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第三十四話 『月が綺麗ですね』


 薄暗いシュティレ大森林の中でヘルガの背中を見失った。

 ヘルガを追うことに夢中になり、エルフの里からはかなり離れてしまった。

 

 失敗だ。


 失策だった。

 

 この森に詳しいホヴズか、誰かを連れて来るべきだった。


 これ以上一人っきりで彼女を追いかけえていると本当に迷ってしまうかもしれない。つまりミイラ取りがミイラになるってことだ。一度戻るべきかとも思ったがやっぱり彼女のことが心配だ。それにリーネもこのことを知っているんだから最悪迷子になっても誰かがきっと助けてくれるだろう。


 そんな楽観的な思考に切り替えて彼女のことに脳の余力を使う。


 しかし、俺とヘルガの関係なんて二週間前のあれが最後だ。

 だけど今はどんな些細な手掛かりでも必要だ。

 

 記憶をたどる。


 記憶をたどる。


 記憶をたどる。


 だが、何も思い出せない。いやでも彼女のことで分かったこともある。気付いたことがあると言った方が正しいかもしれない。


 俺はヘルガが空を飛んだところを見たことがない。たぶん他のエルフたちと同じ様に風を纏って空を自由に飛べないんだ。今も空を飛んでしまえばいいのに、自分の足で走って逃げている。


 それが恐らくカーリが魔法を使えないと言った理由だ。でも俺の記憶が確かならヘルガは光と霧を魔法を使っていたはずだ。初対面の時にここの港で魔法を使っていたのをこの目で見た。なら彼女もエルフとして複数の魔法を使えるはずだ。それなのになんでカーリはあんなこと――


 いや、ダメだ。


 これ以上はダメだ。


 これは昔からの俺の悪い癖だ。


 時間がないのに余計なことばかりに気を取られてしまう。今は彼女がどこに向かったのかだけを考えるべきだ。それだけに集中するべきだ。


 他のエルフの里に向かったのかもしれない。いや、それなら彼女の姿を見失った俺にはもう追い付けないだろう。それに他のエルフの里なんて場所すらも分からない。もし他のエルフの里に行ったのならもう諦めるしかない。


 もしかしたら自分の部屋に引き返したのかもしれない。冷静になって考えたら彼女の目的はヒュドラ討伐に参加することだ。カーリにもう一度直談判しに行ったのかもしれない。いや、待て。彼女はそこまで冷静ではなかった。それにカーリにあんなことを言われて黙って帰るような性格ではないだろう。明日になっても怒りが収まるまで戻ってこないかもしれない。


 カーリの命令でホヴズや他のエルフのみんなが保護してくれたのかも。エルフの里の結束力はかなり強いように思える。ヘルガの安全を確保するために動いてくれてるのかもしれない。いや、保護したならばこの笛で合図があるだろう。だが今いるこの森では何も聞こえない。静かすぎるぐらいだ。だから、まだヘルガは帰っていないはずなんだ。


 なら何処に行った? まだ帰っていないのならヘルガは何処に行ったんだ?


 俺の足りない脳で考えろ。頭をフルに使って考えろ。


 考えろ。


 考えろ!


 考えろ!!


 考えろ!!!


「……水場だ」


 自分の口からポツリと零れたその言葉を脳が理解するまで数秒の時間を要した。


「そうだ。そうだ。あの水場だ!」


 口にするごとに海馬に甘い痺れが広がる。痛いぐらいだ。

 なんで今まで気が付かなかったんだろう。


 俺がヘルガに喉が渇いたからと連れて行ってもらい、一緒に話して、悩みを聞いてもらい、そして最後に喧嘩した場所だ。


 いや、俺は気が付いていたが無意識の内に避けていたのかもしれない。今もあの水場に行くと考えただけで気が重い。それと比例するように足も重くなって思うように動かなくなっていく。俺がヘルガを怒らせたときのあの表情を思い出して、自分のことが嫌いになる。


 とても痛そうで、涙をこらえるようなあの表情が脳裏にこびりついて忘れられない。俺は初めて他人から向けられた明確な怒りという名の感情にどう対処したらいいのか分からなかったのだ。だから逃げた。いや、今もずっと逃げ続けている。二週間前のあのときからだ……


