第三十三話 『宴』
リーネとロバーツさんの一声で、宴が始まった。さっきまでヒュドラ討伐の準備をしていたエルフの面々たちは、まるで理解不能な生物を見たかのような顔でこちらを見てくる。その視線に、俺は思わず目を逸らした。やっぱり海賊の船長ともなると、どこか頭のネジが緩んでいるのだろう。いや、もはや外れてしまってるのかもしれない。それほどまでに常軌を逸した、空気の読めない宣言であったと、俺には思えた。
「何考えてんだよ、あの二人は!」
「はっはっは、飲み過ぎだぞ、ジン?」
「飲んでないよ、水しかね!」
いや、どうかしているのは船長だけじゃない。『宴』という単語が聞こえた途端、荷物運びで疲れ切っていたはずの屈強な男たちが、武器を放り投げるような勢いで、酒瓶を手に取り、次々と仲間に振る舞い始めた。その光景は、まるで戦場の前の狂騒のようで、不気味だった。笑い声とアルコールの匂いが混ざり合い、夜のこの森には不釣り合いな熱気が立ち上がる。だから、船員である彼らもやっぱり頭のどこかがおかしいのだ、と思わずにはいられなかった。
「おい、おい、おい、オレへの悪口が聞こえたぜ、ジーン。獣人は耳がいいんだよ」
再び背後から聞こえた酔っ払いの声に俺は緩慢な動作で振り返る。すると、ロバーツさんが酒瓶を片手に上機嫌でこちらに忍び寄ってきていた。彼の息は、酒の匂いでむせ返るほどだった。
「酒臭いな、どんだけ飲んだんだよ。おっ――ロバーツさん!」
「いや、遠慮すんなよジン。オレたちの船長だからな、オッサンって呼んでも良いんだぞぉ? ほら、この眼帯がなければ、どこにでもいるただのオッサンだろ」
「おい、オッサンはそろそろ傷つく歳だからやめろよ! カツキ、オマエもあと十年経つとその言葉がどれだけ鋭いか実感することになるぜー。言ったことは後で必ず自分に返ってくるんだからなー」
ロバーツさんって、もしかしてシュテンと同じ絡み酒タイプか。面倒くさい。正直な気持ち、シュテンの時と、同じノリで『オッサン』って言いそうになってしまった自分が怖い。だって、彼らの雰囲気に片足をどっぷりとつけているようなものに思えたからだ。気をつけないと、着実に彼らのノリに染まってきている。
「それによー。オレがオッサンだったらアリアとエセ侍はどうなるんだよ。アイツらオレが海賊になった時からほとんど年食ってねえぞ。特にアリアだ。あいつはオレがガキの頃から見た目が全く変わってないんだぜ、もう実年齢を考えたらいい年のバ――」
「何か言いましたか、ロバーツ?」
その瞬間、ロバーツさんの背後に、いつの間にかアリアさんが立っていた。背筋が凍る。にっこりと微笑んでいるはずなのに、目だけが笑っていない。むしろ、青い瞳からは『その先を口にしたら殺すぞ』という強い意志が全身から滲み出ていた。ヒビキよりも強い殺気をロバーツさんがは敏感に感じ取ったのだろう。彼はまるで獣に睨まれた小動物のように、静かに口を閉ざした。
「……何でもないよ」
「そうですか。なら、よかったです。ところで……話は変わるんですが、久しぶりに会ったのですから向こうで一緒に飲みませんか? 積もり話もありますし、お酒ならまだまだありますよ?」
「いや、オレは――」
「飲みませんか?」
「……ハィ」
ロバーツさんは自らの失言の代償として、アリアさんにどこかへ連行されてしまった。自業自得だと笑い飛ばしてしまいたいところだが、あのロバーツさんのとても小さな背中を見ていると、なんだか気の毒にはなってくる。というか、アリアさんの怒りという名の火の粉を被りたくない。アセビの時と同じ轍は二度と踏まない。二度と繰り返したくなかった。
「……ああ、なんだ。知ってるか、ジン? 魔法が使える人間は、普通に暮らしている人間よりも肉体的な年を取りにくいらしいんだ」
ロバーツさんの姿が完全に見えなくなったのを見計らったように、カツキがぽつりと話を始めた。
「へぇー、そうなのか」
「ああ、エルフが長命なのは、人間よりも魔法を使うために肉体が進化したとかもって説もある。他にも、未練が強い人だったり、呪具を持っていると歳をとらないって聞いたことがあるな。もっとも、オレも本好きな弟からの又聞きだから、どこまで正確かどうかは怪しいけどな」
「……興味深いな。あ、そうだ。ヒビキに聞こうと思ったんだけどさ、呪具とか神具ってなんなんだよ? 報告会のあとで聞こうと思ってたんだけど、うっかりして忘れてた」
