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第九十九話 『二日目 後編』


 川の近くで三十分ほど休憩を取った後、俺たちの一行は再び歩き始めていた。休憩が長引いたのは、休憩に三十分もかかった理由は、カツキの自前の水筒で水を煮沸していたからだ。カツキの鉄製のヤカンのような水筒を炙るように焚火の上に吊るし、じっくりと熱を通す。沸いたお湯を、トール君が持って来た二つの水筒に慎重に注いでいく。この作業に、思いのほか時間がかかったのだ。


 もちろん、その間はずっとケルベロスの襲撃を警戒していた。またケルベロスの襲撃がいつ再び起こるか分からなかったからだ。だから、互いに身を寄せ合うように周囲を警戒し続けていた。身体は固かった。沈黙の奥には張り詰めた緊張があった。ヘルガは風の魔法で髪を乾かしながら、時折、森の奥へと視線を向けていた。皆、どこか落ち着かない気配が漂っていた。川のせせらぎが心を癒してくれているのに、ケルベロスの襲撃という最大のストレスがそれを上回っていた。


 やがて水筒の準備が整うと、歩きっぱなしだった。歩きっぱなしで、足はすでに鉛のように思い。太陽はすでに傾いている。日没。日没だ。日が暮れてまでのタイムリミットが迫っている。森の影が長く伸び、足元の土は夕暮れの色を吸い込んでいく。日が暮れてしまえば、視界は一気に奪われる。アイツの被毛はただでさえ黒色なのだ。ケルベルスが潜む闇の中を進むことになる。ケルベロスが闇に紛れたら、見つけることはほぼ不可能だ。それを考えるだけで、頭の奥がじんじんと痛んだ。頭の裏側から釘を刺されるかのように鈍い痛みだ。


「ふぅー、何とか……日没には間に合ったみたいだな」


「……ああ、さすがにキツかったな」


 完全に日が沈み切る前に、ドワーフたちが魔法で作った洞窟に辿り着いたみたいだ。今日の寝床に間に合ったらしい。代り映えがしない場所だが、壁と天井があるだけで救いだった。贅沢を言うなら、仕切りと窓とドアが欲しいがこれだけでも十分な救いだった。ケルベルスへの警戒を解ける安全な場所があるというだけで心が幾分かマシだ。衣食住が揃っている。


「飯にするだんだろ?」


「フン、今日はご馳走よ。ヘビが確保できたからね!」


「……ああ、食料はできる限り節約しないといけないからな。ジンが蛇に襲われて助かったぜ」


 カツキは笑いながら俺の肩に手を置いた。そう、俺は川の近くで蛇に襲われた。すぐにヘルガが対処してくれた。仕留めて、血抜きもしてくれた。処理はもう済ませている。そのおかげで、今夜は一品増える。久しぶりの肉に、自然と気持ちが少しだけ明るくなる。テンションが上がる。というか、気付けば皆で揃って夜食を食べることが暗黙のルールになっていた。全員の心をほんの少しだけ落ち着けてくれる儀式のようでもあった。無秩序でも、人が二人以上いればルールが生まれる。そんな当たり前のことに、今、妙に納得した。


「ほら、平等に取り分けたから回してくれ!」


「……つまみ食いはしてないだろうな?」


「してねぇよ! 料理人の飯にケチをつけると量を減らされるぞ?」


 カツキの冗談にニックはむっとした顔で食料を手渡してくる。彼は料理人としての知識と誇りを持っていて、食料の管理を完全にカツキに任されていた。だから、今のはただのじゃれ合いだろう。袋の中には少なくなったパンがあって、ニックから手渡されると、俺はそれを膝の上にそっと置いた。温かさはない。だけど、不思議と心が満たされている。それに加えて、今日は蛇の肉が回ってきた。十三人に平等に分けたら量はそこまで多くなかったが、それでも昨日の夜や今日の朝昼とまったく同じ味じゃないというだけで嬉しい。心が踊る。

 

 本当は、川の魚が取れればもっと良かったのだが、三十分探してみても魚影はどこにも見えなかった。魚は一匹も見つからなかった。運が悪かったのだろう。こうして皆で無事に食卓を囲むことができているだけで、今は満足だ。


「……いただきます」


 俺は手を合わせると、蛇の肉を口に運ぶ。蛇を食べるのは二回目だ。じゅわ、と溢れる肉汁と共に淡白な味が口に広がる。旨味が広がる。淡白な蛇の肉が舌の上でほどけていき、疲れた身体にじんわりと染み込んでいった。硬いパンを合わせて頬張ると、噛むたびに少しずつ力が戻っていくような気がした。すると――


