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第百話  『旗さんと』


 ヘルガとニックの二人が激しくぶつかり合ってから、数時間が経過した。言い争いの……喧嘩の残滓が薄く漂っている状態だ。誰も口には出さないが、張り詰めた糸のような緊張が、洞窟内の空気そのものを引っ張っているかのようだった。そんな現実から逃げるように、俺は深い眠りへと沈んで行った。夢の国に旅立った。夢の国は現実のざらつきを忘れさせてくれる唯一の避難場所だからだ。意識がゆっくりと闇の底に溶けていき、心臓の音すらも遠ざかっていく。静寂。だが、その安らぎは長く続かなかった。


「おい、ジン。起きろよ、交代の時間だぞ?」


 肩を揺さぶられ、俺は現実へと引き戻された。アンゴの手が、俺の身体を激しく揺らしている。一瞬だった。俺が意識が飛んだ一瞬の間に、見張りの時間になったようだ。アンゴに叩き起こされた。精神も身体もまだ休息を必要としている。その証拠に、眠気がまだ頭にまとわりつき、視界がぼんやりと滲んでいた。だが、交代の時間だ。寝惚けるわけにはいかない。これ以上、皆を刺激するのはよくない。洞窟の奥で、焚火の優しい明かりが揺れていた。虫を誘う灯りのようだ。俺はその光に吸い寄せられるように、ふらふらと立ち上がった。引き寄せられる。足元が覚束ないまま、俺はその光へ向かって歩を進めた。すると――


「今日はジン君とペアだね?」


 焚火の傍で座っていた旗さんが、穏やかな声でそう告げてきた。俺と旗さんが見張りをすることは、ご飯を食べた後に決めたことだから、彼は俺との会話のフックが欲しかったのだろう。マイペースなのか、年の功なのかは不明だが、彼は気性が激しく上下することがない。荒れることがない。だから、一緒にいて気が楽だ。ローブさんもカツキも同じ理由で、傍にいると安心できる存在だった。不思議と気が楽になる。


「……はい、よろしくお願いします」


「いやいや、そんなに畏まらないでよ。何か、こっちまで緊張するじゃん。自分なんて無駄に年を取ってるだけで……若い君たちと比較しても、そんなスゴイ人ってわけでもないんだからさ? むしろ、若い子と話す話題がまったくなくて困ってるだけのオジサンなんだから」


 俺はおずおずと旗さんの隣へと腰を下ろした。気が楽になるが、ほとんど話したことがない人物と二人きりだと緊張してしまう。眠気の残る身体にじんわりと炎の温もりが染み込んでくる。その正反対の気持を、心と体の乖離を抱えたまま、俺は黙って焚火の揺らめきを見つめていた。話題がない。すると、旗さんがぽつりと口を開いた。


「……そういえば……今日は、ケルベルスに襲われなかったね?」


 気まずい沈黙に耐えきれなくなったみたいだ。同意を求めるような声色。正直、眠った頭で話題を探すことは難しかったのでありがたかった。旗さんが言うように、俺たちはケルベルスに襲われなかった。それは朗報だ。誰一人、傷つく人がいなかった。朗報だ。なのに、そのはずなのに、嫌なことばかりが頭に浮かんでしまうのは俺の心が弱いせいなのだろうか。だから、そのことを正直に口にしてみることにした。


「それは……良いことなんですけど。やっぱり、怖いですよね」


「怖い? 何で?」


「だって、ケルベルスがいなくても俺たちがずっと周囲を警戒しないといけないのは変らないじゃないですか? 神経を尖らせているせいで、ニックやヘルガみたいな目には見えない負担が皆の心に積み重なっているし。それに……気が緩みそうになってる自分がいるんです。アサヒが昨日、血を流したはずなのに、今日が襲われなかっただけで気が緩みそうになっていたんです。後、六日あるんですよ? それが一番、怖いです」