報告会の後、拗ねると面倒くさいヒビキのご機嫌取りを兼ねて、呪具について聞こうと思っていたんだけど、俺が船に戻るとヒビキはもう気にした様子もなく『それよりも見てください、これボクも買ったんですよね。危うく忘れるところでした』と同じような刀を自慢してきた。いや、結局ご機嫌取りのようなことしていたな。
「ああ、えーと。呪具とかの話か。『呪具』っているのは、人でも鬼でもエルフでもドワーフでも、種族問わず作れるもののことだな。『魔剣』っていうのは、古代ドワーフが鍛えた魔法の武器。『神具』は……まあ、それ以外って感じだな」
「……カツキは俺のことをバカだと思ってるのか?」
驚くほど雑な説明だった。子供どころか猿でも理解できそうなほどざっくりとした説明だった。噛み砕いて説明するにしても、限度ってものがあるだろう。なんだか、逆に馬鹿にされている気がして、じわじわと腹が立ってきた。すると、カツキはまるで弁明するかのように、困ったように太い眉毛を下げて、すぐさま口を開いた。
「いや、そうは言ってもな。オレだって詳しくは知らねんだよな。何だっけな……『呪具』っていうのは、確か……持ち主の身体から漏れ出した魔素、いや、魔力だったな。それが長い時間をかけて道具に染み込んで、いつの間にか不思議な力を宿すようになるって話だ。たとえば、ずっと使っていた剣がある日、突然炎をまとったり、持ち主の感情に反応して動いたりするようになる……みたいな。オレたちの身体の中に流れる魔力をずっと吸い続けて、やがて特殊で、独自の力を宿す道具になる。そうして生まれるのが『呪具』ってわけだな」
「そうか……なら、『魔剣』はなんだ?」
「なんか尋問されているみたいで嫌だな。えっと、『魔剣』だったよな。『魔剣』ってのは、古代ドワーフが自分たちの神に捧げるために鍛えた、特別な武器の総称だったはずだ。ただの武器じゃなくて、ドワーフの神々が戦うために魂を込めて鍛えた特別な武器でな。まあ、オレも見たことねぇからただの伝説の域を出ない話だけどな。古代の技術で作られたもんだから、今じゃもう誰にも再現できない失われた技術だと聞いたことがあるな。で、それ以外の誰が作ったかもわからにような得体の知れないブツのことを『神具』って呼ばれているんだ」
「それって、何が違うんだ? 『呪具』や『魔剣』と同じなんじゃないのか?」
「これはオレも詳しくは知らない。『神具』ってのは、『呪具』でも『魔剣』でもない、出自がまったく分からない得体の知れない代物のことだって覚えているな。誰が作ったのかも、どうやって生まれたのかも分からない。けど、確かに存在していて、しかもとんでもない力を秘めているって話だ。これは東から来たって自称してた、ちょっと胡散臭い吟遊詩人の友人から聞いた話なんだけどな……なんでも、ある弓の『神具』は、一射で大型の船が四隻もまとめて沈めたらしい。矢が放たれた瞬間、夜が裂けて、雷炎が同時に降り注いだとか。……まあでも、こういうのはいつの時代も誇張されて伝わるもんだからな。どこまで本当かは怪しい、当てにならない。けど逆に言えば、そういう嘘っぽい話が出るくらいには、『神具』ってのは『呪具』や『魔剣』と比べても桁違いの力を秘めた存在ってこった」
『はっはっは』とカツキは楽しそうに笑った。彼の笑顔にはどこか少年のような無邪気さがあったが、語られた内容はあまりにも現実離れしていて、笑い飛ばすには迫力がありすぎた。だけど彼のおかげで、頭の中で少しずつ整理されていくのを感じた。少なくとも、『呪具』のことさえ覚えればいいってことだけは分かった。カツキは満足げに酒を一口、ぐいと呷った。
「ああ、そういえばヒビキさんが神具を持ってるって聞いたことがあるな」
「はぁ? 船を何隻も鎮められるぐらい物騒なもんを、平然と持ち歩いてるのかち。あのヒビキのバカは?」
カツキが何気なく口にしたその一言で、俺の表情は一変した。目を見開き、眉を顰める。カツキが言い放った衝撃の言葉に、俺の顔が一瞬にして引き攣った。ようやくヤバさが想像できるようになった。その俺の顔を見て、さらにカツキが口元を歪めて笑い始めた。というか、こいつも結構酔いが回ってるな。彼の笑顔は酔いが回った人間特有の妙に楽し気で、少しだけ危なっかしいものに思えた。