「明日も……今日と同じぐらいの距離を歩くのか……」


 ぽつりと誰かが声を落とした。ヒデトラさんだ。蛇を焼くために、暖を取るために起こした焚火の火が横顔を照らす。彼の眼は疲労のせいか、どこか遠くを見つめていた。ヒデトラさんの声は小さかったが、洞窟の静けさのせいでよく響いた。目を遣る。その隣では、旗さんはマッサージするように足を揉んでいた。足首をぐるぐると回しながら、疲れを吐き出すように溜息をひとつ。さらにそのまた隣では、ローブさんが自分の槍をぼんやりと眺めていた。早々に食べ終わってしまって、手持ち無沙汰なのだろう。焚火の光が槍の先端にチラリと反射して、影を落としていた。


 洞窟の中に、疲れと安堵が混じった空気がゆっくりと広がっていった。まるで泥沼に沈むように、静かで、重くて、冷たい何かに引きずられていくような感覚。何とかしないと。そう思うのに、身体が動かない。アサヒの件で失敗した記憶が、頭の奥に広がっていく。二回目も失敗するかもしれない。そんな不安が、泥のようにまとわりついて離れなかった。足元に絡みつく。俺がそんな思考の渦に沈んでしまい、行動できないままでいると――


「あっー! そうだった! 忘れてた!」


 突然、カツキが大きな声を上げた。全員の視線が彼の方へと向いた。


「……忘れてたって何をだよ?」


 俺が口を挟むと、カツキは『おっ、反応したな?』と言いたげな顔でこちらを振り向いた。ニヤリと笑っている。まるで、釣り上げられた魚のような気分だった。少しだけ悔しかった。すると、カツキは少し大げさに両手を広げる。


「ほら、さっきヘルガが川言っていたことだよ。全員の武器を……持ち物をちゃんと確認しようって話だよ」


 彼の言葉が耳に届いた瞬間、俺は川でカツキが頭を抱えていた姿を思い出した。最初は冗談かと思っていたが、どうやら彼は本気みたいだ。カツキは腰を上げて、自分が持っている道具をひとつずつ取り出して、皆に見えるように広げ始めた。


「皆も、ほら!」


「……それに何の意味があるんだよ」


 胡坐をかいたままシモンさんがカツキの行動に待ったをかけた。焚火の光が彼の表情を半分だけ照らし、影の部分が不機嫌さを強調していた。だが、カツキは構わず言葉を続ける。焚火の光に照らされたカツキの道具たちが洞窟の床にゆらゆらと揺れる。


「意味はないかもしれませんが、無駄にはなりませんよ。現状を正しく把握するということが、今のオレたちには最も重要なことだと思っています。それに、オレの頭一つだけでより、皆のアイデアを集めた方がいいでしょう? 生存率もぐんと上がるはず。ジンがシュティレ大森林に向かうというアイデアを出した前例があるんだ。オレ一人だけ昨日のうちに全員の持ち物を把握しているからそれでもいいけど……後で『あー、しておけばよかった』なんて後悔をしないでくださいよ?」


「……チっ、そうかよ。勝手にしろよ」


 シモンさんは舌打ちをすると、手元の荷物を乱暴に引き寄せた。自分の荷物を投げ捨てるように道具を取り出した。静かな洞窟の中では、その音が妙に大きく響いた。その動きにつられるように、他の仲間たちもごそごそと荷物を広げ始めた。金属の触れ合う音や布の擦れる音が散らばっていく。


 俺も慌てた様子で、自分が持っていたものを全て取り出していく。とはいえ、取り出すといっても俺が持ってこれたものなんてあまりない。ケルベルスから一目散に逃げたせいで、何も持ってこれなかった。ナイフと黒爪とマッチ――それで全部だ。こうして並べてみると、さすがに心許ないな。リーネの銃をまだ借りていれば良かった、と胸の奥で小さな後悔が疼いた。


「全員、荷物をすべて並べたな? それじゃあ、重要なことから確認していこうか? ニック、残りの食料はどのくらい持つ? 足りるのか?」


「……分かり切ったことを聞くなよ」


 ニックの方へと視線を向けると、彼は手に持っていた料理用のナイフをそっと置いた。大切なものを扱うように、そっと置いた。包帯のような布で刃がグルグル巻きにされていて、使い込まれた跡が良く分かる。その横には、彼が管理を任された食料袋が置かれていた。中身は軽そうで、袋の形が頼りなく沈んでいる。ニックは深く息を吐き、ゆっくりと袋の口を開いた。


「七日間の逃避行には全然足りねぇよ。ただでさえ十三人もいるんだ。カツキとそこの小さい(ちっこい)方の坊主がが持ってきた干し肉と乾パン。あとは……マジで少しの干し果物。魚かキノコでもいい。何でもいいから途中で採取しないとヤバいな」


「人間は食べないでも三週間は生きていけるって聞いたことあるんだけど、七日なら頑張ったらいけるんじゃねぇか?」


 ウタの軽口を受けて、ニックはすぐさま首を横に振った。


「いや、知らねぇけど……食わないとダメだね。腹が減ったままのヤツを放置するなんて料理人の主義が許さねぇ。それに、オレたちはただでさえかなり距離を移動するんだ。ケルベルスっていう化け物に追われながらな。緊張しっぱなしだ。身体に慣れてないことをさせるんだ。食わないと体力は持たない」


