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第三十四話 『月が綺麗ですね』


 薄暗いシュティレ大森林の中で、ヘルガの背中を完全に見失った。彼女の背中を追うことに夢中になりすぎて、気がつけばエルフの里からはかなり離れてしまった。見慣れない木々、聞きなれない鳥の声。どこかで見たような光景が、どこまでも続いている。同じような樹々が延々と続くこの森では、方向感覚すら曖昧になる。これ以上先に進めば、迷子になりそうだ。

 

 失敗だ。


 失敗だった。

 

 この森に詳しいホヴズか、最低でも誰かを連れて来るべきだった。一人で追いかけるだなんて、ただの無謀だったのかもしれない。このまま進めば、遭難してしまう。。今はまだ大丈夫だが、これ以上一人っきりで彼女を追いかけえていると、本当に迷子になってしまうかもしれない。つまり、ミイラ取りがミイラになるってやつだ。一度戻るべきか――と、そう思ったが、すぐに打ち消す。やっぱり、彼女のことが心配だ。それに、リーネもこのことを知っているんだ。だから最悪、迷子になっても誰かがきっと助けてくれるはずだ。そんな楽観的な思考に切り替えて、脳の余力を彼女のことに向ける。


 とはいえ、俺とヘルガの関係なんて、二週間前のあれが最後だ。一日だけの関係。それでも今は、どんな些細な手がかりでも必要だった。

 

 記憶を辿る。


 記憶を辿る。


 記憶を辿る。


 だが、何も思い出せない。いや、違う。彼女のことで分かったこともある。気付いたことがあると言った方が正しいかもしれない。俺は、ヘルガが空を飛んだところを見たことがない。たぶん彼女は、他のエルフたちと同じ様に魔法で風を纏って空を自由に飛ぶことができないんだ。今も、空を飛んでしまえば一瞬で姿を消せるはずなのに、彼女は自分の足で走って逃げている。


 恐らくそれが、カーリが言ってた『魔法が使えない』という意味なのかもしれない。でも、俺の記憶が確かなら、ヘルガは光の球体と霧を魔法を使って生み出していたはずだ。初対面のとき、港で魔法を使っていた。この目で、確かに見た。なら彼女もエルフとして魔法を使えているはずだ。それなのに、なんでカーリはあんなこと――


 いや、ダメだ。


 これ以上はダメだ、考えるな。


 これは、昔からの俺の悪い癖だ。


 時間がないのに、余計なことばかりに気を取られてしまう。今は、彼女がどこに向かったのかだけを考えるべきだ。それだけに集中するべきだ。


 もしかしたら、他のエルフの里に向かったのかもしれない。だが、それならもう追いつけない。彼女の姿を見失った俺には、もう追いつくことはできないだろう。だって、他のエルフの里なんて場所すら分からないんだから、追いようがない。もし他のエルフの里に行ったのなら、諦めるしかない。


 あるいは、自分の部屋に引き返したのかもしれない。冷静になって考えたら、彼女の目的はヒュドラ討伐に参加することだ。カーリにもう一度、直談判しに行ったのかもしれない。いや、待て。あのときの彼女は、そこまで冷静ではなかった。それに、あんなことを言われて黙って帰るような性格ではないだろう。明日になっても、怒りが収まるまで戻ってこない可能性もある。


 あるいは、カーリの命令でホヴズや他のエルフのみんなが保護してくれたのかも。エルフの里の絆や結束力はかなり強いように思える。ヘルガの安全を確保するために、誰かが動いてくれてるのかもしれない。可能性はある。でも、もし保護したならば、この笛で合図があるだろう。だが、今いるこの森では何も聞こえない。静かすぎるくらいだ。せいぜい聞こえるのは、樹々の隙間を吹き抜ける不気味な風の音だけだ。だから、まだヘルガは帰っていないはずなんだ。少なくとも、俺はそう思った。


 なら、何処に行った? まだ帰っていないのなら、ヘルガは何処に行ったんだ?


 俺の足りない脳で考えろ。頭をフル回転させて、思い出せ。


 考えろ。


 考えろ!


 考えろ!!


 考えろ!!!


