第九十七話 『一日目の終わり』
夜。見張りの時間となり、俺とカツキは焚火の傍に並んで座っていた。火の番をしながら、交代の時間まで二人で過ごす。洞窟の奥の方から、仲間たちの寝息がかすかに聞こえてきた。恐怖で眠れないかと危惧していたが、どうやら疲れの方が上回ったみたいだ。それだけ、今日一日が濃密で、過酷だったということだろう。これが、後七日も続くというのだから気絶してでも寝ないとやってられない。
焚火の炎が揺らめきながら俺たちの影を壁に映し出している。俺はそっと手を広げた。そして、カツキの隣で俺は独り言を呟くように、今日会ったばかりの彼らの名前と顔を思い出していく。記憶に焼き付けていく。忘れないように。ゆっくりと指を折り曲げながら、一人ひとりの名前を順々に呼んでいく。顔と印象、声や仕草に雰囲気を思い出しながら。シュティレ大森林までの旅路を共に乗り越える彼らの存在を確かめるように。
「ヘルガはいいとして……トール君でしょ?」
人差し指を折る。体育座りのまま、暗い顔をしていたトール君が脳裏に過る。彼は俺と同じ現世の出身だ。高知で生活していたらしい。鳥取の高校に通っていた俺とは、地理的にも接点はなかった。縁もゆかりもない。なのに、今こうして死後の世界の洞窟で運命を共にしているのだから奇妙なものだ。彼との出会いは個人的に、とても印象深い。初対面でいきなり喧嘩を売られたのだから、忘れようにも忘れられない。最悪の初対面だったな。
「ヒデトラさんにシモンさん」
中指と薬指を折る。ヒデトラさんとシモンさん。どちらも年上で、冷静に、必要なことを的確に口にしてくれる。頼りになる存在だ。でも、俺のことはあまり好きじゃないみたいだな。まだ、リーダーと認めていないんだと思う。俺を見る目が厳しい。というか、彼らはカツキにリーダーをして欲しかったんだと思う。特に、シモンさんは奇妙だ。何かを隠している感じがする。言葉の端々に、意図的な距離を感じる。まあ、言わないってことは必要がないってことだろう。責める気にはならない。彼は大人だ。嫌いな相手でも、必要とあらば協力してくれる。皆で生き残るのに必要なことだと判断すれば、きっと自分から動いてくれるはずだ。そういう人だと、信じている。
「ウタにアンゴ」
親指はヘルガの名前を呼んだときに自然と折り曲げていた。だから、右手に残っているは小指だけだ。足りない。俺は少し笑って、左手の親指を折り曲げた。ウタにアンゴ。二人はこのグループのムードメーカー的な役割がある。いるだけで、場が明るくなる。ちなみに、カツキは空気清浄機だ。ウタは宇田村ってところの農家出身で皆で畑に苗を植えるときに歌を歌うから得意なんだそうだ。田舎の両親に農具を買ってやるために海賊になったらしい。鈍臭い兄に、両親を任せたのが唯一の心配事らしい。アンゴは柄が悪そうだったので、前歯が欠けたのは勝手に喧嘩が原因だと決めつけていたが、子供の頃に川でこけたからだそうだ。このことは秘密にして欲しいと言っていた。だから、他言はしない。墓場まで持っていく。たぶん。
「ニックに旗さんにローブさん」
人差し指、中指、薬指の三つを折り曲げた。三人の顔を順々に思い浮かべる。緑色の髪をした青年が、ニックだ。普段は料理人として船に乗っている。だが、気をつけろ。彼は、つまみ食いの常習犯らしい。『料理人の特権だ』と開き直っているあたり、なかなかの強者だ。質が悪い。とはいえ、小食だからか、誰も本気で怒っているわけじゃないみたいだ。旗さん……幸太郎さんは、普段はロバーツさんの船に乗っているらしい。旗さんという渾名の由来は、海賊旗の掲揚を最初に任されたからだとか。それに、旗信号を船で一番最初に覚えたスペシャリストだからだとも言っていた。最後に、ローブさんは愛妻家で有名だ。結婚指輪はともかく、妻からの贈り物を絶対に肌身離さず持っているらしい。その姿勢には一人の男として尊敬の念を抱かずにはいられない。ただし、恋愛相談をするのはダメだ。惚気話にすり替わってしまって、惨めな気持ちになるからだ。子供や家庭の相談はなんやかんや真剣に耳を傾けてくれるらしいから、安心してもいい……と、カツキが言っていた。
「後は……イオリとアサヒだ」