「はっはっは、バカか。ヒビキさんにそんなこと言えるのは、修羅道に自ら飛び込むような命知らずだけだな。まあ、ウチの船長だったら、それに加えて『あのエセ侍の見かけに騙されるな。ジジ臭い香水でわざと誤魔化しているが、アイツはクソほど血生臭い。全身に血の匂いがこびりついてやがる。臭すぎて鼻が曲がるつーの』って面と向かって言うだろうな。まぁ、何が言いたいのかっていうと、本人の前で言えるのは命知らずってことだ!」
「エセ侍ですか? 確かにそうかもしれませんね」
「ヤベ……」
「どうしたんですか、カツキ? さっきまで楽しそうにボクの話をしてくれていたじゃありませんか? どうぞ続けてください」
カツキが小さく呟いた。振り返ると、 いつの間にか現れたヒビキがにこやかに、しかし目の奥がまったく笑っていない顔で立っていた。声は柔らかのに、背筋に冷たいものが走る。まるで薄刃の刀を喉元に当てられているような感覚だった。耳元で刃を突き付けられたかのような鋭さに、カツキも一瞬で酔いが醒めたみたいだ。
「あんまりいじめないでくださいよ、ヒビキさん。顔が怖いです」
カツキは引きつった笑みを浮かべながら、じりじりと後ずさった。上機嫌に話している最中に、音もなく、気配もなく、真後ろに立たれるのは恐怖以外の何物でもない。それがよりにもよって聞かれたくない内容だったのだから、カツキの動揺も無理はない。それと今さらだが、胡散臭い笑みを貼り付けているヒビキと、柔和な笑みを浮かべているカツキ。どちらも顔のパーツが整っているが、こうして見比べてみるとかなりタイプが違うな。
「あ、っそうだ。オレはアセビに用事があるんだった。そろそろいかないとな。そういうことなんでじゃあな、お二人さん。仲良くやれよ」
「はい、アセビの足止めをしてくれるなら、さっきのことは聞かなかったことにしてあげますよ? できなかったら――分かってますよね?」
「……では、行ってきます」
カツキは逃げるようにこの場を離れた。その背中には『助けてくれ』という文字が浮かんでいるみたいだったが、俺は見なかったことにした。ヒビキの笑顔にはどこか底知れないものを感じさせたからだ。
「それでいいのかよ。というか、アリアさんもそうだけど、ウチの船ってもしかして地獄耳しかいないのか?」
「失礼ですね。ボクはただ、アリアさんの真似をしてみただけですよ? それに……さっきまでアセビから逃げ回っていたので、カツキがボクの代わりを引き受けてくれるなら、ちょうどよかったかもしれませんね」
ヒビキはそう言うと、俺の隣に腰を下ろした。コソコソと逃げて他のグループに『なぁ、アセビはどこにいる?』と人混みに紛れていくカツキを見届けながら。まるでカツキからバトンを受け取るように、自然な流れで。彼の動きにはいつもながら滑らかで、どこか舞を想起させるような優雅さがあった。その所作のひとつひとつが、まるで計算され尽くしているようで俺は思わず息を呑んだ。
「何でそこまでアセビから逃げてるんだち? もうここまで来たら諦めて結婚した方が楽だろ? 二人の間になにがあったのか知らないけど、純粋にあそこまで想われるのは羨ましいけどな」
「冗談を。ボクはまだ鬼籍に入るつもりはありませんよ?」
ヒビキはまるで天気の話でもするように、さらりとそう言いった。小さな樽のようなジョッキに並々と注がれた琥珀色の酒に口をつけた。そのとき、ふと彼の腰に佩いていた刀が目に入った。鞘に収まっているはずのそれは、まるで静かに眠る獣のような威圧感を放っているように今は思えた。
「気になりますか? やっぱりどんな時代に生きていても男っていう生き物は刀が大好きなんですかね?」
俺は反射的に視線を逸らしたかけたが、ヒビキがその瞬間を見逃すはずもなかった。ヒビキは俺の視線に気付いた途端、からかうような口調でそんなことを言ってきた。俺の反応を観察するように、ヒビキはわずかに身体を傾けてこちらににじり寄ってくる。
「まあ、そうだろうけどさ。……それが噂の『神具』ってヤツか?」
俺の問いに、ヒビキは待ってましたと言わんばかりに目を細め、口元にどこか艶やかな笑みを浮かべた。
「そうですよ。これは『神具』です。かつてシュテンたちが力を合わせて退治した八岐大蛇の尾の身を切り裂くと見つかった刀です」