 だが、こんなことを考えている暇もない。ただの時間の無駄だ。


 だから、俺は一度だけ目を瞑る。


 そして胸の奥深くに泥のように沈殿していた不安に恐怖、すべての負の感情を肺の中の空気と一緒に吐き出す。脳に行くはずだった酸素がなくなり、頭が真っ白になっていく。無駄な思考がなくなるだけ好都合だ。


 吐き出して、吐き出して、口をギュッと固く閉ざす。


 言い訳が口から漏れ出さないように歯を食いしばる。


 俺のマイナス思考はすべて吐き出し、弱音を噛み殺して、残っているのは勇気だけだ。ヘルガともう一度だけ顔を合わせて話をする勇気だけだ。


 そこで俺は目を開く。レンズ越しに見ていたのは水場がある方向だ。

 

 俺は物音を立てないほど緩慢とした動作で霊樹から手を離す。凭れ掛かっていた重心を元の位置に戻して、自分の両足でしっかりと大地に立つ。


 そして走った。学校という小さな箱庭では特別速くはなかったが、遅くもなかったはずなのにこっちではむしろ遅すぎるぐらいだろう。ただでさえ俺の周りにはヒビキやロバーツさんなど化け物並みに動ける人たちが多いのだ。きっと俺と比べるのも失礼で、烏滸がましいことなのだろう。


 だけど走っているこの足だけは止めない。止めることができない。


 走る。


 走る。


 ただ走り続ける。


 勇気だけを胸に秘めて、ヘルガに謝るためだけに走り続けた。




 ※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




「はぁ、は、ッ、やっと、見つけ、たぞ」


 呼吸が安定しない。まあ、それも無理はないだろう。

 かなりの間走り続けた。やっと雲のように空を覆う葉っぱがなくなり月が見える場所にまで来た。水場だ。そこで蹲っている彼女の後姿を見つけて声を掛けた。


 息も絶え絶えの中、言葉を発したせいなのか口内から僅かに血の味がする。


「よう、久しぶりに話すけど、元気、だったか?」


「…………」


 聞こえなかったのかもと思いもう一回声を掛けてみるとちょっぴりと尖がっている耳がピコピコと音に反応して動いている。どうやら俺のことをわざと無視しているだけのようだ。


「となり、座ってもいいか?」


「…………」


「黙ってるってことは別にいいってことか?」


「…………」


「それじゃあ、遠慮なく」


 だんだんと呼吸が安定してきた。言葉がスムーズに発せるようになった。


 ヘルガはずっと蹲ったまま顔を伏せているので未だに目すら合わせてくれない。だけど本当に俺のことが嫌だった彼女は顔を上げて文句の一つぐらい言うだろう。だからきっと大丈夫だ。たぶん…


「………えっとさ、あ、あの時は悪かったな。ほら前にここでお前を怒らせただろ? それをずっと謝りたくってさ」


 自分でも何を言っているのか分からない。これが正解かも分からない。だって仲直りなんて人生で初めてだからだ。


「……あ、でも、ヘルガからしたら今更何言ってんだって感じだよな。やっぱり、すぐに謝りに行くべきだったよなって……」


 俺の言葉にヘルガはずっと反応がない。ただ聞こえてはいるはずだ。そう信じて言葉を続ける。彼女に対して言いたかったことを、本心を、考えていたことをすべて言葉にする。ゆっくりでも彼女にしっかり伝わるように……


 だって自分のことは言葉にしないと伝わらない。察して欲しいなんて贅沢を言うのはもうやめよう。それが仲直りのための、お互いを理解するための第一歩だと俺は信じているから。


「……でも俺ってバカだから、ヘルガが何に怒った、いや、傷ついたのか分からなくてさ。ずっと考えてたんだけどやっぱり何で怒ったかは分からなくて、だから、もう一回話したかったんだ。少しでもヘルガのことを知りたいって思って、あ、いや、まずは順番が違ったな。まずは謝るべきだった」