「まあ、人間は忘れることができることが強みだからね。気が緩むのはしょうがないと思うよ?」


「いや、でも……それに――」


「それに?」


「……やっぱり、何でもないです」


 胸の奥にこびりついた嫌な影を必死に振り払う。マークさんたちのことだ。ケルベルスが襲ったのが俺たちじゃなくて、マークさんたち一行なんじゃないかという黒い邪推。口に出すにはあまりにも後ろめたくて、羽田さんにまで背負わせるわけにはいかない。これ以上、旗さんに迷惑をかけるわけにはいかない。だから、飲み込んだ。喉がひくひくと揺れる。だが、旗さんは俺の考えていることを察したみたいだ。心の内側を見透かしたかのように、目を細めた。


「あー、もしかして……マークたちのこと?」


「え、な、何で?」


「あー、なるほど。ジン君は、そう考えてしまうタイプなんだね。なるほど……なるほどね」


 旗さんは俺の疑問に答えてはくれなかった。ただ焚火の炎を見つめながら、ゆっくりと、何度も頷いた。彼の声は責めるでも否定するものでもなく、ただ受け止めるような響きだった。


「旗さんは考えないんですか? マークさんたちのことを……」


「考えていないよ? ボクが考えているのはどうやって生きて帰ろうかなー、ってことくらいだね」


「……ッ! カツキにも思ったんですけど……何でそう簡単に受け入れることができるんですか? 俺は、できません!」


 声が震えた。叫びそうになったのを無理やり押さえ込んだ。寝ている皆を起こす可能性があったからだ。だから、ズボンの布を握ることで耐えた。俺の心は、むしろニックの方に近かった。ヘルガに八つ当たりをするのは違うとは思ったが、カツキや旗さんよりも俺はニックの意見の方が共感できるくらいだ。しっくりとくる。俺はまだ、マークさんたちのことやクックのことも心の整理つけることができていない。心配で、不安で、しかたない。頭も心も、命が危険に晒されることで炙られて、強引に冷静という名の衣をつけることができているだけだ。中身はまだ、ぐちゃぐちゃだった。そんな俺を見て、旗さんは天井を見上げるように視線を上げた。少し考え込むような間を置いた。そして――


「うーん、たぶんだけど、カツキもボクもオッサンだからじゃないかな?」


「オッサンって、旗さんだけじゃなくて……カツキもですか?」


「……ジン君って、真面目だと思っていたけど、意外と失礼なんだね。そうだよ、カツキも中身はボクと同じでオッサンだよ。悩んでいる若者にアドバイスをあげたいって考えが浮かんだ時点で、そいつの心はもうオジサンに片足を突っ込んでいるんだ。だから、カツキは立派なオジサンさ?」


 旗さんはわざとらしく肩を落としてみせた。落ち込んでいるようにも見えるが、焚火の炎に照らされた旗さんの表情は柔らかかった。そして、俺の反応を待たず、彼は言葉をさらに重ねる。


「『割り切れる』っていうのかな……大人になって色々なことを経験していくとね。どうしようもないことが目の前で起きても『まあ、起こったことはしかたないなぁー』なんて思うようになっちゃうんだよ。理不尽を前にしても怒ることが億劫になっちゃってさ……でも、想うことがないわけじゃないんだ。マークたちも生きて帰れたらって、本心からそう思ってる。だから、カツキ君が口にしていた『割り切れる』っていう表現が適切なんだよ」


「……俺が子供だって……いいたいんですか?」


 分かっている。分かってるんだ。旗さんはそんなことを言うつもりがないってことは、頭では理解している。それくらいの理知はまだあるつもりだ。でも何故か、気に食わなかった。理由は分からないが、幼稚な感情が口から突いて出たことは察した。すると、旗さんは困ったように眉を寄せ、優しい声音で再び続けた。


「うーん、そう考えちゃうよね。今の言い方だと。でも、そうかもね。まあ、これは精神的なものよりも、年齢的なものだからどうしようもないことだよ。でもね、ボクはジン君はまだそれでいいんだと思うよ? むしろ、そのままでいて欲しいかな?」