「……水場だ」


 自分の口からぽつりと零れたその言葉を、脳が理解するまで数秒の時間を要した。


「そうだ。そうだ。あの水場だ!」


 口にするたびに、海馬の奥に甘い痺れが広がる。痛いぐらいだ。痛いぐらいに、鮮明に思い出される。あの場所だ。何で、今まで気が付かなかったんだろう。俺がヘルガに言って、喉が渇いたからと連れて行ってもらった場所。一緒に話して、一方的に悩みを聞いてもらって、そして、最後に喧嘩した場所だ。


 いや、きっと俺は気が付いていた。でも、無意識のうちに避けていたのかもしれない。今も、あの水場に行くと考えただけで、気が重くなる。胸が重い。それと比例するように、足も重くなって、思うように動かなくなっていく。俺がヘルガを怒らせたときの表情を思い出して、自分のことが嫌いになる。


 とても痛そうで、涙をこらえるような、あのときの彼女の表情が、脳裏にこびりついて離れない。忘れられない。俺は初めて他人から向けられた明確な怒りという名の感情に、どう対処したらいいのか分からなかったのだ。だから、逃げた。いや、今もずっと逃げ続けている。二週間前の、あのときからだ。だが、こんなことを考えている暇もない。今は、彼女を見つけることが最優先だ。感情が足を止めるだなんて、ただの時間の無駄だ。過去の後悔に囚われている時間なんて、どこにもない。


 だから、俺は一度だけ目を瞑る。


 そして、胸の奥深くに泥のように沈殿していた不安に恐怖、すべての負の感情を、肺の中の空気と一緒に吐き出す。脳に行くはずだった酸素が一瞬だけ失われ、頭が真っ白になっていく。けれど、それがいい。無駄な思考がなくなるだけ好都合だ。思考が消える。今の俺には、それだけが必要だった。


 吐き出して、吐き出して、口をギュッと固く閉ざす。言い訳が口から漏れ出さないように。ぎりっと歯を食いしばる。俺のマイナス思考はすべて吐き出した。弱音を噛み殺した。残っているのは、ただ一つ――勇気だけだ。ヘルガと、喧嘩した相手と、もう一度だけ顔を合わせて話をする勇気だけだ。それが、今の俺を突き動かすただ唯一の燃料だった。


 そこで、俺は目を開く。レンズ越しに映る景色が、いつもよりも少しだけ鮮やかに見えた。視線の先には、水場のある方向。 俺は物音を立てないほど緩慢とした動作で、霊樹から手を離した。凭れ掛かっていた重心をゆっくりと前に移し、自分の両足でしっかりと大地を踏みしめる。土の感触が、靴の裏からじんわりと伝わってくる。冷たい森の空気が、肺の奥まで満ちていく。


 ――そして、走った。


 学校という小さな箱庭の中では、特別速くはなかったが、遅くもなかった。だけど、こっちでは違う。ここでは俺の歩みは、走りはあまりにも遅い。ただでさえ、俺の周りにはヒビキやロバーツさんのような、化け物じみた身体能力を持つ人たちが多い。きっと、俺と比べること自体がもはや失礼で、烏滸がましいことなのだろう。それでも、この足だけは止めるわけにはいかない。止めることができない。だって、止まってしまえば、きっとまた逃げてしまうから。


 走る。


 走る。


 走る。


 ただ、走り続ける。


 息が切れても、足がもつれても、構わない。喉も肺も焼けるように痛い。それでも、構わない。ただ、前へ。ただ、彼女のもとへ。勇気だけを胸に秘め、ヘルガに謝るためだけに、俺は走り続けた。





 ※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※





「はぁ、は、ッ、やっと、見つけ、たぞ」


 呼吸が乱れて、安定しない。言葉が途切れ途切れになる。まあ、それも無理はないだろう。どれだけ走ったか自分でも分からない。かなりの間、走り続けたことだけしか分からない。だが、ひたすらに彼女の背中を追いかけて、追いかけて、ようやくここに辿り着いた。


 雲のように空を覆う葉っぱがなくなり、月が見える場所にまで来た。月光が差し込む。そこは、水場だった。静かな水面に月が映り、風もなく、夜空が遠くで澄んでいる。そんな岸辺に、ぽつんと蹲るようにし割っている彼女の後ろ姿を見つけた。