 暑くないはずなのに額の汗が止まらない。涙は出ていないはずなのに勝手に声が震える。だから一度落ち着くためにも俺はいつもより少しだけ深く息を吸う。そして――


「ごめんなさい。理由はまだ分からないけど。ヘルガを怒らさせたことをずっと謝りたかったんだ。本当にごめん……」


 ヘルガに向かって頭を下げた。言い訳がましくなってしまったかもしれない。回りくどくて分かりにくかったかもしれない。でもヘルガに言いたいことは全部言えたはずだ。


「……俺が悪かったとは言わないのね」


「……ああ、どこが悪かったかも分からないのに、そんなことを言ったらもっとイラつくかと思ってな、少なくとも俺はそう思ったから、それにどこが悪いのかは分からないけど、仲直りしたいっていうのは本心だから、だから謝りたかった。えっと、自分勝手で悪いとは今思ってる」


 沈黙がしばらく続いていた。彼女の声に反応するのが遅れるほど長かった。


「……口が上手いわね」


「……中身がない人間ほど口が上手くなるんだよ。自分が空っぽだってことに気付かれるわけにはいかないからな。正体を隠すために口だけはよく動かす」


「……そう、同じなのね。エルフも、ニンゲンも口だけのヤツがいるってところは……」


「……」


「……」


 再び沈黙が続いた。気まずい、会話が上手く続かない。だがしかし、彼女は徐々に口を開くようになっていた。ここで会話を止めたらダメだ。『何か話題は…』と頭の中で考えていると水滴が肩に落ちてきた。それにつられるように頭を上に向けると月と目が合った。


「月が綺麗だな」


「……そうね」


 つい、そんな感想を口からこぼしていた。無意識だった。


 シュティレ大森林は多くの色彩に愛されている。滴り落ちそうな深緑色、瑞々しい若草色、その他にも萌黄色に翡翠色、苔色、淡緑色、千歳緑、木賊色とありとあらゆる緑色を表現する言葉がここに集まっているかのようだった。それがさらに満月の光にグラデーションされていて、ここから見上げる夜空は以前とは異なる神秘的な美しさを宿しているように思えた。


「…ワタシの方こそ、ごめんなさい」


「え! ああ、え?」


「なによ。その反応、ワタシだって謝ることはあるわよ」


「そうなのか、そうだよな。ただ意外で……」


『ごめんなさい』とヘルガが言ったことに驚いた。頭のどこかで彼女からその言葉が出るはずがないと思っていたからだ。というか、なんて言うか、意外だった。


「……フン、気に入らないわね。まあ、いいわ。ワタシに勘違いがあったみたいだけど、あのときの言葉は全部本心だったから」


「……そっか、ならまずはお互いの勘違いを、そうなった原因を紐解いていかないか?」


 まだまだテンションは低いが初めて会ったころのヘルガに近づいてきたと思う。それが嬉しくって笑顔になってしまう。勝手に口角が上がってしまうのだ。


「……ワタシはアンタが魔法を使えるって知らなかったのよ。そのことを聞いたのはホヴズからだった。ヒュドラ討伐にニンゲンたちも参加することが決まる少し前にね。ワタシはなんだがそのことがとても気に食わなかった」


「魔法が使えないからか? いや、間違えた。すまない。えっと、魔法が使えないってのは風の魔法? 精霊? ってのが関係しているのか?」


「そうよ。ワタシはエルフに、エルフと言う種族が持つはずだった魔法が使えないの。風の精霊の力だけじゃなくてすべてね。それといまさら気を使わなくてもいいわよ。さっきアンタたちは大広間での話に聞き耳を立てていたでしょ? ちゃんと気付いてたから」


「そのことはごめん、盗み聞きする気はなかったんだけど。いや、でもおかしくないか? 初めて港で会った時のあれは魔法じゃないのかよ?」


「あれは魔法よ。でもエルフの魔法じゃないのよ。……ねぇ、知ってる? エルフは昔『風の妖精』と言われていたの。空を、戦場を一方的に支配するその様子から畏怖を込めてそう呼ばれていたそうよ。…そしてワタシにはできないことよ」


「そうか、気持ちは分かるよ」


「適当なことを言わないで! アンタの話はワタシもホヴズから聞いたわよ。この前の航海ではずいぶんな活躍だったそうね、ニンゲンたちがアンタの話題で持ち切りになるぐらいには!」