「それって古事記か何かに登場する天叢雲剣のことか? あれ、草薙剣だったけな。まあ、どっちでもいいか。だけど今は熱田神宮にあるって聞いたんことがあるんだけど」
「はい、たぶんそれです。それのレプリカ……いえ、『失敗作』と呼称するべきでしょうか?」
「――失敗作?」
「はい、これは神が作った『失敗作』です。いや、そうでないと可笑しい」
ヒビキはまるで当たり前のことを騙るように、さらりとそう言い放った。彼の口調には誇張も謙遜もなく、ただ単に事実を述べているという確信があった。俺は思わず眉を顰める。
「話のスケールに俺はもうついていけてないよ。俺の目には、ヒビキの腰についているのはそれは普通の刀にしか見えない。『神具』だの『呪具』だの『魔剣』だと、俺の目には違いがまったく分からないよ」
「なら、ジン君は眼鏡を変えた方がいいですね。今度はちゃんとレンズが入っている眼鏡にです」
「……気付いてたのかよ」
俺はレンズの入っていない眼鏡の位置を直した。ヒビキの言う通り、この眼鏡にはレンズが入っていない。伊達眼鏡だ。なにも価値がないものだ。見た目だけの飾りで、実用性は皆無に等しい。すると、ヒビキはいつもの調子で軽口を叩いてきた。
「はい、それは伊達眼鏡というヤツですよね。眼鏡は男を三分上げると言いますが、ジン君もお洒落に気を遣うんですね。心配しなくとも、ジン君は眼鏡がなくともそこそこ男前だと思いますよ?」
「うん、ありがとう。ヒビキやカツキみたいなヤツに言われても微塵も嬉しくないな。……ただ俺は、皆に真面目って思われたかったからだよ。それ以外の理由は特にないぞ」
「なぜですか?」
ヒビキの声はまるで心の奥をそっと撫でるような柔らかさだった。けれど、彼の奥には確かな好奇心があった。俺から言葉の裏にあるものを引き出そうとしているようだった。期待されても、空っぽの俺からはヒビキの参考になるものは何一つとして出てこないからな。
「……昔から人の視線が怖かったんだよ。なんて思われているか分からなくて、それに真面目ってことしか取り柄がなかったんだ。だから俺は真面目なヤツだって、他の人からもそう見れらたくて、ずっとこの眼鏡をかけているんだ。まあ、気付かれたのは初めてだけどな」
「そうなんですか、ボクには分からない価値観ですね」
ヒビキはそう言って、ふっと笑った。言葉にしてみるとなんだか滑稽に思えてくる。けれど、それが俺の本音だった。この世界で……他人からの評価ですべてが決まるあの世界で、何か一つでも自分を守る仮面が欲しかった。それがたまたま、このレンズ抜きの眼鏡だっただけだ。俺はもうこの眼鏡なくして、他人の瞳をまっすぐ見ることができなくなっていた。
「ああ、それはお互い様だろ。俺はお前らと違ってこんな死ぬかもしれないって時にも酒を飲むなんて考えられない。脳まで酒に侵されてるんじゃないのか?」
「皆、お酒で恐怖を誤魔化しているだけでしょう。化け物と戦えと言われてるんですから、仕方がないです。それに、これが仲間と酒が飲める最後のチャンスだと考えると、はしゃぎたくなる気持ちが少しくらい分かるでしょう?」
ヒビキの言葉はどこまでも達観していた。まるで他人事のようだが、どこか優しさも感じられる。彼の中には他人の感情を理解する共感力と、それを突き放す冷静な知性が同居している。
「……まあ、そうだよな。ごめん、言い過ぎたよ」
「ボクは全然構いませんよ? それに、どうやら君の手の震えも収まってきたようですしね?」
ヒビキは俺の手元を見ながら、穏やかにそう言ってきた。俺も思わず自分の手を見る。自分でも気づかないうちに、指先がかすかに震えていた。これは寒さからでななく、きっと恐怖からだ。意識していなかっただけで、本当はヒュドラ討伐に不安があったのかもしれない。不安が気付かないうちに、俺の身体を震わせていた。
「本当だ、気付かなかった……」
自然と言い訳のような言葉が漏れる。自分の中にあった不安が、こうして誰かに見抜かれることに、何故か少しだけ救われたような気がした。
「………なあ、つまらないことを聞くかもしれないが、ヒビキは、その、怖くないのか? グリフォンのときから思ってたんだけどさ、お前は、ヒビキは、いつも、どこか愉しそうだ」
「怖いですか? まだヒュドラの姿すら見ていないのに?」