「あー、でも、確かに、水は三日でヤバいっていうもんな。なら、どっちみち途中で川にじゃ寄らないといけないのか。魚……魚ね……鯖が食いてぇな」


 ウタの最後の一言だけ、妙に現実味がなくて焚火の明かりの中でふっと笑い声が漏れそうになった。だが、その笑いも現実を思い出し、喉の奥で消えた。確かに、鯖の最も美味しい時期は脂がのる秋から冬にかけてだ。今が旬だ。だが、今の状況では、サバどころか、魚一匹見つけるのも難しいのだ。


「鯖か、いいな。オレは鯖の味噌煮がこの世で一番好きだぞ?」


「はぁー! サバっていったら塩だろうが塩! まさか……なあ、なあ、なあ! お前ら、どっちが好きだ?」


 ウタが真剣な顔をしてこちらを見てきた。焚火の赤い光が彼の瞳に映り込み、妙に迫真の表情が見えた。熱意だけは伝わった。この状況で、サバの味付け論争が始まるとは思わず、俺は一瞬だけ返事に迷った。だが――


「いや、待ってくれるかな。サバって言ったらしめ鯖だよ。これだけは譲れない。酒好きには絶対に譲れない。なぁ、シモン!」


「……うるせぇな、巻き込むなよ。オレは酒を控えることにしたんだ。事情があってな。だから、最近は押し寿司の方が好みだ」


 カツキとウタの多数決に旗さんが待ったをかける。まるで審判ように静かに割って入った。カツキとウタの二人から始まったこの小さな論争は、ほんの少しだけ空気を温めていた。一瞬だけ、俺たちが逃避行の途中であることを忘れそうになった。というか、シモンさんも乗るのかよ。彼は意外とノリがいいな。それともサバには譲れないものがあるのか。


「ここは料理人の権限を使わせてもらうが、絶対におろし煮だ! サバは大根おろしと合わせるとさっぱりした味わいになってマジで上手いんだ。これを食ったことないヤツは人生を損してるヤツだ」


「おいおい、大根おろしは反則だろ? それがアリなら、オレは……トマト煮がいいな。大根おろしもいいけどトマトの方があっさりとしていて好みだ。……アサヒとイオリ、二人はどうだ? 血が繋がっていると、やっぱり好みも似るのか?」

 

 参戦してきたニックの意見に被せるようにアンゴが口を開いた。アサヒとイオリは互いに顔を見合わせると同時に顔を逸らした。


「全然チゲェよ。正反対だ。オレはサバのつみれ汁が好きなんだけどよ、コイツは――」


「刺身だろ? 魚ってのは新鮮なうちに刺身にして食べてしまう方がいいんだって」


「ほら、これだ! 寄生虫がいるからヤメロって言ってやってんのにさぁ! こっちは善意だぜ? それなのに、言うことを一つも聞きやしねぇ!」


「……うるせぇよ。上手いものは上手いんだからしかたねぇだろ」


 怒るイオリを前にしたアサヒは肩の傷を押さえるように、ムッとした顔で少しだけ視線を逸らした。兄弟喧嘩のようなやり取りだ。見ていて微笑ましくなる。すると、カツキが俺とトール君に視線を向けてきた。


「現世から来た二人はどうだ? そもそもサバを食べたことあるのか?」


「あるだろ! 俺は、俺は……そうだな、やっぱり給食でよく出てきたから味噌煮が一番馴染み深いけど……好きだったのは竜田揚げかな? 贅沢って感じがして好きだったな」


「……姿寿司」


 トール君がぽつりと答えた瞬間、時間が一瞬だけ止まった。静まり返った。まさか彼まで乗ってくるとは思わず、俺も目を丸くしていた。すると、ヘルガが控えめに手を挙げるように言い放った。


「……ワタシ食べたことがないんだけど」


「えっ、マジか! ローブはどうだ?」


「嫁が作ってくれたのだったは全部美味しから。味付けは何でもいい」


「……惚気かよ」


 カツキがすかさずに突っ込みを入れて、まだ答えていないローブさんに話を振った。だが、返ってきた答えは予想とはまったく違うものだった。横に座っていたシモンさんが呆れた様子で吐き捨てた。


「こう考えると……ここにいる皆、本当にばらばらだな」


 カツキがぽつりと呟くと、洞窟の中に小さな笑い声が広がった。確かに、と同意するような笑い声だ。焚火の明かりが揺れて、影が踊る。ほんの束の間だけど、確かに心が軽くなった。俺たちをひとつにしていた。すると、コツンと軽い音が響いた。