左手の小指を折り曲げると同時に、右手の親指をためらうように広げた。俺の十本の指じゃ足りなかったな、と苦笑する。二人の名前は覚えているんだが、パット見で二人を見分けるのはまだ難しい。顔立ちも背格好も似ていて、声までどこかに通っている。だが、本人たちは『双子でも兄弟でもない』と言っていた。母親が同じだけど、父親は別にいるみたいだ。複雑な家系の事情があるのだと思っていたが、それとは関係なく、単純に恋敵を兄弟と呼ぶのがいやらしい。兄と呼ぶのも、弟と呼ぶのも気持ち悪いのだと言っていた。理由を聞いたときには、思わず笑ってしまった。それに、同じ人を……ユカリさんって言ったけ? 同じ人を好きになるだなんて、遺伝子が無駄なところで仕事をし過ぎていると思う。二人とも彼女の笑顔が好きだと言っていた。それに、紫色の髪が風に揺れるのを後ろから見ているのも好きだそうだ。純愛だと思う。幸せになって欲しい願っている。だけど、どちらかは絶対に失恋しないといけないなんて、この世界の方が薄情に思えてくる。それでも、二人の想いが本物であることは、きっと誰の目にも明らかだった。だけど、これで――
「……よし、これで全員だ」
あっという間に両手が埋まった。俺はそっと手を閉じていく。次々に名前を思い出していく。この手で数えた全員を、必ず連れて帰る。いや、カツキと俺を含めた十三人を絶対に連れて帰ってみせる。使命感。その強い思いだけが、胸の奥で燃え始めていた。すると、カツキが横から揶揄うように口を挟んできた。
「おいおい、オレのことを忘れるなよ?」
「……今更、いらないだろ?」
「それは……そうかもしれないけど、何かハブられてるみたいでムカつくだろ?」
カツキは不貞腐れるように唇を尖らせた。焚火の明かりに照らされた顔を横に背ける。子供っぽい彼の妙な仕草に、思わず笑いそうになった。こういう人懐っこいところが、カツキらしいのだろう。だから、野暮なことを聞くのは止めだ。さっき抱いた疑問を一度、水に流すことにした。
「なぁ、何か寒くないか?」
「うん、そうか? オレはあんまり感じないが……でも、確かに、紅茶が欲しくなっちまうな」
「……それって、寒いってことじゃねぇのか?」
俺は身震いをした。心は温かいのに、身体が寒い。秋の夜。ちょうど寒くなる時期だな。焚火の熱がありがたく感じる季節だ。昼間はまだ陽射しが残っていても、夜になると一気に冷え込む。俺たちにとっては最悪の季節ってわけだ。風邪でも引いたら最悪過ぎる。寒暖差で体調を崩せば、それだけで命取りになる。おまけに、こちとら毛布の一枚もないのだ。壁も地面も容赦なく身体から熱を奪ってしまう。ふと、洞窟の奥に目をやる。皆は大丈夫だろうか、と心配になった。そのとき、どこからか『……ぐぅ』という間の抜けた鼾が答えを返してきた。誰のものかは分からないが、どうやら心配は無用だったらしい。
リーダーとしてちゃんとしないといけないのに。どこまでも至らない。俺は小さく息を吐いて、焚火の炎を見つめた。炎の揺らめきが、まるで『大丈夫だ』と言ってくれているように思えた。だけど、胸の奥に渦巻く不安はそう簡単には消えてくれなかった。
「なぁ、カツキ……上手くいくと思うか?」
ふと、口をついて出た言葉。弱音を吐いた。誰もいない……いや、二人っきりになったからこそ零れ落ちた本音だった。誰も聞かれたくない、だけど誰かに聞いて欲しかった。いや、上手くいく。上手くいくと思ったから、俺は声を上げたんだ。挑んだんだ。だが、時間が経つにつれて、不安の芽がどうしても育ってくる。巨大になって花を咲かせようとしている。この選択は正しかったのか、マークさんたちの方が正しかったんじゃないのか、リーダーに任命されたが皆を導けるのか、と。そんな問いが夜の冷たさの中で、ふと顔を出してしまった。だが――
「うーん、断言はできねぇな」
「……断言できねぇのかよ」
「当たり前だろ? オレは占い師でも何でもないんだ。未来の出来事を確信を持って話し出したら。そっちの方が嘘くさいだろ?」
カツキの態度に、俺は思わず眉をひそめる。同時に少しだけ肩の力が抜けた。期待していたわけじゃない。でも、せめて「大丈夫だ」と言って欲しかった気もしないでもない。そんな俺の心を見透かしたようにカツキは悪戯っぽく笑った。そして「――でも」とさらに言葉を続けた。