 俺は、息も絶え絶えのまま咄嗟に声をかけた。そのせいで、口の中に血の味が広がる。舌先で確かめると、出血はなかった。なのに、血の味がするだなんて、人間の身体は本当に不思議だ。


「よう、久しぶりに話すけど……元気、だったか?」


「…………」


 返事はない。聞こえなかったのかもと思い、もう一度声をかけてみる。すると、彼女のちょっぴりと尖がった耳がピコピコと動いた。音に反応している。つまり、聞こえている。どうやら俺の声をわざと無視しているだけのようだ。


「……となり、座ってもいいか?」


「…………」


「だ、黙ってるってことは、別にいいってことか?」


「…………」


「それじゃあ、遠慮なく」


 ようやく呼吸が落ち着いてきた。安定してきた。胸の奥で暴れていた心臓も少しずつ静まっていく。言葉が、ようやくスムーズに発せるようになった。ヘルガはずっと顔を伏せたまま、こちらを見ようとしない。未だに、目すら合わせてくれない。だけど、本当に俺のことが嫌だったら、彼女は顔を上げて文句の一つや二つ言ってくるはずだ。だから、きっと大丈夫だ。たぶん。


「………えっとさ、あ、あの時は悪かったな。ほら、前にここでお前を怒らせただろ? それを、ずっと謝りたくってさ」


 自分でも、何を言っているのか分からない。支離滅裂だった。これが正解かも分からない。だって、仲直りなんて人生で初めてだからだ。喧嘩をするのも、揉めるのも、初めてだったからな。仲直りだなんて初めてに決まっている。


「……あ、でも、ヘルガからしたら今更何言ってんだって感じだよな。やっぱり、すぐに謝りに行くべきだったよなって……今でも、思ってるよ……」


 彼女は何も言わない。俺の言葉にヘルガは何の反応がない。だけど、聞こえてはいるはずだ。だから、そう信じて言葉を続ける。彼女に対して言いたかったことを、本心を、考えていたことを、すべて言葉にする。ゆっくりでも、彼女にしっかり伝わるように。


 だって、自分のことは言葉にしないと伝わらない。絶対に伝わらない。『察して欲しい』なんて贅沢を言うのは、もうやめよう。それが仲直りのための、お互いを理解するための第一歩だと、俺は信じているから。


「……でも俺ってバカだから、ヘルガが何に怒った……いや、傷ついたのか分からなくてさ。ずっと考えてたんだけど、やっぱり何で怒ったかは分からなくて……だ、だから、もう一回ちゃんと話したかったんだ。少しでも、ヘルガのことを知りたいって思って……あ、いや、まずは順番が違ったな。まずは、謝るべきだった」


 暑くないはずなのに、額の汗が止まらない。涙は出ていないはずなのに、声が勝手に震える。緊張のせいだ。だから一度だけ、もう一度だけ、深く息を吸った。落ち着くために、俺はいつもより少しだけ深く息を吸う。肺の奥まで空気を満たして、震える心を無理やり押し込める。そして、そして――


「ごめんなさい。理由はまだ分からないけど。ヘルガを怒らさせたことを、ずっと謝りたかったんだ。本当にごめん……」


 俺は、彼女に向かって頭を下げた。言い訳がましくなってしまったかもしれない。回りくどくて、分かりにくかったかもしれない。でも、それでも、俺の言いたいことは、全部、言えたはずだ。


「……悪かったとは言わないのね」


「……ぇ? ぁ、ああ、どこが悪かったかも分からないのに、そんなことを言ったらもっとイラつくかと思ってな、少なくとも俺はそう思ったから、それにどこが悪いのかは分からないけど、仲直りしたいっていうのは本心だから、だから謝りたかった。えっと、自分勝手で悪いとは今思ってる」


 沈黙が落ちる。彼女の声に反応するのが遅れるほど、俺にとっては長く重い沈黙だった。


「……口が上手いわね」


「……中身がない人間ほど、口が上手くなるんだよ。自分が空っぽだってことに気付かれるわけにはいかないからな。正体を隠すために、口だけはよく動かす。まあ、こっちに来てからは皆にすべて見透かされてるから、説得力なんてないんだけど……」