「それよりも、話を元に戻しませんか?」


 ヒデトラさんが腰につけていた方位磁石を地面にそっと置いたからだ。意識が冷たい現実に引き戻された感覚。だが、カツキは素っ気ない態度を取るヒデトラさんに対して、あえて柔らかく問いを投げかける。


「おいおい、まだヒデトラの答えを聞いてないだろ? 塩と味噌のどっちが好きなんだ?」


「……醤油煮ですけど。そんなことよりも、です。本題に戻りましょう。時間を無駄にはしたくありません」


「無駄にしたいほど時間は有り余っているが……まあ、そうだな。ジン、マッチの残り何本だ?」


「マッチは全部で二十二……いや、ここで使ったから二十一本だ」


 さっきまでサバの話で盛り上がっていたこともあり、急に真面目な声を向けられると、その温度差に少し戸惑ってしまう。


「闇は怪物よりも恐ろしいときがある。ジンが持ってきたマッチがなければ、オレたちはケルベルス以上の敵と戦わなければならなかった。これはジンの手柄だな」


「……ああ、そうかよ」


 カツキの言葉は淡々としていた。褒められ慣れていないせいで、胸の奥がむず痒くなる。そのせいで、つい素っ気ない返しになってしまった。というか、仕事上、ランプ係に選ばれたからマッチを持っていただけで俺が持ってきたわけじゃない。それを言うなら、カツキやトール君の方がもっとスゴイ。俺の心で考えていることが顔に出てしまったのか、カツキはトール君に褒める標的を変える。


「……トールもお手柄だったな。オレ一人だけだと食料や諸々を運ぶのは無理だったみたいだ。トールの機転がなければもっとヤバい状況だった」


「……そう」


 トール君は短く答えた。声はどこまでも無感情だった。俺たち二人の返事があまりに素っ気なかったせいで、微妙な空気になった。その微妙な沈黙を、カツキ本人が笑い飛ばしてしまった。


「何だよ、二人とも連れねぇよな。でも実際、心強いな。ヘルガの他にも、魔法使いが二人もいるなんてよ」


 その一言に、洞窟の空気がほんの少しだけざわついた。焚火が揺らぎ、まるで誰かの胸の奥をそっと突いたように見える。すると、アンゴが驚いたような目をしてこちらに向かって口を開いた。


「えっ、聞いてねぇぞ、おい!」


「二人はさ、二人はさ、どんな魔法が使えるんだ?」


 アンゴとウタが同時に身を乗り出し、焚火の赤色の光が彼らの瞳に映り込む。期待と興奮と好奇心が混ざったような妙に熱のある視線だった。二人だけじゃない。全員から期待の込められた眼差しを向けられる。一斉にこちらへ向けられた。彼らの圧に、背中がじわりと汗ばむ。視線が痛い。これから自分の魔法を見せないといけないのか、と喉の奥がきゅっと狭くなる。すると――


「僕の魔法は意味ないから別にいいでしょ? 言わなくてさ」


 トール君から先陣を切った。いや、崖の縁ギリギリまで押し出されたようなものだ。何で俺の魔法は有用だって決めつけて話を進めるんだ。役に立たないって自覚があるなら俺にもその可能性があるって想像してくれよ、と心の中でそんな文句をつけている。そんな俺の内心をよそに、カツキが穏やかに口を挟んできた。


「意味がないってことはないだろ? 魔法は持ってるだけでプラスなんだから。それに、トールがいたおかげでオレはミノタウロスに一撃喰らわすことができたんだ。トールが自分の魔法を見せたくないって気持ちは分かるつもりだが……状況が状況だ。見せるだけ見せてくれよ?」


「……はぁ」


 励ますようなカツキの言葉を受けても、トール君は心底どうでもよさそうだった。どうでもよさそうに溜息を吐いた。瞬間、彼の輪郭がふっと揺らいだ。歪んでいく。トール君の身体そのものが、周囲の景色と混ざり始める。色が抜け落ち、形が曖昧になり、存在が薄れていく。カメレオンの擬態のようだ。ぼやけていく。そして、彼の姿は。一瞬のうちに洞窟の中から消えてしまった。


「おー! スゲェ! どうなってんだ、これ!」


「……気安く、触らないでくれる?」


 ウタが興奮気味に手を伸ばした。彼の手がトール君がいた場所に……何もない空間に触れた途端に止まった。ペタペタと何かを触っているが、目には見えない。すると、不満そうな顔をしたトール君がいきなり姿を現れた。彼のぼやけた輪郭が再び形を取り戻す。どうやら魔法を解いたみたいだ。