「上手くいくと思ったから、オレはジンに賭けたんだぜぇ?」
そう言うと、カツキは懐から何かを取り出した。それは、金貨だった。マークさんのときと同じもの。ケルベロスの咆哮が轟き、俺とマークさんどちらに決断を迫られたあの瞬間――コイントスに運命を委ねたときのもの。カツキは懐から取り出した金貨を器用に指と弾いた。くるくる、くるくる、と金貨は宙で綺麗な踊っていた。パシ、と乾いた音が届いた。カツキが金貨を手の甲でキャッチしたのだ。手の甲に乗った金貨を俺に見せてくる。すると、結果は裏だった。
「裏? カツキ、お前。まさか――」
「賭けが強い方なんだ、昔からな。そしてオレは、海賊でもあると同時に商人でもある。なんなら、社長の下で働いてた時間の方が長いぐらいなんだぜ? だからかな。勝算のない賭けはするなって身体に叩き込まれて……いや、心に躾けられてんだ。オレがジンに賭けたのは、勝てるって思ったからだ。信じたからだ。それだけの話だ。これ以上に、他に理由はいるか?」
カツキは金貨を指で器用に回しながら、弄びながら、焚火の光を怪しく反射させていた。欲望を映し出す金色の輝きが、夜の闇の中で小さく煌めている。不安の影を、少しずつ押し返していくようだった。
「……どっちにしても、運じゃねぇか」
「ああ、そうだ。成功には運が絡んでくる。必ず、どこかでな。だから、成功には再現性なんてものはなく、明確な理由もない。だが、失敗には再現性がある。必ず、理由はあるもんだ。オレたちはこれからそんな再現性のない大成功をしなければ生きて家に帰れることはできないんだ」
カツキはあっさりと頷いた。彼の言葉が持つ重みが、ずしりと胸にのしかかる。心を押し潰す。だが、カツキはそれを重苦しい空気で終わらせなかった。俺の顔が暗くなったのを察したカツキが、ふっと表情を和らげ、俺の肩に手を置いてきた。衝撃。軽い衝撃。彼の手は、思ったよりも温かくて、力強かった。いきなりのことに俺はカツキへと視線を向ける。カツキは白い歯を見せるように笑いかけてきた。
「つまり、運ってやつを拾うのはオレたち行動次第ってことだ。気張っていこうぜ、ジン!」
驚きとともに、胸の奥に何かが響く。だが、同時に別の疑問が生じる。俺の中には一つだけ、どうしてもカツキの口から直接聞いておきたいことがあった。ずっと、心の奥で引っかかっていた、その疑問を俺はついに口から出す。俺は聞いてみたくなった。いや、今なら聞ける気がした。
「なぁ、何で……カツキは、俺をリーダーに選んだんだ?」
カツキは少しだけ間を置いて、肩を竦めた。言葉を探すように、選んでいるように、ゆっくりと激しく燃える焚火に視線を戻すと口を動かした。
「理由は全部で三つある。まあ、リーダーをするのは、最悪オレでも良かったんだけど。それだと、オレの長所を一つ捨てることになる気がしてな。できれば避けたかったんだ」
「長所って……それぐらいじゃあ、カツキの長所はなくならないだろ?」
俺がそう言い返すと、カツキは少しだけ目を細めて、嬉しそうに笑みをこぼした。でも、彼の瞳に寂しさの色が走った気がするのは気のせいだろうか。カツキの手を見ると、いつの間にか、金貨の回転は止まっていた。
「まず、理由の一つとして、気安く声をかけて回れなくなっちまう。これはオレにとって致命傷だ。これは実体験なんだが……人っていうのはどうしてもそいつが持つ役職を意識してしまうんだ。リーダーに声をかけられたのと、そうじゃない人間に声をかけられたのでは、心理的な障害がだいぶ違うんだよ。この状況での最大の敵はケルベロスじゃなくて、ストレスだ。負担を吐き出させようと明るく声をかけても、リーダーに話しかけられたって思うと緊張してさらに心に負担が溜まる。気を遣い過ぎかもしれねぇが、少しでも避けたかった。限界のときは、何が理由で心の器から不満の水溢れ出してしまうのか、オレですら分かんないもんだ。だから、できれば避けたかった」