「……そう、同じなのね。エルフも、ニンゲンも口だけのヤツがいるってところは……」


「……」


「……」


 再び、沈黙が落ちた。気まずい。会話が上手く続かない。何を喋れないいのか、今までは彼女とどうやって会話をしていたかも分からない。だけど、彼女は少しずつ、言葉を返してくれるようになった。口を開くようになっていた。ここで会話を止めたらダメだ。きっと、また遠ざかってしまう。何か話題を、と頭の中で考えていると、水滴が肩に落ちてきた。顔を上げると、月と目が合った。葉っぱの切れ間から月がこちらを覗いていた。


「月が綺麗だな」


「……そうね」


 つい、そんな感想を口をついて出た。無意識だった。夜空に浮かぶ満月が、あまりにも綺麗に見えて、俺は思わずそんな言葉が漏れていた。だけど、彼女が返してくれた一言が心にじんわりと染みた。冷えた空気が、ほんの少しだけ温かくなるのを感じる。


「……」


 シュティレ大森林は、多くの色彩に愛されている。滴り落ちそうな深緑色、瑞々しい若草色、萌黄色に翡翠色、苔色、淡緑色、千歳緑、木賊色――と、ありとあらゆる緑色が、この森には息づいている。緑を表現する言葉が、自然とこの森に集まっているように思えた。そのすべてが、月の光に照らされて、静かなグラデーションを描いていた。ここから見上げる夜空は、以前とは違って見えた。神秘的な美しさを宿しているように思えた。


「……ワタシの方こそ、ごめんなさい」


「えっ! ああ、えぇ?」


 思わず間の抜けた声が喉から出た。驚きが先に立って、上手く言葉が出てこない。まさか、彼女の口から『ごめんなさい』なんて言葉が出てくるとは思わなかった。


「なによ、その反応、ワタシだって謝ることはあるわよ」


「そうなのか、そうだよな。ただ、意外で……」


『ごめんなさい』とヘルガが言ったことに、俺は素直に驚いた。頭のどこかで、彼女の方からその言葉が出るはずがないと思っていたからだ。というか、なんて言うか、意外だった。でも、正直、ちょっとだけ嬉しかった。別に謝られたことが嬉しかったわけじゃなくて、彼女も謝ろうと思っていたという事実が何故かちょっとだけ嬉しかったのだ。


「……フン、気に入らないわね。まあ、いいわ。ワタシに勘違いがあったみたいだけど、あのときの言葉は。全部本心だったから」


「……そっか。なら、まずはお互いの勘違いを、そうなった原因を紐解いていかないか?」


 まだまだ彼女の声もテンションも低く、どこか棘が残っていたけれど、それでも初めて会ったころのヘルガに近づいてきたと思う。それが嬉しくって、自然と笑顔になってしまう。勝手に口角が上がってしまう。すると――


「……ワタシはアンタが魔法を使えるって知らなかったのよ」


 ヘルガがぽつりと小さな声で呟いた。彼女の声はどこか遠くを見つめるように淡く、静かで、強気の彼女とは似ても似つかなかった。


「そのことを聞いたのは、ホヴズからよ。ヒュドラ討伐にニンゲンたちも参加することが決まる少し前にね。ワタシは……なんだがそのことがとても気に食わなかった」


「魔法が使えないからか? いや、間違えた。すまない。えっと、魔法が使えないってのは……風の魔法? 精霊? ってのが、関係しているのか?」


「そうよ。ワタシはエルフに、エルフと言う種族が持つはずだった魔法が使えないの。風の精霊の力だけじゃなくてすべてね。それといまさら気を使わなくてもいいわよ。さっきアンタたちは大広間での話に聞き耳を立てていたでしょ? ちゃんと気付いてたから」


「そのことは……ごめん。盗み聞きする気はなかったんだけど。いや、でも……おかしくないか? 初めて港で会った時の、あれは魔法じゃないのかよ?」


「あれは魔法よ。でもエルフの魔法じゃないのよ」


 ヘルガは頷いた。静かに頷いた。そして、ヘルガは少しだけ顔を上げる。月明かりに照らされた彼女の横顔はどこか寂し気に見えた。


「……ねぇ、知ってる? エルフは昔『風の妖精』と言われていたの。空を、戦場を一方的に支配するその様子から畏怖を込めてそう呼ばれていたそうよ。……そして、ワタシにはできないことよ」