「悪い、悪い。でも、スゴイな! これだと、ケルベルスに気付かれないんじゃないのか?」


「……少しは考えてから物を話しなよ? ケルベルスは見たまんま犬なんだから。目だけじゃなくて耳も鼻も敏感なんだよ? 透明になる魔法でどうやって逃げるんだよ?」


「……そ、そうかよ。オマエ、話しにくいやつだな?」


 ウタが撃沈した様子で肩を落とした。そして、そのままドサッと腰を下ろした。


「大将の魔法はどうなんだ? カツキの話が確かなら、二人とも魔法使いなんだろ?」


「……ぇ、あー」


 アサヒが思い出したかのようにこちらへ視線を向けられた。突然向けられた視線に、胸の奥がひゅっと縮む。焚火の赤い光が妙に眩しく感じられた。ウタたちもトール君の魔法を見た後だからか、妙にテンションが高い。逃げ場のない期待の熱が、じわじわと肌を焼いてくる。


「俺の魔法は……こ、こんな感じで縄を出すことができるってだけで」


 覚悟を決めて、右の掌から魔法で縄を生み出した。言いながら、自分でも情けないほど声が震えているのが分かった。焚火の炎が、俺の不安を照らすように揺れていた。だって、自信がないから。リーネやヒビキやヘルガにトール君の魔法を見てきたら自信なんて吹き飛んでしまう。というか、トール君の魔法は意味がないってことはないだろ。何なら光学迷彩みたいでちょっとだけカッコよかったし。俺がそんなことを考えていると、ウタが明るい顔で口を開いた。


「えー、いいじゃねぇか!」


「……あれ、意外と反応がいい?」


「おいおい、当然だろ? 縄は万能な道具だからな? それに、今は道具なんてあればあるだけいい状況だぞ?」


「……焚火の火起こしにも使えるし……あ、釣りもできたじゃねぇか! もっと早く言ってくれよ!」


 ニックが勢い良く指を差してきた。焚火の火を起こすために枯葉を集めていた彼からすれば、文句の一つもあるだろう。でも、そうか。縄って火起こしに使えるのか。盲点だった。横にいるヘルガは、何故か自慢げに胸を張っている。まるで自分の魔法を褒められたような誇らしげな表情だ。


 そんな中、カツキは無言で皆が取り出した道具をじろじろと眺めていた。槍、剣、斧、弓――それぞれの武器を順々に見比べて、顎に手を当てて、片目を細める。瞑る。そして、カツキはゆっくりと口を開いた。


「ケルベルスを倒せればなんてことを考えてたが……やっぱり、無理そうだな。それよりもだ、現実的な問題を――」


「できるわよ!」


 彼が別の選択肢を提示しようとした、その瞬間。ヘルガが口を挟んできた。全員が驚いた表情で彼女のことを見る。ケルベルスを倒せる。ケルベルスを倒せる? 頭の中で疑問が走り続けている。疑問が渦巻く。ケルベルスの姿を思い出す。凶悪そうな顎、動物の骨を噛み砕くためだけに存在するような鋭い爪、血肉を啜るためにだけ存在しているような牙。希望の光すらも飲み込んでしまいそうな漆黒の獣毛。獲物をいたぶるたびに喜びの色が差す満月のような、冷酷な瞳。無理だ。絶対に無理だ。どう考えても絶対に無理だ。だが、彼女の自信満々な態度がそれを否定しようとしてくる。頭に浮かぶ無理という言葉を捻じ伏せようとしてくる。


「……エルフのガキが、できもしねぇことを言うんじゃネェぞ?」


「何よ。できるものはできるんだからしかたないでしょう? それともアナタはできることをできないっていう特殊なニンゲンなの?」


「だが、実際にてめぇの攻撃(まほう)は、ケルベルスに通用しなかったじゃねぇか」


 シモンさんが威嚇するように言い放つ。焚火の炎が彼の顔を険しく照らして、洞窟の空気をさらに重くする。だが、ヘルガは不貞腐れたように唇を尖らせる。だが、翡翠色の目だけは強気のままだった。その姿は、まるで『言われっぱなしで終わる気はない』と全身で語っていた。洞窟内に二人の声が跳ね返る。彼女の出した道具を改めて見る。霊樹で作られた特性の弓、数本の矢、小さなナイフ、射籠手のような手袋など……最低限の道具しか持っていない。だが――


「……うん? ヘルガ、何だそれ?」


 ふと、気になったことができた。ヘルガが弓の隣に置いている二つのガラス瓶。小さい。手の中に隠れてしまいそうなくらいには小さい。中には透明な液体が入っているみたいだ。水面が静かに揺れてた。そのガラス瓶の一つに手を伸ばす。気になって、つい手を伸ばしてしまった。その瞬間――


「触ったらダメよ!」


 ヘルガが弾くように俺の手を叩いてきた。パチン、と乾いた音が洞窟内に響いた。彼女の表情は先程までの強気のものとは違う。どこか焦りを含んだものだった。ヘルガに叩かれると思っていなかったので、驚いた表情で彼女のことを見る。