「それはそうだけださ。皆、心のどこか恐怖を隠しているんだ。酒を飲むのも、騒ぐのも、今こうして会話をしているのだって、それを誤魔化すためにやっていることだ。でもお前からは、恐怖の気配すら一切感じないんだ」
「ごめんなさい。揶揄いすぎました。でも、そうかもしれませんね、きっとジン君の想像通りですよ。ボクは恐怖を全く感じていません。むしろ、心待ちにしています。今か今かと待ち焦がれているんです」
ヒビキはいつもと変わらず紫陽花のような着物に身を包み、胡散臭い笑みを貼り付けていた。一瞬だけ考えるように目を伏せたが、すぐに顔を上げて、いつもの調子で答える。でも今の彼の言葉の端々には確かな熱が宿っているように俺は感じた。彼の中には、俺たちとは全く違う何かがある。それが何なのか、俺にはまだ分からなかった。
「ジン君は、ボクの夢をもう知っていますよね? 初めて会った時に話しましたから……」
「ああ、確か……えっと。武の道を極めたいとか、なんとか言ってたな?」
「はい。ですが、それだけでは不正解です。もしこれがテストなら、君の今の問いでは八十点が関の山でしょう。惜しいけど、肝心な一門を落としている。ボクが部の道を極めているのはただの手段に過ぎません。ボクが目指しているのは、その先です。……ジン君、ボクはね。神になりたいんですよ」
「はぁ!? お前、いつの間にそんなに頭が悪くなったんだ?」
思わず声が裏返ってしまった。あまりにも突飛な発言を俺は冗談だと思いたかった。けれど、ヒビキは薄く笑いながらも、どこか真面目な目をしていた。彼の目には冗談の余地を一切与えない静かで激しい熱を帯びていた。
「フフフ、失敬ですよ」
ヒビキはこちらの表情を伺うように、ゆっくりと目を合わせてきた。顔をいつもよりも楽しそうに歪ませているが、その瞳はまったく動かない。まるで、俺のすべてを覗き込もうとしているかのように、彼の真っ黒な瞳はじっとこちらを見つめていた。
「ジン君、人が死んだ後でも残せるものは何だと思いますか?」
「お前、前にグリフォンの巣で人は死んだら骨すら残せないって言ってなかったか? それを参考にするなら何も残せないってことになるだろ?」
「あれ、そんなこと言いましたかね? だとしたらジン君を励ますために言ったことでしょう。答えを引っ張っても仕方がないので言いますが、正解は名です。人が後世に唯一残せるものがあるとすれば愛でもお金でもなく、名前です」
「それで?」
「神の正体とは名です。名が神を形作るんです。だからボクも神になれる。自明の理でしょう? そのために必要な次の一歩がヒュドラ討伐です」
「……イカれてるよ、やっぱりヒビキは」
ヒビキの言葉の数々はまるで水面に石を落とすように、俺の心に波紋を広げていった。というか、俺はしばらく返す言葉を失っていた。彼が語った内容が、あまりにも俺の理解の外だったからだ。考えついても、それを実行に移すには勇気とかではなく……やっぱり、頭がイカレていないとダメだ。
「ジン君がボクをイカれてると思うのは、ただ見えているものが違うからですよ。夢の大きさとでも言えばいいんですかね? ペンをとり絵を描くのも、刀を振るうのも、夢に向かって努力するという点では、本質的には全て同じ行為です。ただ違うのは、見ているものの大きさだけです。ほら、町で一番の画家になるのと、世界で一番の画家になるのとでは全く意味合いが違うでしょう? 求められる覚悟も、背負う者も桁違ってきます。目指す高みが違うのなら、その一歩の重みも、意味も、まるで変ってくる。ただしボクが見ているのは、もっと先なんです。だからジン君が、ボクをイカれてると思うなら目指す場所の高さの違いです。ただそれだけのことです」
「それだけって、とてもキツイことだと思うよ。少なくとも俺にはできない」
俺の声は少しだけ掠れていた。彼の言葉はまるで静かに燃える青い炎のようだった。熱を持ちながらも、燃え広がることもなく、ただ一人で激しく燃えている。ヒビキの語る夢は狂気と紙一重だった。彼の芯のある発言に、俺はどこかで引かれている。嫉妬のような気持ちが自分の中にあるのを感じていた。
「ボクは自分のことを信じていますから。ボクの中には、絶対にぶれない一本の芯がある。だから、どれほど身体や心が傷つこうとも、構わず前に進んでいけます。この夢を果たすためならば、ボクは自分の命すら賭けてみせましょう!」