「いや、気持ちは分かるよ。たぶん、誰よりも……」


 アリアさんとの約束も、ホヴズの頼みも関係ない。


 俺はエルフの里に来てから、ヘルガと出会ってからずっと彼女のことが頭の片隅から離れなかった。ずっと謝りたくて、もう一回話したくて、彼女のことを気にかけていた。


 不思議だったんだ。普段の俺ならあんな態度のヤツなんて絶対に関わることはなかった。むしろ嫌いになっていただろう。だけどやっと分かった。いや、今確信した。俺がこの少女を嫌いになれなかったのは、きっと自分に似ていたからだ。 


 俺と同じ劣等感を抱えていたからだ。ヘルガがニンゲンのことを過剰なまでに見下していたり、馬鹿にしたりする態度の裏側に弱い彼女自身を隠していたのだ。それがいいことだとは言わない。だが、そうしないと彼女は自分を保てなかったんだ。俺もそうだったからよく分かる。


「俺さ、兄貴がいるんだ。優秀な兄貴だ。俺なんかとは比べられないぐらいの結果をずっと残してきたんだ。俺が先に始めたものでもすぐに兄貴に抜かされる。容量が良くて、性格も良し、文句を言えないぐらい完璧で、俺はとても尊敬している。それと同じく、いや、それ以上に嫌いな兄貴がいるんだ。あれ、ここでも一回似たような話したっけな?」


「……覚えてないわ、あの時はワタシの秘密がバレたって、怒りで頭が真っ白になっていて話の内容をよく覚えてないの」


「秘密? まあいいか。俺も兄貴との差を明確に意識しだしたのは小学生の中学年ぐらいのころだ。空手の試合で、兄貴よりも先に習っていたはずの空手の大会で、兄貴が初めて優勝したんだ。もともと塾で頭のいい兄貴だって思ってたんだけどさ、勉強以外でもはっきりとした差があるって理解しちまったんだ。そして――」


「……そして、アンタはどうしたの?」


 一度落ち着くために呼吸を整える。その間に途切れてしまった話をヘルガが早く続きを話せと催促してくる。


「そりゃあ、もっと頑張ったよ。努力したんだ。俺も兄貴より劣ってるなんて認めたくなくってさ、塾でも学校でも、家でもちゃんと勉強するようになった。それに空手教室で他の生徒を押し退けても頼んだよ。先生にもっと教えて欲しいってさ。追い付きたくて頑張って、頑張って、頑張ったけど周りはいつも悪気もなく言って来るんだ。『お前の兄はもっとスゴイかった』ってさ。それで、ついに折れてしまったんだ。追い付けないって、頭の作りから違うって、バカな俺でも分かったんだよ。これまでの全てが無駄だったってさ」


「……ワタシはまだ折れてない」


「うん、知ってる。だから俺はヘルガのことをスゴイって心の底から思っているんだ。本当にスゴイよ、お前は。俺はダメだったからさ余計に分かるよ」


「…………」


「誰にも言ったことないんだけど、昔から家族団欒ってのが苦手だったんだよ。一緒の食卓を囲むってヤツがさ。父さんも母さんもずっと兄貴の話をするしさ、二人とも俺を見てくれないんだ。一緒の物を食べてるはずなのに、居場所がないって言うのかな? とにかく遠くに感じるんだ。テレビで意識を逸らしてもすぐに限界が来てさ。だからさっさと食べて、食器をシンクに下げて、部屋に戻るんだよ。そして一人になってようやく『ああ、今日も疲れたな』って心がゆっくりできるんだ」


「………」


「いや、俺も分かっているんだよ、実はさ。頑張っている過程なんて誰も見てはくれないし、興味もないんだ。俺もそうだよ。正直誰がどれだけ頑張っているかなんてわからない。だけど俺の周りのヤツらは興味がないくせに無責任に言葉だけは投げつけてくるんだ。『お前の兄貴だったらもっとできるはずだ』『お前が兄に負けているのはお前の頑張りが足りないからだ』ってな感じにさ。だけどこれの本当に質が悪いところは俺が結果を出しても比べられるんだ。同じように『お前の兄貴ならもっといい結果を残してた』『前よりは良くなってるな、だが油断するなよ。オマエの兄はこの程度では満足しなかったぞ』って繰り返し、繰り返し、言って来るんだ。ヘルガは覚えがないか?」