「そうか……気持ちは分かるよ」


「適当なことを言わないで! アンタの話はワタシもホヴズから聞いたわよ。この前の航海では、ずいぶんな活躍だったそうね、ニンゲンたちがアンタの話題で持ち切りになるぐらいには! ニンゲンたちに認められて、魔法が使えて、現世ってところから来た……特別なアンタにワタシの気持ちが分かるわけないでしょ!」


「いや、気持ちは分かるよ。たぶん、誰よりも……」


 アリアさんとの約束も、ホヴズの頼みも関係ない。俺はエルフの里に来てから、ヘルガと出会ってから、ずっと彼女のことが頭の片隅から離れなかった。ずっと謝りたくて、もう一回話したくて、彼女のことを気にかけていた。不思議だったんだ。普段の俺なら、あんな態度のヤツなんて絶対に関わることはなかった。むしろ嫌いになっていただろう。だけど今、やっと分かった。いや、確信した。俺がこの少女を嫌いになれなかったのはきっと――自分に似ていたからだ。


 彼女が、俺と同じ劣等感を抱えていたからだ。ヘルガがニンゲンのことを過剰なまでに見下していたり、馬鹿にしたりする態度の裏側に、弱い彼女自身を隠していたのだ。それがいいことだとは言わない。だが、そうしないと彼女は自分を保てなかったんだ。俺もそうだったからよく分かる。カーリとホヴズの視線に既視感を覚えたのはそれが原因だ。優しいけど、残酷な、あの二人の視線は……現世で俺に向けられたものと同じだった。憐れみ。兄貴と比べて、何もかもが物足りない俺への憐れみの視線。


「……俺さ、兄貴がいるんだ。優秀な兄貴だ。俺なんかとは比べられないぐらいの結果をずっと残してきたんだ。俺が先に始めたものでもすぐに兄貴に抜かされる。容量が良くて、性格も良し、文句を言えないぐらい完璧で、俺はとても尊敬している。それと同じく、いや、それ以上に嫌いな兄貴がいるんだ。あれ、ここでも一回似たような話したっけな?」


「……覚えてないわ、あの時はワタシの秘密がバレたって、怒りで頭が真っ白になっていて話の内容をよく覚えてないの」


「秘密? まあいいか。俺も兄貴との差を明確に意識しだしたのは小学生の中学年ぐらいのころだ。空手の試合で、兄貴よりも先に習っていたはずの空手の大会で、兄貴が初めて優勝したんだ。もともと塾で頭のいい兄貴だって思ってたんだけどさ、勉強以外でもはっきりとした差があるって理解しちまったんだ。そして――」


「……そして、アンタはどうしたの?」


 一度、落ち着くために呼吸を整える。吸って、吐く。この動作を繰り返す。ヘルガの問いかけが、話の続きを促してくれる。俺の中の言葉にならなかった想いを、引き出してくれる。小さく息を吐くと同時に、記憶の奥を辿る。兄貴との差を明確に意識し始めたのは小学生の中学年の頃だったな。当時の俺は、どうしようもない差が兄貴との間にはあると分かっていても、諦められなかったんだ。だから、だから――


「そりゃあ、もっと頑張ったよ。努力したんだ。俺も兄貴より劣ってるなんて認めたくなくってさ、塾でも学校でも、家でもちゃんと勉強するようになった。それに空手教室で他の生徒を押し退けても頼んだよ。先生にもっと教えて欲しいってさ。追い付きたくて頑張って、頑張って、頑張ったけど周りはいつも悪気もなく言って来るんだ。『お前の兄はもっとスゴイかった』ってさ。それで……それで、ついに心が折れてしまったんだ。追いつけないって、頭の作りから違うって、バカな俺でも分かったんだよ。これまでの全てが無駄だったってさ」