「命すら賭けるって言うのは簡単だろ? というか、具体的には何をどうするんだよ。不敗伝説でも作るのか? 負けたら腹でも切るのかよ。それって、どうやって証明するんだ?」
「ボクはまだ生きていますから、それが不敗の証明です」
俺の軽口を正面から切り捨てるようにヒビキは言った。彼は一切笑わなかった。いつもの軽薄な口調は鳴りを潜め、まるで刃のように鋭く俺の胸に突き刺さった。ただ淡々と事実を口にするかのようで、それがかえって重たかった。彼の瞳はまるで夜の底のように暗く、深く、そして澄んでいた。だから――
「ジン君もボクを笑いますか?」
「……笑わないよ。いや、笑えないって方が正しいか」
声が震える。少しだけ震える。それは恐れではなく、馬鹿を見て嘲るようなものでもなく、もはや敬意に近いものだった。ヒビキの夢は、俺には到底理解できない。けれど、その真剣さだけは、否応なく伝わってきた。そこで俺は、ようやく自身の間違いに気が付いた。ヒビキの夢がどれほど馬鹿げていても、夢のない者が夢のために努力しているものを笑う資格などないことに。
「少々喋りすぎましたかね。どうやら今宵のボクは自分で思っている以上に、酔いが回っているようです」
ヒビキはふっと噴き出すように笑うと、ジョッキの中を覗き込んだ。琥珀色の液体が、魔光石の灯りを受けてきらりと反射するように光る。彼のその笑みはどこか寂し気で、けれど満ち足りてもいた。しばらく二人で沈黙の時間を過ごした。宴の喧騒が、遠くで続いている。笑い声、歌声、酒瓶がぶつかる音。それらが確かに耳に届いている。地続きだ。なのに、俺たちの周囲だけがとても静かで、まるで別の時間が流れているようだった。やがて、ヒビキは静かに立ち上がった。着物の裾がさらりと揺れ、下駄の音が夜の空気にしんみりと溶けていく。
「……もう行くのか?」
「はい、他にも話しておきたい相手がたくさんいるので。ジン君も、早く仲直りをしないといけませんよ?」
「……なんでバレてんだよ」
「岡目八目というやつですかね。傍から見ていたら意外と分かるものですよ。人間関係というのは、雰囲気である程度は分かるものです。でも、そうですね……では、口が軽くなっているついでにアドバイスを一つ。ジン君、頑張り方を間違えたら、一流の原石も磨かなければただの石です。逆に正しい努力をすると泥であっても陶器のように価値が生まれるものなんですよ」
「……結局、ヒビキは何が言いたいんだ?」
「つまりですね、仲直りは早くした方がいいということです。鉄は熱いうちに打て。老い木は曲がらず。喧嘩っていうのは、時間が経つほど後を引くものです。タイミングを逃すと一生ものの傷になると同時にタイミングを活かせば一生ものの親友を得る機会でもありますよ?」
「……ああ、分かってるよ」
ヒビキはいつも通りの胡散臭い笑みを貼り付けたまま、俺の返事を聞いた。そして、カランコロンと下駄を鳴らして、騒がしい宴の中へと走り去ってしまった。遠くから「あ、ヒビキ、見つけたし!」とカツキとアセビの姿が見えた。そのせいだろう。どうやら、彼の逃走劇はまだまだ続いているらしい。
俺は二人がヒビキを追って遠くに行くのを確認した後、ヘルガを探すためにゆっくりと立ち上がった。そして、歩き出す。どこにいるかも分からない。頭では分かっている。でも、心のどこかで彼女と出会うことを望んでいる。その証拠に、俺の足は歩くのを止めてくれなかった。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ジン、あなたも宴を楽しめてる?」
「リーネか。見て分かる通り浮いてるだろ? 学生には場違いってことだ」
「そう? 私は意外と馴染めているように見えたわよ」
ヘルガの姿を探すために大広間に向かっている途中、俺はリーネとばったり出くわした。彼女の姿を見た瞬間、少しだけ気を緩んだ。けれど同時に、ほんのわずかにガッカリしていた自分がいたことに、俺は驚いた。その感情の正体が何なのか、自分でもよく分からなかった。ただ胸の奥に小さな棘のような違和感が残った。
大広間の方へとヘルガが走っていったという目撃情報を頼りに、俺はここまで来た。おそらく、アイツはカーリのことを探しているのだろう。そんな自分勝手な推測を胸にして、取り敢えず情報通りに足を進めていたのだが……リーネはなんでここにいるんだろう?