俺は彼の言い分を聞いてはっとした。確かに、思い当たる節はある。リーダーという立場に立った瞬間、周囲の目は変った。言葉に、態度に、すべてを見る目が変わってしまう。それを、カツキは誰よりも分かっていたのだ。実際、彼は俺たちの機微に敏感だった。風船の中に溜まり過ぎた空気をゆっくりと抜くように、自分から率先して、積極的に、不満を吐き出させるために声をかけて回っていた。言いたいことは分かる。納得できる理由もある。だけど、それなら――
「……それなら、ヘルガでも良かっただろ?」
その理由なら、ヘルガでもいいはずだ。むしろ、彼女の方が適任だと思う、俺よりも強くて、迷いがない彼女の方が頼もしいはずだ。リーダーとしては、俺なんかよりも相応しい。でも、俺がそう言うと、カツキは即座に首を横に振った。
「いや、ヘルガだけは避けたかった。この状況で、ヘルガにリーダーを任せるのは最悪な結果を生み出す可能性があったからだ」
俺はカツキの真剣な顔を見て、息を呑んだ。マークさんの前で自分でヘルガの強さを押していたはずなのに、あっさりと手の平を返した彼に驚いたのもある。冗談を交える余地もない冷静な口調で、俺に問いかけてきた。
「なぁ、ジン。今、一番最悪の可能性はなんだと思う?」
カツキの唐突な問いかけに、俺は少し考えてから答えた。
「……ケルベロスに、全滅させらることじゃないのか?」
それが、最も分かりやすく、最も恐ろしい結末だった。背筋が凍る。ケルベロスの鋭い牙に、爪に、俺も仲間たちも身体を引き裂かせれ殺される姿を想像してしまった。喉の奥がひりついた。だが、カツキは再び首を横に振り、俺の答えを否定した。確固たる意志を感じさせる力強い動きだった。そして、はっきりと告げた。
「――分裂だ」
彼のその一言が、パチパチと弾ける焚火の音すら掻き消すように、夜の空気を切り裂いた。彼の言葉の意味を、すぐには理解できなかった。だけど、カツキの表情がすべてを物語っていた。彼は本気で言っている。本気でそう思っている。そして、それが現実になり得ると、確信しているのだ。
「オレたちはシュティレ大森林まで一致団結をしなければならない。そうじゃないと、到底この旅路を乗り越えることはできない。だけど、ヘルガがリーダーになるとオレたちの結束に綻びを生むことになると思ったんだ」
「……なんでだ? ヘルガは不器用なヤツだが……頭は良いぞ? 性格的なことを考慮しても……いや、確かにちょっとだけ問題はあるかもしれないが、俺なんかよりもヘルガの方が……ヘルガの方がリーダーとして適任だと思うぞ?」
俺は必死で言葉を探していた。ヘルガの強さも、性格も、誰よりも近くで見てきた。彼女が黄泉の国に来てからだけど。だからこそ、納得がいかなかった。
「性格に難があるかどうかは関係ない。実際に、森から出てきたばかりでコミュニケーションの取り方がまだよく分かってないだけだ。実際に知識不足やコミュニケーション不足ならオレやジンが間に入ってやれば上手く回ると思う。彼女はリーダーに向いているかはまだ未知数だが、可能性は十分にあるだろうな。エルフっていう最強のネームバリューも持ってるし、実際にこの中で一番強いのは彼女だ。だけど、オレが問題だと思ったのはな……ヘルガの魔法の方だ」
「ヘルガの魔法?」
俺は思わず聞き返した。カツキの発言の意図が素直に分からなかったからだ。すぐには掴めなかったからだ。カツキはそこで一度深く息を吸い、焚火の炎をじっと見つめていた。炎の揺れに視線を落としたまま、ゆっくりと口を開いた。まるで、何かを覚悟をする時間のようだ。
「いや、今のは言い方がダメだったな。誤解を招く。正確にはな……彼女が使えるエルフの魔法。風を自由に操る魔法がダメなんだ。ほら、ケルベロスを撃退するときに使っていただろ? オレの記憶にも新しい。それを、ここにいる皆が見ていたというのが今回はダメなんだ」
「……ッ、何でだ?」
胸の奥が騒めいた。彼女がどれだけエルフの魔法を求めていたのか、俺は知っている、だからこそ、咄嗟に反論しようとした。だけど、カツキの目を見た瞬間、言葉が喉で止まった。言葉を飲み込んだ。ヘルガの魔法が、何故ダメなのか。皆が見ていたことが、どうして問題になるのか。その先にある答えを、彼が持っている答えを、大人しく聞くことにした。黙って続きを待つことにした。