「……あ、いきなり叩いて……ごめんなさい。でも、これは危ないものだから」


「いや、俺も……悪かった」


 互いに少しだけ視線を逸らし、気まずい沈黙が落ちる。その沈黙を破ったのは、旗さんだった。旗さんが瓶の中身の液体をじっと見つめながら、口を開く。


「危ない……ってことは、それがケルベルスを倒せる根拠ってことかい? その液体が?」


「……毒か?」


 カツキが慎重に言葉を発した。単純に推理をしたみたいだ。液体で、ケルベロスを倒せる、それにヘルガの大袈裟な反応を見たら誰だってその可能性を疑うだろう。俺もそうだ。カツキのセリフを聞いたニックが怪訝な顔をした。料理人として毒物に抵抗があるみたいだ。だが、彼女はニックの反応の変化を気にも留めず、ガラスの瓶を手に持った。そして、言葉を続ける。


「ええ、そうよ。これは――」


 ヘルガの声は重々しく、しかし確信を帯びて響いた。焚火の赤色の光が、瓶の中の液体が妖しく照らした。中身が毒だと言われたら、どうしたって彼女の持つガラスの瓶に目が行ってしまう。視線は、自然と小さな瓶の中身へ吸い寄せられる。透明な毒が揺れるたびに、洞窟の空気が張り詰める。誰もが息を呑んで、その小さな瓶に視線を奪われていた。誰もが息を呑んで、彼女の言葉の続きを待っていた。


「――ヒュドラの毒よ」


 彼女の口からその言葉が落ちた瞬間、心臓が止まるかと思うほどの衝撃が走った。全員の表情に電気が走ったような驚き。爆弾発言。まるで本当に爆弾を投げ込まれたかのような沈黙だった。驚きのあまり誰もが一瞬息を止めていた。心臓が一拍遅れて跳ねる。ヒュドラの毒。頭の中でその単語を、彼女の言葉が持つ情報量を処理するのに時間がかかった。俺はしばらくの間、ヘルガの手の中にある小さな瓶から目を離せなかった。







 ※ ※ ※ ※ ※  ※ ※ ※ ※ ※ ※







「もちろん、水の精霊様の加護によって効果を薄められているけどね。それでも、ケルベルスの警戒した様子を見て確信したわ。ヒュドラの毒は、ケルベルスの命を確実に奪うことができるものよ! これがあればイチコロよ、イチコロ!」


 ヘルガは胸を張り、まるで自分の中に揺るぎない答えを抱えているかのように言い切った。いや、彼女は実際にただ事実を口にしているだけだ。俺たちがその事実に驚いているだけだ。ヒュドラの毒。その単語を頭で思い浮かべただけで背筋が冷たくなった。エルフの戦士を何人も葬ってきた凶悪な毒だと聞いている。そんな代物を、何処で手に入れたのか。


「……ヒュドラの毒って……どこで、そんなものを……」


 沈黙を破ったのは俺だった。気づけば喉の奥から勝手に言葉が漏れていた。ヘルガは一瞬だけ目を細めた。懐かしむような瞳だ。だが、次の瞬間にはいつもの調子を取り戻していた。まるで『分かり切ったことを聞くな』と言わんばかりの表情だ。


「決まってるじゃない! カーリに餞別として貰ってたのよ。森の外では何が起こるか分からないから持っていけってね。管理がとてもメンドクサかったけど、持ってきておいて正解だったみたいね!」


 誇らしげにヘルガはそう言い放ってきた。彼女の鈴を転がすような綺麗な声は、洞窟の天井に跳ね返りまるで当然のことのように響いた。カーリ、エルフの里の長をしているエルフの女性だ。彼女なら……確かにあり得る。毒を持たせるなんて、それもヒュドラの毒を持たせるなんて非常識極まりないのだが……ずっと森の中で生きてきた彼女たちだ。常識の外側を平然と歩いているような存在だ。焚火の炎が一際激しく揺れると、ガラス瓶の中の毒が淡く光った。カツキが全身から力が抜けたように言葉を零した。


「そんな切り札があるんだったら、先に言ってくれよ。昨日、『武器はそれで全部か?』って聞いたときは『弓だけよ、悪い!』って言ってったじゃねぇか?」


「だって、武器については聞かれたけど、毒を持っているかなんて聞かれなかったんだもの。なら、ワタシの答えは当然でしょ?」


「……そうか、そうですか。ヘルガは森を出たばかりだからな、仕方がない。だけど、毒っていうのは立派な武器だからな! 次の機会があれば頼んだぞ? 一人ひとりがきちんとした報連相ができないと、困るのは回り回って全員になるんだから。……あー、良かった。改めてこういう機会を設けておいて!」


 カツキは投げやりなテンションで頭を抱えた。洞窟の暗がりが彼の表情を闇に隠し、照らされた影が疲れ切ったように揺れていた。まるで『もう勘弁してくれ!』と言いたげな背中だった。だが同時に、どこか嬉しそうな顔をしている。決まっている。反撃の手立てがないと思っていたケルベルスへ、一矢報いる方法が手元に転がり込んできたのだ。全員、喜ばしいことに決まっている。俺も同じだ。だが、二人だけ表情を曇らせている人物がいた。ニックとシモンさんだ。