「ところでジンは、なんでこんな場所に一人でいるの? あっちの方が人が多いわよ?」
「いや、ヘルガを探してたんだよ。ただ、それだけだ。というか、それを言ったらリーネの方もだろ? なんでこんなところにいるんだよ。船からわざわざ持って来た酒は向こうにしか置いていないぞ?」
「私はカーリを探してたのよ。船長として、先に話をしておきたくてね。それに私はお酒っていうのが苦手なのよ。あれって苦いじゃない?」
そう言って、リーネは可愛らしく舌をちょこんと出して見せた。彼女の仕草があまりにも自然で、俺はちょっとだけ目を逸らした。こういう時、どう反応すればいいのか分からないので困る。照れ隠しに、つい余計なことばかり口にしてしまう。
「……ロバーツさんは、むこうで吐くほど酒を飲んでいるぞ?」
「ロバーツはあれでいいのよ。あれが彼の船長としての在り方だから」
リーネはどこか自分の感情を隠すように、けれど穏やかに笑った。彼女のその笑顔は自然でとても温かいものだった。彼女のそういうところが、今の俺には少し眩しく感じられた。
「あ、そうだ。ジンはヘルガを探してるんでしょ? 私もカーリを探すついでに手伝ってあげるわ!」
「……じゃあ一緒に行くか? たぶん大広間だと思うけど」
「いいわよ、じゃあカーリのところまでエスコートをお願いね」
「俺よりも強いくせに、何言ってんだよ」
「……もうっ! 違うでしょ? こういうのは気持ちよ。きもち。相手の行為に気持ちが込められてれば、なんだっていいのよ」
「……はい、はい。バカ言ってないでさっさと行こうぜ」
「あ、もう、待ちなさいよ」
リーネはゆっくりとこちらに手を差し伸べてきたが、俺はそれを無視して歩き始めた。いや、だって恥ずかしい。異性の手を繋ぐのも、握るのも、俺にはとってはハードルが高過ぎる行為だ。それに、どこで誰から見られているのか分からない場所だ。こんなことでシュテンたちに揶揄われるのはごめんだ。
「……? なあ、あれって何をしてるんだ?」
「何よ。ああ、あれね。あれは『エルフの輪』よ」
拗ねるように頬を膨らませながらも、リーネは俺の質問にはちょんと答えてくれた。しばらく二人で歩いていると、不思議な光景が目に飛び込んできた。エルフたちが手を繋ぎ、輪になって焚火をグルグルと円を描くように回っていた。焚火の炎に照らされて、彼らの髪は温かい虹色に輝き、青や緑、金色の瞳が夜の中で幻想的に揺れている。美男美女の集団が唄うように踊っている、彼らの姿はまるで、絵本の中の一場面のようだった。周囲の喧騒を忘れさせるようだ。そこだけが異世界のように静謐で、神聖な空気が漂っていた。俺は思わず息を呑んだ。目の前の光景はきっと、この世のすべての物事を差し置いてでも一見の価値があるだろう。
「エルフって四大精霊を信仰しているのは知ってる? あれは戦いを司る火の精への儀式よ。エルフたちは戦の前日に心に巣食う闇を火で燃やすことで心の闇が浄化されて戦士になるのよ。これで死の恐怖にも臆することなく戦えるらしいわ」
「……臆することなく、ね。なあ、俺があそこに混ざっても大丈夫かな?」
「ダメよ。あそこには人間が嫌いなエルフがたくさんいるわ。なんでわざわざ、こんな人気のないところでこんなことしてると思ってるの?」
確かに、エルフたちの周囲には一人も人間がいなかった。よく見ると、俺たちのことを蔑むように見てきたエルフの男たちの姿もあそこにいた。彼らの視線を思い出し、肩を強張らせる。すると、隣にいたリーネがぽつりと呟いた。
「……カーリの苦労が身に染みるわね」
「そうだな、そうだよな。よし、じゃあ気を取り直してカーリを探そ――」
「何でよ!!」
俺の言葉を、甲高い怒声が遮った。その声に、思わず心臓が跳ねた。ヘルガの声だ。自分に向けられた怒声ではないはずなのに、水場での出来事が脳裏をよぎり、変な汗が背中に伝う。というか単純に、いきなりのことで驚いた。
「なあ、今の……大広間の方からだよな?」
「……そうね。何か起こったのかもしれないし、少しだけ急ぎましょうか」
『エルフの輪』に目を奪われて、本来の目的地から少しだけ逸れてしまっていた。気がつくと、随分と遠ざかってしまった。リーネの言葉に頷くと同時に、オレたちは駆け足で大広間へと向かった。まあ、そうは言っても幸いなことに大広間までは目前だ。距離はほとんどない。すぐに着くはずだ。
「……ドアが開いてるな? 入ってもいいのか?」
「大丈夫よ。何かあっても謝ればいいわ」
