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第百一話 『三日目 前編』


 旗さんとの仲が深まった夜だった。夜の見張りの合間、焚火を囲んで旗さんと語り合った長いようで短い夜を共に越えたことで、旗さんと俺の間に絆にも似た奇妙な連帯感が芽生えていた。炎の温かな揺らぎが互いの表情を照らし、昼間よりもぐっと距離が近かったことも影響したのかもしれない。それが、カツキの一番の狙いだったのだと今になってようやく理解できた。


 胸の奥に、謎の余裕が生まれた。心に説明ができない不思議な余裕が生まれていた。張り詰めていた緊張の糸が、ほんの少しだけ緩んでいたのかもしれない。その証拠に、俺は昨日よりも深く眠り込んでしまっていたようだ。


「おーい、ジン。朝になったぞ?」


「……っ、う……もう朝か?」


 肩を揺さぶる感触が、夢の底から現実へと意識を引き戻してくる。ゆっくりと瞼を持ち上げると、ウタが覗き込むようにして俺を起こしてくれた。闇の中に沈んでいた意識を、そっと地上へ釣り上げてくれるような優しい声だった。昨日は、旗さんと一時間以上談笑をした後、すぐに交代の時間がやって来た。次の見張りはヒデトラさんとトール君だった、俺がすぐに眠れたことを考えると、二人の間ではあまり会話は弾んでしなかったのかもしれない。


 見張りの順番は、最初と最後をヘルガとニックを担当させないといけなかった。熱が冷める前に、二人が顔を合わせると喧嘩が尾を引くかもしれないからだ。怪我人であるアサヒは暗黙の了解として、最後から二番目に配置する必要もあった。彼の身体に負担を強いたくない。長く深い睡眠を取ってもらうことで、回復の時間を取らせたかった。誰も口には出さないが、全員が自然とアサヒの怪我に気遣っていた。というか、それよりも、昨日一番起きるのが遅かったウタに起こされたってことは俺が最後なのか?

 

 その事実が頭をよぎった瞬間、全身をバネのようにしならせて思わず飛び起きるように身体を起こした。だが、どうやら違ったみたいだ。まだ少し早い時間だったようで、静かに胸を撫で下ろす。洞窟の入口から差し込む朝の光はまだ弱く、霧も出ていなかった。これだとケルベロスの姿を見落とす心配もないだろう。幸先が良い朝だと、ほんの少しだけ思えた。それにしても、学生服を上に羽織って寝ていたのは正解だった。長袖は時期的に少し早いかと思っていたが、朝夜の冷え込みにはちょうどよかった。


 俺がウタに「ありがとな」と礼を言いながら身体を起こすと、洞窟の奥から入口へと俺は軽く足音を響かせながら向かっていく。すると――


「おー、起きたのかジン。今日は昨日よりも遅い目覚めだな?」


 洞窟の奥から歩いてきた俺を見るなりカツキは口角を持ちあげた。カツキが包帯を少し緩め、アサヒの傷の具合を丁寧に確認しているところだった。カツキとトール君の二人がある程度の物資を持って来てくれたとはいえ限られている。包帯一つ無駄にできない状況だ。


「自分でも分からないけど……何か、昨日よりも眠れたんだよな」


「……よく、ぐっすり眠れるな、大将? 洞窟に体温を奪われるのに。口元、涎が垂れてるぞ?」


 思わず袖で口元を拭うと、背後でウタが肩を震わせて笑いを堪えていた。アサヒもが岩に背を預けて座りながら小さく笑っている。洞窟の冷気が頬を刺す。それでも、仲間の繋がりがその冷たさを忘れさせてくれた。