「………」


 彼女がなんであの港でわざわざ俺なんかに話し掛けて来たのか今なら少しわかる。たぶん似ているから、ヘルガは俺に話し掛けやすかったんだ。俺がヘルガに自分のことを話しやすいのと同じように、全く違うと思っていたのに根っこにある傷が同じだから、彼女はそれを見抜いて話し掛けてきたんだ。


「その言葉が、浴びせられる言葉の数々がせっかく芽生えた自尊心をすごい勢いで枯らしていくんだ。そして、そのうち自分の中の何かが腐っていくのが分かるんだよ。心の根っこの部分が不貞腐れていくんだ。『いちいちうるさいんだよ』『黙ってくれよ』『発破をかけようとしてくんな』って感じでさ。……でも、本当は分かってるんだ。俺がみんなに期待されないのは、俺がいつも中途半端だからだって、俺が兄貴と同じぐらい、いや、兄貴以上にできたらこんなことは言われてないから、だから、俺が悪いんだよ。母さんも父さんも、友達もみんな俺に期待しないのは当たり前だってことは分かってんだ。もう慣れてるしな、仕方がないってヤツだよ。だけど――」


 そこでもう一度だけ言葉を止める。呼吸を整えるためにじゃない。


 俺自身の問題だ。これから俺は傷を見せる。心の奥底にある瘡蓋を引っぺがす。高校に入学してやっと治りかけていた、もうずっと昔から炎症を起こして、膿になってしまったその傷をヘルガに見せる。


「だけど――」


 声が震える。家族にも、友達にも、あいつらにも言ったことがない。俺は他人に初めて心の傷をさらす。それがとても怖い。でもヘルガだから、同じ傷があるヘルガだから俺は言える。この行為にはきっと意味なんかない。ただの傷の舐め合いだ。でも、初めて理解し合えるって思ったから、だから……

 

「やっぱり、期待されないのはつらいよなぁ」


 心の瘡蓋を引っぺがした。


 俺は笑えているだろうか?


 たぶん無理に笑ったせいで引きつったような笑顔になっているに違いない。それでも俺はヘルガに顔を向けて笑わないといけなかった。そうじゃないと泣いてしまうから。


 傷の正体は醜い嫉妬だ。ただの劣等感だった。


 それが兄貴と比べられ続けただけで終わった俺の空虚な人生のすべてだった。


 こっちに来てから何も変わってない。


 きっと植え付けられたこの傷は消えない。


 これからも俺は劣等感という名の傷を引き摺って、引き摺って生きていく。だけど、それでも――


「頑張ってたんだよなぁ、なんでみんな見てくれないんだろうなぁ」


 過程の方が大事なんてただの子供騙しだ。それは間違いで、結果こそが全てだって、大人になるとすぐに気づくことだ。だけど、それでも俺は過程を、俺の努力を、頑張りを見て欲しかった。


 俺はずっと誰かに認めて欲しかった。一度でいいから褒めて欲しかったんだ。


 昔から、子供の頃からずっと……


 俺は涙をこらえてヘルガの方を盗み見る。


 さっきから彼女の声を聞いていない。眠ってしまったかのように静かなままだった。だから、不安になってしまった。


 俺は少しでも彼女に伝えることができただろうか?


 そんな不安を抱えたままヘルガのことを見る。だが、彼女は誰にも見られないように両膝に顔を埋めたままだった。


 ――ダメだった。伝わらなかった。


 そうやって諦めかけた瞬間、隣からすすり泣くような音が聞こえた。ゆっくりと彼女のことを見るするとヘルガは声を押し殺して静かに泣いていた。自分のことのように泣いてくれた。


 それがなぜか嬉しくて、同時にとても悲しくて、俺も彼女と一緒に泣いていた。こらえていたはずの涙がが溢れだしていた。


 周りには二人以外の生き物の気配はない。


 宴の喧騒は離れてしまいここまで届かない。人も、虫も、動物もすべてが眠っているかのような静寂だけがこの場を支配している。


 だが、耳を澄ませば確かに少年と少女の泣き声だけが響いていた。


 人間の少年とエルフの少女、種族も、性別も、何もかもが違うはずだった二人はお互いの心を理解していた。共感していた。


 そんな二人が肩を寄せ合って泣いている。なんて美しく、残酷で、優しい光景だろうか。しかし、それを見ることができる生き物はいない。


 ただ、月だけが二人のことを見守っていた。


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