「……ワタシはまだ折れてない」


 ヘルガの抗議の声が静かに森に響いた。彼女の発した言葉に、俺は小さく頷いた。


「うん、知ってる。だから俺はヘルガのことをスゴイって心の底から思っているんだ。本当にスゴイよ、お前は。俺はダメだったからさ余計に分かるよ」


「…………」


 ヘルガは何も言わなかった。だけど、その沈黙が否定ではないことを俺は確かに感じ取っていた。言葉を重ねるたびに、胸の奥がじわじわと痛んでいく。言葉にして初めて、自分の中にあった感情の重さに気付く。嫉妬と尊敬がぐちゃぐちゃに絡み合って、ずっと胸の奥に沈んでいた。だけど、それでも話さずにはいられなかった。今、ここで話さなければ、きっと一生後悔すると思った。


「……誰にも言ったことないんだけど、昔から家族団欒ってのが苦手だったんだよ。一緒の食卓を囲むってヤツがさ。父さんも母さんもずっと兄貴の話をするしさ、二人とも俺を見てくれないんだ。一緒の物を食べてるはずなのに、居場所がないって言うのかな? とにかく、遠くに感じるんだ。テレビで意識を逸らしてもすぐに限界が来てさ。だからさっさと食べて、食器をシンクに下げて、部屋に戻るんだよ。そして一人になってようやく『ああ、今日も疲れたな』って、心がゆっくりできるんだ」


「………」


 ヘルガは相変わらず黙っていた。でも、彼女の沈黙は拒絶ではなかった。彼女の気配が、ちゃんと俺の言葉に耳を傾けていることを教えてくれる。


「いや、俺も分かっているんだよ。実はさ。頑張っている過程なんて、誰も見てはくれないし、興味もないんだ。俺もそうだよ。正直、他人がどれだけ頑張っているかなんて、分からない。だけど、俺の周りのヤツらは、俺に興味がないくせに、無責任に言葉だけは投げつけてくるんだ。『お前の兄貴だったらもっとできるはずだ』『お前が兄に負けているのはお前の頑張りが足りないからだ』って感じでさ。でも、これの本当に質が悪いところはさ、俺が頑張ってちょっとした結果を出しても比べられるんだ。同じように、今度は『お前の兄貴ならもっといい結果を残してた』『前よりは良くなってるな、だが油断するなよ。オマエの兄はこの程度では満足しなかったぞ』って。繰り返し、繰り返し、言って来るんだ。ヘルガは覚えがないか?」


「………」


 言葉が、止まらなかった。胸の奥に溜め込んでいたものが、堰を切ったように溢れ出してく。止めようとしても、もう止まらなかった。彼女と俺の間には、確かな共鳴がある気がした。それが、今ならはっきりと分かる。彼女がなんで、あの港でわざわざ俺なんかに話しかけてくれたのか、今なら少し分かるんだ。たぶん、似ていたから。ヘルガは俺に話しかけやすかったんだと思う。俺がヘルガに自分のことを話しやすいのと同じように。全く違うと思っていたのに、根っこにある傷が同じだから、彼女はそれを見抜いて、引き寄せられて、俺に声をかけてきたんだ。だって同じ傷を持っている相手しか、この痛みは分からないからだ。


「その言葉が、浴びせられる言葉の数々がせっかく芽生えた自尊心をすごい勢いで枯らしていくんだ。そして、そのうち自分の中の何かが腐っていくのが分かるんだよ。心の根っこの部分が不貞腐れていくんだ。『いちいちうるさいんだよ』『黙ってくれよ』『発破をかけようとしてくんな』って感じでさ。……でも、本当は分かってるんだ。俺がみんなに期待されないのは、俺がいつも中途半端だからだって、俺が兄貴と同じぐらい、いや、兄貴以上にできたらこんなことは言われてないから、だから、俺が悪いんだよ。母さんも父さんも、友達もみんな俺に期待しないのは当たり前だってことは分かってんだ。もう慣れてるしな、仕方がないってヤツだよ。だけど――」


 そこでもう一度だけ、言葉を止める。呼吸を整えるためにじゃない。これは、俺自身の問題だ。これから俺は、自分の傷を見せる。心の奥底にある瘡蓋を、自分の手で引っぺがす。高校に入学して、やっと治りかけていた。もうずっと昔から炎症を起こして、膿になってしまったその傷を、ヘルガに見せる。


「だけど――」


 声が震える。震えが止まらない。だって、家族にも、友達にも、あいつらにも言ったことがない。俺は今、他人に初めて心の傷を晒す。それが、とても怖い。怖くてたまらない。でも、ヘルガだから。同じ傷があるヘルガだから、俺は言える。この行為には、きっと意味なんかない。ただの傷の舐め合いだ。でも、初めて理解し合えるって思ったから、だから――

 

「やっぱり、期待されないのはつらいよなぁ」


 心の瘡蓋を引っぺがした。じくじくと疼く傷口から、熱が滲み出すような感覚。俺は、今、笑えているだろうか?