「まず、オレたちの今の状況は……はっきりと言ってしまえば泥船だ。泥でできた船で、シュティレ大森林を目指している。全員の手で必死に泥船を前に進めて、中に入ってきた水を掻き出さないといけない。それができなければ、沈むだけだ。ここまではいいな?」
「……」
「そんな中、一人だけ泥船から何時でも脱出できるヤツがいるとしたらジンはどうする? そいつがリーダーで、言い方は悪いが上から指示を出してきたらどう思う? 不満に思うだろ? ヘルガは空を自由に飛べるんだ。それがダメなんだよ。オレたちがもしケルベロスに襲われたとしても……ヘルガだけは助かる余地がある。いや、オレたちを見捨てるなら確実に生き延びれるだろうな。ヘルガはその気になりさえすれば、彼女は一人で街を囲む外壁を魔法の力で飛び越えていけるんだ。今からでも、その気になればな」
「……ヘルガは、そんなことしないだろ?」
「可能性があるってだけで、ダメなんだよ。分かってるだろ? 発想は懸念に、懸念は疑惑に、疑惑は疑心へと成長するんだ。そして一度……疑心を抱いた相手をそう簡単には信じることはできない。つまりな、オレたちの心はヘルガがリーダーだと結束ができないんだよ。これは、ヘルガの問題じゃない。ヘルガの持っている力が原因で、オレたちの心の弱さが問題なんだ」
「でも、飛べないって……」
「なぁ、それはオレも驚いた! ヘルガってまだ飛べないんだな! さすがに知らなかったぞ」
オレが言いかけた瞬間、カツキは目を丸くして身を乗り出してきた。焚火がパチリと弾け、火の粉が宙に舞った。あの短い時間で、どこまで先を読んでいたんだろう。いや、こいつはケルベロスが現れたという報告を受けて、必要になるものを即座に掻き集めて俺たちに追いついてきたヤツだ。こうなる展開も、ある程度読めていたのかもしれない。俺には彼が見ているものがまだ見えない。だから、思い切って聞いてみることにした。
「……というかさ、カツキってどこまで読んでたんだ? ヘルガとカツキのどちらかをリーダーに選べって言ったら、意見が半々に割れるって分かっていたのか?」
「ああ、たまたまオレの知り合いばかりだったから良かったよ。それに、分かりやすい性格のヤツばかりなことも運が良かった。天邪鬼のトールだけが心配だったけど……まあ、結果的には良かった。全て、上手くコトが運んだ」
カツキは肩を竦め、焚火の光に照らされる中で金貨をくるりと回した。軽やかで、慣れた手つきが、さっきまでのもい話との落差を生んだ。思わず俺は小さく息を吐いた。単純に人脈が……情報量が違う。違い過ぎる。俺がカツキに追いつく日はまだまだ先のようだな。十年、二十年後になってようやく今のカツキの人脈に追いつけるかどうかってラインだ。関係を築くのが下手な俺には、厳しすぎるぞ。
「……なぁ、その『たまたまオレの知り合いばかりだった』って範囲が広すぎないか? 俺の会ったことがある人、皆、お前のことを知っているんだけど? どうなってんだ?」
「顔が広さだけが、オレの唯一の取り柄だからな。ちょっとやそっとで、お株を奪われてたまるかって話だよ」
カツキは冗談めかして笑っていたが、その裏にある自負を隠し切れていなかった。彼はちゃんと積み上げてきたのだろう。人間関係を一から積み上げてきたのだ。そうじゃないと、ここまで声に自信が宿らない。翡翠の首飾りがキラリと光を反射した。
「……カツキの取り柄が唯一だったら。俺はどうなるんだよ。スタイルの悪さしかなくなるぞ? ……それよりも、理由の二つ目は? 俺をリーダーに選んだ二つ目の理由は何だ?」
問いかけながら、自分でも気づかないうちに息を止めていた。焚火の熱が身体を温めているはずなのに、胸の奥が妙に冷えていた。次に語られる理由が、どんなものなのか気になって仕方がない。怖いが、でも知りたい。少しでもいいから、何かが欲しかった。自分の中に何かが。そんな複雑な感情が、胸の中で渦巻いていた。すると、カツキはわざと焦らすように間を置き――
「理由の二つ目はな――ジンの声は良く通るからだよ。オレよりもな!」