「アサヒの傷の具合はどうだ?」


 俺が問いかけると、アサヒの代わりにカツキは包帯を巻き直しながら短く答えた。


「悪くないな。今のところは発熱もない。……ただ、まだ無理はさせるわけにはいかないな。聞き齧ったオレではなく、一刻も早く本職の医者に見せてやりたいんだけどな」


 包帯は慎重に、しかし迷いなくアサヒの腕に巻き直されていく。カツキの指先からは動揺の色が一切なかった。それを見たアサヒは痛みに眉を寄せながら、どこか申し訳なさそうに笑った。


「すまねぇな……オレのせいで、色々と」


「気にするなよ。心苦しさを感じるのは勝手だが……誰が怪我をしても同じように対応したさ。皆で黄泉の国に帰るんだろ?」


「……ッ、ああ」


 カツキは包帯の端を押さえ、アサヒの腕を慎重に支えながら立たせた。身体は不安定で、足元がふらつく。その揺れを見た瞬間、ウタがすっと横に回り込み、反対側からそっと肩を貸した。


「ゆっくりでいいよ、アサヒ。爺ちゃんたちの世話で慣れてっからさ! これくらい屁でもねぇ」


「……ありがとよ」


 ウタとカツキが軽く微笑むとほんの少しだけ温い気持ちになった。ウタの声は冷気を和らげるほど柔らかかった。アサヒは息を整えながら、二人に支えられて立ち上がる。支えられることを素直に受け入れているように見えた。だが、二人から距離を取るように自分の足で前に進んだ。


「もう大丈夫だ、二人とも。面倒かけてすまないが、オレはまだ一人で歩ける」


 アサヒは体勢を整えるのを確認してから、カツキはゆっくりと溜息を吐いた。容赦なく体温を奪うほど冷たい岩肌に囲まれた空間なのに、仲間の明るい声があるだけでこんなにも違うのかと俺は胸の奥でしみじみ思った。焚火の残り香がまだ鼻の奥に残っていて、昨日の余韻がふっと胸に蘇る。つい、旗さんの方へと目線をやると笑いかけてきた。


 彼の笑みを見た瞬間、心のどこかがさらにふっと緩んだ。そのせいか、身体のあちこち――特に関節部分がじんわりと痛みを訴え始めている。二日連続で硬い岩のベッドの上で寝ているせいか、さすがに身体が悲鳴を上げているのだろう。背中や腰の奥に浅い痛みが残り、肩の関節はぎしりと軋むようだった。


 だが、その痛みは不快というより、どこか『生きている証』のように思えた。身体の軋みも消えた焚火の温もりが柔らかく包んでくれたのだろう。昨日よりかは、遥かにマシだ。そう自分に言い聞かせるように俺はカツキたちの足音を追うように、背伸びをしながら洞窟の入り口に向かって歩く。


 そのときだった。肌がざらりとした気配に触れた。険悪な雰囲気を、敏感に察知して足を止めた。頭の奥で、明確に何かが切り替わった。昨日の余裕は、まだ洞窟の中には全て残っている。焚火の温かさも、会話の内容も、三日で積み上げてきた絆も、全てだ。だが同時に、昨日の喧嘩の余韻もまだ洞窟内に残っているということだ。


 問題は、ヘルガとニックだ。二人の間には緊張を孕んでいる。昨日の喧嘩を引きずっている。忘れていたわけではない。ただ忘れたかったのだ。洞窟の入口付近――薄い朝日が差し込むその場所に、ヘルガとニックの影があった。二人は互いに背を向けて立っている。視線を合わせることすらしない。言葉を交わしていないのに、空気には刺すように張り詰めているのが分かった。怒りの熱は引いているはずなのに、冷えた感情だけが岩肌にこびりついているかのようだった。


 カツキと俺は、ほぼ同時に目を合わせた。その一瞬で、通じ合った。互いに同じことを思ったはずだ。どうにかして二人には再び仲良く……いや、上手くやってもらわないといけない。もう一度だけ、歩調を合わせてもらわなければならない。カツキの考えは、ここ数日で嫌というほど理解した。誰か一人でも熱が欠ければ、全員の命が危うくなる。一致団結しなければ、皆で無事にシュティレ大森林へ到着するのは難しい。乗り越えられない。つまり、このままじゃ、まずい。非情にまずい。俺がそう思った瞬間だった。