 たぶん、無理に笑っているせいで、引きつったような笑顔になっているに違いない。それでも、俺はヘルガに顔を向けて笑わないといけなかった。そうじゃないと、泣いてしまうから。俺の傷の正体は、醜い嫉妬だ。ただの劣等感だった。それが、兄貴と比べられ続けただけで終わった、俺の空虚な人生のすべてだった。


 こっちに来てからも、何も変わってない。きっと、植え付けられたこの傷は消えない。一生、消えることはない。これからも、俺は劣等感という名の傷を引き摺って、引き摺って、生きていく。だけど、それでも――


「頑張ってたんだよなぁ、なんでみんな見てくれないんだろうなぁ」


 結果よりも過程の方が大事なんて、あれはただの子供騙しだ。それは間違いで、結果こそがすべてだって、大人になる前に誰だって気づくことだ。だけど、それでも俺は、過程を、自分の努力を、頑張りを見て欲しかった。俺は、ずっと誰かに認めて欲しかった。一度でいいから褒めて欲しかったんだ。


 昔から、子供の頃からずっと……


 俺は涙をこらえて、そっとヘルガの方を盗み見る。さっきから、彼女の声を聞いていない。まるで眠ってしまったかのように、彼女は静かに口を閉ざしたままだった。だから、不安になってしまった。


 俺の言葉は、ちゃんと届いただろうか?


 俺は、少しでも彼女に伝えることができただろうか?


 自分ではどうしようもない感情の渦を、不安を、抱えたまま、俺はそっとヘルガのことを見る。月明かりの下、彼女は誰にも見られないように、ぎゅっと両膝に顔を埋めたままだった。


 ――ダメだった。伝わらなかった。


 そうやって、諦めかけた瞬間。隣から、すすり泣くような音が聞こえた。震えるような、壊れそうな音。ゆっくりと彼女のことを見る。するとヘルガは、声を押し殺して、静かに泣いていた。涙が頬に伝い、膝の上にぽつり、ぽつりと落ちていく。彼女はまるで、自分のことのように泣いてくれた。いや、違う。彼女は肩を震わせて、傷を抱きしめるように泣いていた。その姿を見た途端、俺は胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


 言葉にならない感情が、心の奥底からせり上がってくる。なぜか、嬉しくかった。だけど、それと同じくらい、どうしようもなく悲しかった。俺の中にあった感情が、彼女の涙に見て、溢れ出した。こらえていたはずの涙が、頬を伝って流れ落ちていく。止めようとしても、止まらなかった。俺も、彼女と一緒に泣いていた。


 周りには、二人以外の生き物の気配はない。宴の喧騒は、もう遠く、ここにまでは届かない。人も、虫も、動物も――すべてが眠っているかのようだ。しんとした夜の空気が、すべてを包み込む。夜の森を深い静寂だけが支配していた。だが、耳を澄ませば確かに聞こえる。少年と少女、二人の押し殺すような泣き声だけが夜の森に溶けていく。まるで森そのものが彼らの涙を受け止めてくれているかのようだった。


 人間の少年と、エルフの少女。種族も、性別も、生きてきた世界も、何もかもが違うはずだった二人。だけど今、彼らはお互いの心を理解していた。共感していた。言葉ではなく、涙で。痛みで。孤独で。悔しさで。そのすべての傷を、二人は分かち合っていた。


 二人は、肩を寄せ合って泣いている。ただ静かに、泣き続ける。互いの存在だけを頼りに、心の奥底にあるものを吐き出す。そこには、何もいらなかった。ただ、二人の涙が語っていた。なんて、美しく、残酷で、優しい光景だろう。だけど、それを見ることができる生き物はどこにもいない。近くには、誰もいない。ただ、月だけが二人のことを見守っていた。


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