そして、カツキは握った拳を俺の胸にぐっと押し当ててきた。軽い衝撃が走る。痛みはない。ただ、胸の奥にじんわりと温かさが広がった。焚火の光が俺たちの間で揺れ、影が重なっては離れていく。この一瞬が、妙に心に残った。そのとき――背後からガタッ、と物音が聞こえた。カツキが薙刀を手に立ち上がる。俺も跳び上がるように背後を振り向いた。
「おいおい、落ち着いてくれって。音に敏感になってるのは分かってるけど……交代の時間だから来ただけだ。危ないから、薙刀を下ろしてくれって」
「オレはこいつの寝相の悪さで起きちまったから、ついでにトイレに……」
背後にはイオリとアサヒが立っていた。二人とも中肉中背で、日に焼けた肌に濃い茶の髪の毛がよくなじんでいる。イオリとアサヒは眠そうに目を擦りながら、まだ半分油面中にいるような顔をしていた。洞窟の奥の方から、ひんやりとした空気が流れてくる。そして――
「なぁに、やってんの?」
眠たげな声が響いてきた。ヘルガが起きてきた。髪を少し乱したまま姿を見せてきた。焚火の温かな光が、彼女の金緑色の髪を照らし、ゆらゆらと揺らめく。本来なら、彼女は戦力の要として夜間の見張りには参加しないはずだ。それなのに、どうして起きてきたのか……いや、理由は明白だ。俺たちが騒がしくし過ぎたんだ。その証拠に、彼女の背後からさらに足音が続く。
トール君やシモンさん。旗さんまでも、寝惚け眼のまま次々と姿を現してくる。鼾をかきながら、ぐっすりと寝ている様子だったのに神経だけは尖がらせていたのだろう。初日というだけあって、まだ体力が有り余っているのかもしれない。洞窟の静寂は、もう完全に破られてしまった。
「もう交代の時間になったのか……あっという間だったな」
「そうだな、驚き過ぎた。けど、良かった。ケルベロスじゃなくて」
「ハハハッ、カツキもリーダーもあんなこと言ってたのにビビッてんのかよ。オレたちだけじゃなかったんだな。何だか安心したぜぇ」
イオリがそう言うと、カツキと俺は同時に視線を逸らした。バツが悪そうに。大見えを切っておいて、このザマだ。リーダーとして情けない姿を見せてしまた。俺が呑気にそんなことを考えていると、アサヒが洞窟の入り口の方に向かって歩き始めた。彼の背中を見て疑問を抱いた旗さんが、首を傾げながら声を投げかける。
「……あれ、アサヒ君。どこにいくの?」
「……ただのしょんべんっすよ。見せるわけにはいかないっしょ?」
「えー、でも危なくない?」
「大丈夫っすよ。一瞬ぐらいなら。つーか、ケルベロスって本当にオレたちを追いかけてるんっすかね? もしかして、まだあの迷宮の前にいるんじゃないっすか?」
旗さんの小言を受けたが、アサヒは軽口を叩きながらひらひらと手を振って暗がりへと進んでいく。気楽そうですらある。いや、旗さんの心配も分かるし、アサヒの気持ちは分かる。だって、俺たちは実際にまだケルベロスの姿を見ていない。遠くの方で咆哮は聞いたが、それだけだ。もしかしたら、俺たちじゃなくてマークさんたちを追いかけていった可能性だってある。彼らにも生きていて欲しいが、その可能性は十二分にあるはずなんだ。そんな思考が頭に過り、俺はアサヒの迷いのない足取りを止めるべきかどうか悩んでた、そのとき――満月のような瞳がこちらを覗き込んでいた。
ねっとりとした視線。冷たくて、美して、粘りつくような視線だ。殺意が、全身に絡みつく。悪寒が走った。すると、カツキが腹の底から絞り出すような声で叫んだ。
「――アサヒ、止まれ!」
「ぇ?」
アサヒが振り返るよりも早く、闇の中から影が飛び出してきた。ケルベルス。黒き被毛に覆われた巨大な前脚を洞窟の入り口から突っ込んでくる。黒曜石のような鋭い爪が、彼の身体を洞窟の中から引きずり出そうと振り下ろされた。イオリは反射的にアサヒに向かって手を伸ばした。だが、間に合わない。
「ヘルガ、ッ!」
「分かってるわ、よ!」
俺が咄嗟に判断するよりもコンマ数秒速く、ヘルガは駆け出していた。彼女は何も持っていない。弓を手に持つこともない。風を集める気配すらない。ただ、素手でケルベロスに向かって飛び込んでいった。風刃ではない。風が集まるような威圧感がない。代わりに――タンポポの綿毛のような光の粒が咲いた。閃光が弾けた。炸裂。瞬間、真っ白な光が視界を網膜ごと焼く。洞窟の闇が、一瞬で真っ白に塗り潰していく。
――キャンッ!