三分もかからず、両開きの扉の前に辿り着いた。扉は半開きになっており、中の様子がうっすらと見える。入っていいのか分からない。だから、俺たちは顔を見合わせ、こっそりと頭だけを覗きかせた。そっと覗き込む。まるで悪戯をっしている子供のような気分だった。
「だから、何でワタシがニンゲンたちと同じ中衛なの!? ワタシもエルフよ。前衛にしてちょうだい! 同胞を喰い殺したヒュドラに、目にものを見せてやるわッ!」
「……何度も言っているだろう? これ以上は時間の無駄だ」
怒りに満ちた声が、大広間の中の空気を震わせる。その中心にいるのはヘルガとカーリの二人だけだった。そして、やっぱり怒声を上げているのはヘルガだった。彼女の目は潤み、頬は紅潮している。その姿は怒りというよりも、必死さの裏返しのように見えた。自分の存在を認めて欲しいと、全身で訴えているかのようだった。だが一方、対面しているカーリの声は低く、冷ややかだった。けれど、その奥には、何かを押し殺すような苦しさが滲んでいるように感じられた。
「ワタシのことは心配しないで、足手まといにはならないわ! もしヒュドラにやられることがあったらワタシのことは見捨ててくれて構わないもの」
「……そんなこと出来るわけがないだろう! オマエはワタシの姪だ。ワタシの妹に託された、大切な娘だ! オマエをみすみす死なせる馬鹿な真似をするわけいかない!」
「死ないわ! ワタシは絶対にヒュドラを倒して同胞の敵を討つ! だから安心して、ワタシを前衛に配置してよ、カーリ! みんなはもう覚悟を決めているわ、ワタシ独りだけ戦わないなんてありえないでしょ!」
ヘルガの声は震えていた。それでも必死に気丈に振舞おうとしているのが分かった。痛々しいほどにまっすぐだった。カーリの何かを押し殺していたような声から、一瞬だけ哀しみが溢れた。俺やリーネがいるのに気付いていないのか、二人の言い合いはどんどん白熱していく。俺たちが二人の間に入って止めようかと考えたその瞬間、カーリが一度だけ深く溜息をついた。
「……ならば、はっきりと言ってやろう。貴様は我らと共に戦うには足手まといだ。ワタシは貴様を戦力としては数に入れていない」
「それでも、皆と戦いたいって言ってるの! ワタシもエルフの戦士なんだから!」
「……魔法を使えぬ者を我らは戦士と認めない」
「な、何を言ってるの」
噛みつくような勢いが、カーリの一言によって完全に削がれた。先ほどまでの強気な彼女とは思えないほど、弱弱しく、か細く、頼りない声が聞こえた。ヘルガの顔からみるみるうちに血の気が引いている。紅潮していた頬が青ざめている。まるで何かに怯えているようだ。カーリの言葉は刃のように鋭く、容赦がなかった。いや、まるで次に来る言葉を恐れているようだった。
一方のカーリは、ヘルガの顔を見ないように瞼を閉じた。覚悟を決めるように。そして、もう一度だけ溜息を吐く。既視感を覚えた。何処かで見たことのあるような視線だ。彼女の視線を俺は何処か、何処かで……すると、カーリは怯えたヘルガに向かって容赦なく口を開いた。
「ヘルガ、貴様は四大精霊に愛されていない。ワタシたちとは違い、ヘルガ、オマエは――」
カーリの言葉を最後まで聞くことなく、ヘルガはドアに向かって走り出した。まるで何かから逃げるように。そこで俺たちの存在に初めて気付いたのか一瞬だけ目を大きく見開いた。けれど、何も言わず、ヘルガは俺たちを押し退けるようにして、勢いよく扉を飛び出して、何処かに消えてしまった。触れることすらためらわれるほど、今の彼女は脆く見えた。
「悪い、リーネ、俺が追う!」
「……ええ、それがいいわ。頑張りなさいよ、ジン!」
リーネの励ましを背中に受けて、俺はヘルガの後を追う。人間とエルフが種族の差かは分からないが、彼女の走る速度には到底追いつけそうになかった。追いつけそうにない。追いつけない。それでも、俺は走った。追いつけないと分かっていても、彼女の背中を追いかける。
薄暗いシュティレ大森林を突っ切るように、ヘルガは駆けていく。樹々の間を縫うように、風のように。『どこに向かうか?』『なんで逃げるのか?』頭にはいくつもの疑問が浮かんだ。だけど、それらをすべて押しのけて、俺の中に強く残っていたのはカーリが最後に告げたあの言葉だった。
――ヘルガ、オマエは魔法が使えない。
カーリはヘルガに向けて確かに『魔法が使えない』とそう言ったのだ。彼女の心にどれほどの影を落としたのか。彼女の心をどれほど抉ったのか。俺はまだ何も知らなかった。想像もつかない。だけど、今はただ、彼女の背中を見失わないように必死で走ることしかできなかった。