「……どういう意味ですか、それ?」


 旗さんの声を聞いて、胸の奥がざわついた。まるで焚火の煙が洞窟の入り口から流れ込んでくる風に揺らされて形を変えるように、心の中の何かがふっと動いた。


「昔は、きっぱりと割り切れる人っていうのがボクの目にはカッコよく見えてたんだけど……気付いちゃったんだ。『割り切る』ってさ、いつもでもできることなんだって。割り切るってさ、諦めるよりもずっと簡単なことだったんだ。歳を取るごとに『諦めない』ことが難しくなって、代わりに『割り切る』ことが簡単になる。妥協するようになってしまうんだ」


「……」


「それは、自分の限界を知ってしまうからさ。身の丈を知ってしまうから……諦めるしかできなくなる。まだまだ若いジン君には、ピンとこない話かもしれないけどさ。割り切って、妥協して、諦めることは大人になってからでもできる。いや、大人になるたびに得意になるものさ。若いうちはね……そういう大人な意見を無視してもいいとボクは思うんだ。いつか絶対に『割り切らない』といけない日がくるんだからさ、若いうちにできることを精一杯やった方がいい。歳を取ると、そんなことできなくなっちゃうんだから……あー、クソ。オッサン臭いことを言ってしまった。我慢してたのに……歳を取るとどうしてもね。話が全部説教臭くなってしまう」


 旗さんは頭を抱え、炎の前で小さくうなだれた。彼のその姿を見ていると、少しだけ肩の力が抜けた。さきほどまでの感情が消失した。というか、老いることへのネガティブキャンペーンがすごいな。大人になるのはちょっとだけ楽しみだったのに、その未来に絶望をし始めるくらいには嫌な気持ちになってきた。話が全部説教臭くなるのは……嫌だな。


「……何か、歳を取るって嫌なことだらけに聞こえてきましたよ」


「いや、こうはいったけど、いいこともあるもんだよ? 長く生きてきた分、心が揺れ動くっていうのかな……そういうことが少なくなった代わりに、深くなったんだ。一つ、一つの感動が心に突き刺さって抜けにくくなっちゃったんだ。これは、ボクがオッサンになったせいだと思うんだけど。ジン君がマークたちの決断に待ったをかけたときは痺れたよ。そういう素直な若さを持つ子と関わることが少ないから余計にね?」


 旗さんが優しく笑いかけてきた。彼の言葉を受けて、俺の胸の奥が別の方へ揺れた。思い出す。マークさんたちのことを思い出す。マークさん以外の彼らの名前は覚えることができなかった。あのときの決断が、後悔が、失敗が、その全部が、今更になって頭に蘇ってしまう。


「そう言えば、今、思い出したんですけど……旗さんって、カツキがリーダーに任命したときに反対しませんでしたよね? 理由とか聞いてみてもいいですか?」


 俺はそこで旗さんが反対していなかったことを思い出した。自分でも意外なほど素直に、疑問が口からこぼれた。初対面……話したことのなかった子供(じぶん)に、どうして反対しなかったのか。単純に、理由を知りたくなったのだ。すると、旗さんは困ったような表情を浮かべて、気まずそうに目を逸らした。


「あー、実はね。カツキがジン君をリーダーに選ぶって言っていた時さ。何を考えているのか正直分からなかったんだ。でも、反対をしなかったのは……カツキはボクよりも人のことをちゃんと見ることができていると思ってからだ。ジン君じゃなくて、カツキの人を見る目を信じてみただけなんだ。アイツは昔から自分よりも若い子に経験を積まさせようとする悪癖があるから……最悪、ボクたちがフォローしないといけないってちょっぴり嫌な気持ちではあったんだけどね。でも、今になってアイツの気持が少しだけ分かったんだ。ジン君をリーダーにしたいと思った気持ちがようやく分かったんだ」


「……俺じゃなくてカツキを……ですか?」


「嫌だった? でも、マークたちが言っていたようにボクもジン君のことを知らなかったからさ。強いて言うなら……ジン君の持つ『若さ』に賭けてみたいって思ったのは本当だよ?」