と、ケルベロスが甲高い悲鳴を上げた。前脚を引いた。目は見えない。俺たちもヘルガの光の魔法に目を焼かれて、何も状況が分からない。だが、ケルベロスの満月のような瞳が暗闇の向こう側に消えた。嫌な気配が遠のいた。ドタドタと慌ただしく巨体を揺らしながら、森の中に姿を消したみたいだ。音だけで分かる。音だけでも分かった。ケルベロスは逃げたのだ。
同時に、嫌なことも一つだけ分かった。ケルベロスは賢い。これまで襲ってきた怪物たちの中で、間違いなく一番賢い。俺たちを確実に追い詰めるために、危険だと判断した瞬間に身を引いた。視界を奪われた、ほんの一瞬のうちに。自分が不利だと理解したのだ。
同時に、良いことも一つだけ分かった。ケルベロスはヘルガのことを異様なまでの警戒している。彼女はケルベロスにとって、あの怪物にとっても脅威なのだと、改めて思い知らされた。視野が戻り、俺はアサヒの無事を確認する。蹲っている。アサヒは肩の部分から少しだけ血を流していた。外傷は、それだけだ。彼女の魔法がなければ、もっと取り返しのつかない傷を負っていたはずだ。俺が皆の前で口にした約束が、誓いが、ヘルガのおかげで守られた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ジンたちが洞窟に辿り着くよりも前の出来事。時間は数時間前に遡る。怪我人を乗せた荷台を止め、馬たちに水を飲ませて休ませている最中だった。夕暮れの光が森の端を赤く染め始め、木の葉のざわめきが耳に触れる。リーネは荷台の傍で周囲を警戒するように見張っていたのだが、ふと何かに引かれるように背後へ視線を向けた。彼女の表情は、いつもの朗らかさを失い、張り詰めたように硬かった。
「何だか……胸騒ぎがするわね」
リーネの口からぽつりと漏れた声は、風に溶けるには重かった。馬たちも耳をそばたて、落ち着かない様子で蹄を鳴らす。リーネの緊張感が伝わっているのだろう。だが、リーネは胸元を押さえ、もう一度、背後の森を見つめる。燃えるような赤い瞳は背後に――人喰い迷宮の方へと向けたままだ。人喰い迷宮の方角を捉えたまま動かない。
「リーネ、どうかしたんですか? この子たちが怖がってますよ?」
「うん? レインね。いえ、胸騒ぎがするのよ。嫌な予感っていうか……」
「それって、前に言っていた――」
「ええ、そうよ。前々から……いえ、エルフの里から黄泉の国に帰った頃ぐらいからかしら。胸騒ぎがするようになったの。それが今、急に強くなったの」
レインが言いかけたところで、リーネは小さく息を吸い込んだ。被せる。彼女の言葉を遮るように、リーネは不安を吐き出した。森の奥に吹き抜ける風が、彼女たちの髪を揺らす。リーネの胸の奥に生まれた黒いモヤモヤとした何か。それは、彼女にとって何か良くないことが起こる前触れだった。梅雨入り前からずっと続いていたから、警戒していたのだが……ここまで長引くのは、初めてのことだった。ここまで強くなるのは、本当に久しぶりのことだった。
「アリア。今からロバーツたちの様子を見に戻ることって可能かしら?」
「……不可能ですね。それは、荷台の上にいる彼ら全員を見捨てるという意味です」
アリアはきっぱりと断言した。リーネは昔から無理だと分かり切っていることでも一度、アリアに質問してみることにしている。彼女の口で否定してもらうことで、頭の中で選択肢を減らすことに成功した。自分の考えを否定されたことで、かえって現実を突きつけられた。唇を噛むようにリーネは一瞬だけ目を伏せる。荷台にいるシュテンを含めた彼らを見捨てることはありえない。論外だ。
「そうよね、なら――」
