘルガを受け入れられる土壌がもう黄泉の国には出来上がっているのだから。これで彼女は街の異物ではなくなったのだ。
彼女は黄泉の国にやってきて一ヶ月近く経過してようやくスタートラインに立てたみたいだ。まあ、あんなに注目される生活には心の底から同情していたが、赤羽さんからモデル料を色を付けてもらい小金持ちになったことだけは、正直ちょっとだけ羨ましかった。