「『若さ』って……」


 自分で言葉を繰り返した瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。誤魔化すように嗤いが漏れた。自分で自分を嗤う声。その痛みを見透かすように、旗さんが苦笑した。


「おいおい、自分で自分のことを嘲るものじゃないよ? ジン君たちの『若さ』を嗤うのは、熱くなれない……心が老いた人たちさ。ジン君はボクの目から見ても……まだまだ青くて、見てられないほど痛いときがある。果実だったら食えたものじゃないだろうね」


「余計なお世話ですよ……言わないでください。自分で分かってますから。むしろ、こっちに来てからの俺は現世にいたときよりも子供っぽくなってる気がしますよ」


「ハハハッ、それはいいことだね。自分だとどうしようもできない困難に直面したからさ。一皮剥けて、大人の階段を一つ登ったんだよ。あ、これ、下ネタじゃないからね?」


「……旗さん。それが一番、オッサン臭いっすよ?」


 旗さんは本気で傷ついたように目を丸くした。大げさに肩を落とした。彼の反応が可笑しくて、口元が妙に緩んだ。だって、大の大人が本気で傷つく瞬間を初めてみたから。大人という生き物はもっとスゴイ人だらけだと思っていたから。もっと遠い存在だと思っていたから。でも、こうしてみると案外、俺と変わらない。俺と近くて、親近感が湧いてしまう。ごほんと咳払いをすると、旗さんはすぐに話題を別のものに切り替えた。


「傷つくなぁ……言葉が的確で鋭いと。でもね、話を戻すんだけど……ジン君には熱があるんだ。確かな熱がさ。その熱は、自然と人の心を惹きつけてしまう。君が望んでなくても、意図してなくても、動かしちゃうものなんだ。ほら、この焚火の炎にその気はなくても、近づいたら火をつけちゃんでしょ? それと同じさ。だからだろうね、ジン君が頑張る姿を見ているとね……何だか応援したくなるんだ。こっちまで奮い立つというかさ……」


「……正直。よく、分からないです」


 言葉にしてみると胸の奥が少しだけ軽くなった。旗さんの言葉のどれもが正直良く分からなかった。温かかったが、実感が湧かない。頭では何となく理解できても、心が納得までいくには時間がかかりすぎる。そういう考えもあるんだという驚きと戸惑いにも似た感情が、胸の中でゆっくりと渦巻いていた。すると――


「オッサンの心には眩しすぎるって意味だよ。どうせ、誰がリーダーでもあんまり変わらないんだ。なら、精一杯やってみたらいいんじゃない?」


「失敗したら、皆死ぬんですけど。大丈夫ですか?」


「なら、そのときに皆に恨まれるのが、ジン君の仕事だね? 皆の恨みを背負ってくれるかい?」


「……嫌っすよ。だから皆で絶対に生きて帰りましょう」


 旗さんは軽く笑った。俺も、気付けば同じように軽く笑っていた。冗談めかしているのに、彼の言葉にはどこか本気の響きが混ざっている。焚火の炎がぱちりと弾け、洞窟の天井に赤い影が揺れた。二日目の夜が終わっていく。そして、新しい朝が来る。後、五日か。口には出さなかったが、その数字が焚火の熱よりも確かに胸に浮かんだ。理由は分からない。だけど、意外と、乗り越えられる気がした。


 俺には、まだまだ余裕があるみたいだ。いや、旗さんとの会話の中で余裕が少しだけ取り戻してきたのかもしれない。ヘルガやニックのこと。ケルベルスへの警戒。マークさんたちの心配。食料や水。頭にパッと浮かんだだけでも問題は山積みなはずだ。なのに、今はすべてが上手くいくような気がしていた。きっと、大丈夫だ。この調子なら、全員で生きて黄泉の国に帰れるはずだ、と。まるで焚火の温もりが、胸の奥の不安をそっと溶かしていくように。すべてが順調にいくと根拠のない確信が胸の内に芽生え始めていた。


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