リーネは即座に顔を上げる。言葉の続きを探すように、リーネは再び人喰い迷宮の方角へ視線を向けた。いや、迷宮じゃない。その方角に立つ人物――ヒビキを見たのだ。彼は腰に佩いた刀を鞘から引き抜き、太陽の光を反射させることで、刃の調子を確認していた。彼の姿は、まるでこれから訪れる何かを予期しているように研ぎ澄まされていた。だから――
「ヒビキ、休んでいるところごめんなさい。ちょっとだけ、仕事を頼めるかしら?」
「ほう、仕事ですか? いきなりですね?」
ヒビキは刃を鞘に収めると同時に、リーネの方へと身体ごと顔を向けた。彼の動きには無駄がなかった。風の流れに合わせて自然と動いたかのようだった。リーネの言葉の奥にある感情を、切迫感を感じ取っただろう。だが、リーネは、彼が貼り付けたような笑みを浮かべるよりも早く、口を開いた。言葉を重ねる。
「一度、ロバーツたちの様子を見てきて欲しいの?」
「それは、何故でしょうか?」
ヒビキの問いは端的だった。淡々としていたが、その裏には理由次第で即座に動くという暗黙の了承があった。リーネは燃えるような瞳で彼のことを見つめる。目を見る。そして、理屈ではなく感情を口にした。
「――直感よ。嫌な予感がするの。とても、とても、嫌な予感が。ここで行動しないと取り返しがつかないような気がするの。だから、お願い」
リーネの声は震えていなかった。だけど、胸を焼くような焦燥は隠しようがなかった。胸の奥で渦巻く黒いモヤが、今にも形を持って溢れ出しそうだった。リーネにとっての最悪の未来が確定るんじゃないかという直感が彼女を突き動かしていた。
「……分かりました。船長命令ですね?」
「ええ、そうよ。私たちはこのまま予定通り行動するから、もう私の直感通り、危険が迫っていたのなら……街の外壁を乗り越えてでも私の元に報告しに来てちょうだい」
「いいんですか?」
「いいのよ、私たちは海賊だからね」
「……それでは、行ってきます」
ヒビキは最後に短く答えると、恭しく頭を下げた。その所作は丁寧だった。儀式めいていて、空気を一段引き締める。ただならぬ気配を感じ取ったのだろう。何だ、何だ、と彼女たちの様子を見ていた人々がざわつき始めた。だが、次の瞬間――カランコロンと下駄を鳴らして、ヒビキはすぐに来た道を駆け戻っていく。彼の背中は、夕暮れの光を切り裂くように細く鋭い。瞬きをする一瞬の間に、彼の姿は水平線の向こうへと消えてしまった。
「良かったのか? ヒビキのヤツを行かせて? おかげで、お前の負担が増えたぞ?」
すると、荷台の上からシュテンが声を落としてきた。彼の声は低く、心配を滲ませていた。彼の琥珀色の眼が見つめているのはリーネではなくアステリオスだった。ヒビキのいない今、アステリオスが目を覚まし、ミノタウロスとして暴れ始めたら、今度こそ彼女が止めを刺さないと――
「分かってるわよ、シュテン。でも、これで安心を買えたのなら……安い買い物でしょう?」
「……そうかよ」
シュテンは吐き捨てるようにそう言った。もう何も言うつもりはないみたいだ。夕暮れの風が、四人の間を通り抜けていく。休憩の時間は終わりのようだ。馬を繋いでいるロープが回収されていたからだ。リーネはそっと目を閉じ、胸の奥に残るざわめきを押し込めるように小さく息を吐いた。
「……頼んだわよ。ヒビキ」
彼女の願いを込めた呟きは、風に乗って遠くに消えていった。そして、リーネ達は再び進路を取り、フンケの街へと向かって歩みを進めた。怪我人たちを航路で無事に届けるためにリーネ達は進んだ。夕暮れの空は赤く染まり始めていた。これから、彼女の大切な人たちに訪れる運命を先に告げるように。