「おい、待てよ。そんな強力な武器を持っているならよー。何で、ミノタウロスの野郎にくれてやらなかったんだ? 瞬殺(いちころ)だったんだろ?」


「……それは、リーネたちの指示で――」


「それは、オレも同感だ。料理人として毒が気に食わないっていうだけじゃねぇ。それがあれば、オレのダチは……クックも死なずにすんだんじゃねぇのか!」


「――ッ!」


 知っている人物の名前が出てきて喉の奥から驚きの声が漏れる。クック。彼は、人喰い迷宮の中で俺が最期を看取った男だ。弱弱しく握られた手を今でも覚えている。彼の言葉の一言一句を覚えている。そうだよな、クックも料理人をしているって言っていたもんな。なら、ニックと知り合いでも……友人でも何らおかしなことではない。彼の声には、怒りだけじゃなく、悔しさと悲しみが滲んでいた。胸の奥で燻っていた感情が、今になって火を噴いたのだ。ヘルガは困ったように眉を潜めた。


「そ、そんなこと……ワタシに言われても!」


「ッ、ああ! そうかもしれねぇな! だが、マークたちはどうだ? ヒュドラの毒があるって知っていたら判断を変えていたかもしれねぇし、全員で力を合わせれば、ケルベロスを仕留めることもできたかもしれねぇだろ! もしかしたらニックたちの方が正解だったかもしれねぇし、死んだら黙っていたオマエのせいじゃねぇか!」


「それは……そうかもしれないけど、カツキのコインに判断を任せて自分で何も決めていないアナタだけには言われたくないわよ! それに、力を合わせるっていうのも何なの? 戦うのはワタシだけなんでしょ? アナタに何ができるのよ!」


「……何もできねぇかもしれねぇけど、やりようはいくらでもあったはずだろ? オレたちが囮になっている隙に、ケルベロスを仕留めるとか……それこそいくらでも! 自分がエルフの戦士に生まれて恵まれてるからって、力を持って生まれたからって、開き直るんじゃねぇよ!」


「ッ! 開き直っているのはそっちもでしょ? 第一に、彼ら(マークたち)もワタシの力を信頼できなかったから……自分たちの判断で行動をしたんでしょ? ヒュドラの毒のことを言わなかったワタシに落ち度があるのは分かるけど……頑なになった彼らが、判断を変えるようには見えなかったわよ? それに、あの時はケルベロスを迎え撃つっていう発想すらなかったじゃない。それすらも、ワタシに責任を擦りつけるつもりなの?」


「それを知ってるのはオマエだけなんだから、責任はオマエにあんだろ! ヒュドラの毒があるって、そんな切り札があるんだったら、最初に言っておけよ!」


「――ッ! ワタシだって、ワタシだって冷静じゃなかったのよ! いきなりケルベルスに襲われて! 目の前で理不尽にニンゲンたちがどんどん死んでいって! 次はワタシたちの番もしれないって! アナタたちが襲われないように周囲に警戒したまま二日間も歩いてたのよ! 初日の夜にケルベルスに襲われて、落ち着ける暇なんてほとんどなかったじゃない!」


 ニックたちの大きな声が洞窟の中に響き渡った。不満の炎が再び燃え上がった。心の中にあった黒い感情を全て吐き出すように、押し付け合うように、空気が焼けるように熱くなっていく。白熱する。雰囲気が悪くなる。二人の泣きそうになるような怒声が洞窟を満たし、影響されて、雰囲気がどんどんと暗くなっていく。だから、俺が止めないといけない。リーダーに選ばれたんだから、それぐらいできないといけない。そう思って、二人に向かって落ち着くように声を投げかける。


「お、おい! 落ち着けって、二人とも。ニックも、ヘルガを責めても何にも――」


「お前は黙ってろよ! これはもう、感情の問題だ!」


 二人の仲裁のために助け舟を出そうとした俺の声は、ニックに怒声にあっさりと掻き消されてしまった。いや、逆に火に油を注いでしまったのかもしれない。ニックを興奮させてしまった。彼の目は燃えるように熱くなった。ダメだ。俺の目には、今は誰の声も届かないように見えた。だが――


「いい加減にしねぇかっ! 二人とも!」


 カツキが腹の底から絞り出した声が、洞窟全体を震わせた。鋭い一喝。その声には、怒りでも苛立ちでもなく、どこまでも真っ直ぐな必死さが滲んでいた。俺はカツキが相手を威圧するような声を放つところを初めて見た。二人もそうなんだと思う。だって、二人は驚いた様子で黙り込み、視線を座っているカツキに向けていた。


「今、過ぎたことで喧嘩をしても意味がない。オレたちは一丸とならなければならないんだぞ! それを自覚しろ! 確かに、ヘルガは言い出すのが遅かったかもしれないが……あの時に、ケルベロスを倒すという発想自体がなかったのが事実だ。紛れもない事実だ! そのことを、彼女一人に押し付けても仕方がない。それに、クックの最後を看取ってくれたジンの話だと……クックは第二陣が入ったときにはすでに瀕死だったはずだ。なら、ヘルガにはどうすることもできなかったはずだ。どうやっても、アイツを助けることができなかったんだ」


「いや、だけどよ――」


「人喰い迷宮に足を踏み入れた者は皆、命を懸けていたはずだ。海賊としての誇りを持って死んでいったはずだ。だからこそ、クックの死を尊重するのなら……ヘルガに怒りをぶつけるのはお門違いだ。むしろ、オマエのその行為こそ、クックの覚悟を侮辱しているとオレは思っちまったぞ?」


 他人を怒り慣れていない人の怒り方だ。彼の声はどこまでも柔らかく、優しい。説教ではなく、説法のような雰囲気がある。だが――俺は今、初めて目の前の青年のことを怖いと思ってしまった。カツキのことを怖いと感じてしまった。彼の言葉は怒鳴り声よりも鮮明に、そして重たく俺たちの心に響いた。


「……カツキはいいのかよ? 同期だったんだろ?」


 ニックは何かに耐えるようにそっぽを向き、絞り出すようにカツキに問いを投げかけた。カツキは、クックの同期だったらしい。人喰い迷宮の中で、その話を俺も聞いた。少なからず……思うところはあるはずだ。だが、カツキは数秒間だけ考え込むように視線を焚火に落とし、揺れる炎をじっと見つめた。そして――


「……オレはもう、割り切っちまったよ」


 カツキは笑顔でそう答えた。だが、誰の目にも彼が無理をしていることは明らかだった。だって、あまりにも寂しそうだったから。弱い炎に照らされた彼の表情に、どこか影が落としていた。だけど、それに気付けるほど今のニックは冷静じゃないのだろう。今のニックは、それを受け止める余裕なんてものはない。呆然とした様子で、彼のことを見つめると、ただ悔しそうに唇を噛んだ。


「…………そうかよ」


 長い沈黙の後に、ニックはふらりと立ち上がり、彼は一言だけ残して洞窟の奥へと歩き出した。背中は重たく、沈んだ影を引きずっているようだ。


「ニック!」


 ヒデトラさんが彼のことを止めようと慌てて声をかける。だが、ニックは一度たりとも振り返ることなく、掠れた声を発した。


「……悪い、今日はもうダメだ……少しでいい、冷静になる時間を、オレに、くれ!」


 ニックは吐き捨てるような台詞を残し、洞窟の奥へと姿を消した。怒りよりもずっと弱く、痛々しいほど沈んでいた。焚火の光の届かない暗がりに姿を消す。残された空気は、重く、酷く静かだった。誰もが言葉を失い、焚火の音だけが洞窟の中をこだまする。パチパチという炎が木の枝を弾く音だけが聞こえる。やがて、旗さんとローブの年長組が静かに口を開いた。


「今晩の見張りは……彼の順番を交代させようか。しばらくは、ヘルガとニックが二人にならないように再調整しよう」


「……そうだな。俺が朝の見張りだったはずだからな。ニックとは俺が交代しよう。皆も寝る前だけど、明日の見張りだけじゃなくて今日の見張りをもう一度だけ考えないといけなくなった。だから、少し時間をもらうが……それで、構わないな?」


 大人の低く、落ち着いた声色だった。だが、有無を言わさない迫力もあり、仲間を気遣うさりげない配慮もあった。カツキは二人に視線を受け取ると静かに頷き、ヘルガの方へと向き直す。


「そうですね。それが、良さそうです。悪いが、ヘルガ。今日の見張りはオレと組んでくれ。負担をかけていたみたいですまなかったな。ヘルガのことまで、気を回せていなかったみたいだ」


 ヘルガは驚いたように少しだけ目を伏せ、唇を噛んだ後、小さく息を吐いた。


「……フン、カツキが謝ることじゃないわよ……ワタシもまだ、冷静じゃなかったみたい。むしろ、アナタに謝らせてしまって……ごめんなさい」


 さっきまでの尖った響きとは違って、ヘルガの声はどこか弱弱しく、素直だった。焚火の光が二人の影を揺らし、ようやく洞窟の空気が少しだけ落ち着きを取り戻していく。だが、静けさの奥にはまだ拭いきれない不安が薄い霧のように漂っていた。いや、むしろ二人の激突が、俺たちの胸の奥に眠っていた不安を再び呼び起こしていたのかもしれない。姿を見せないケルベルスの不気味な気配、長く続く逃避行の疲労。それらすべてが、目には見えない不満の塊となって、俺たちの心をじわじわと蝕んでいた。



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