「悪かった!」


 洞窟の中に響いたその声は、思っていたよりもずっと大きくて、そして真っ直ぐだった。張り詰めていた空気が、ぱんと弾けるように揺れた。声の主は、ニックだった。ニックは怒りに手を……いや、不安に手を震わせながら、ヘルガに向かって頭を深く下げた。


「……き、昨日は、悪かった」


 再び、ニックは謝罪の言葉を口に出した。声が細かく震えている。やはり、怒りではない。彼の恐れと、後悔と、そして覚悟が混ざった震えだった。ヘルガは一目した。だが、動くことはなかった。ニックの背中越しに見える肩は、わずかに強張っている。ニックは深く頭を下げたままだ。拳を握りしめている。短い爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめている。


「……オ、オレ。あの時、わけがわかんなくなっちまって……冷静さを欠いて、つい……声を荒げちまって、お前は関係なって分かってんのに……感情をぶつけてしまった。本当に、悪かった」


 ニックのニックの謝罪の言葉は洞窟の岩肌に吸い込まれるように響いた。誰も口を挟まない。ウタも、アサヒも、旗さんも、ローブさんも、誰も息を呑んだまま動かない。ニックが素直に謝罪をしたことに驚いたようで、カツキが目を丸くした。だが、表情を固めたまま成り行きを見守っていた。ヘルガはゆっくりと振り返った。その動きはぎこちなく、まるで心の奥にある何かを引きずり出すようだった。


「……謝る必要なんて、ないわよ。ワタシも、ちょっとだけ……強い言葉を使っちゃったし」


 ヘルガの口からこぼれた言葉は、意外なほど静かだった。胸の奥に沈んでいた重たい石を、ようやく持ち上げようとするような長い沈黙の末、彼女は言葉を吐き捨てた。今度は俺が目を丸くする番だった。ヘルガが謝罪を受け入れるとは思っていなかったわけじゃない。ただ、こんなにも素直に、こんなにも早く受け入れるとは予想していなかった。ヘルガはゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。その呼吸は、洞窟の冷気に白く溶けていった。


「いや、謝らないといけねぇんだ。お前は……悪くないってことが、分かってたのに……止まれなかった。だから、悪かった。それを、シモンさんに諭されて……気づかされたんだ」


「フン、ワタシも同じよ。……昨晩、カツキに言われたわ。『人には人の役割がある』って。狩りもそうだもの。ワタシがこの中で一番強いんだからケルベルスについてはワタシが担当する。ニックは、食料の管理を担当する。自分のことでいっぱいいっぱいで分からなかったけど……それが、当たり前のことよね!」


 ヘルガはかすかに笑った。ニックは胸を撫で下ろした。ウタがほっとしたように息を吐き、ローブさんが目を閉じた。起きたばかりのイオリとアサヒが同じような表情のまま固まっていた。俺もこちらに来て、ヘルガの成長に驚かされるばかりだ。彼女の人間としての成長に。というか、カツキがヘルガに何かを吹き込んだことは何となく察していたが、シモンさんがニックを諭したというのがイメージできない。想像がつかない。俺が視線を送ると、シモンさんは気まずそうに顔を逸らした。カツキは腕を組んだまま、ゆっくりと口を開いた。


「まあ、兎にも角にも……これで、仲直りってことだな! よかった、よかった!」


 そう言うと、カツキが二人の手を取り、まるで子供たちを仲直りさせるように握手を促した。ヘルガとニックは一瞬だけ戸惑っていたが、やがて観念したように手を伸ばし合う。まだぎこちなくではあるが、お互いに少しだけ目を合わせると小さく頷き合った。まだ完全に元通りではない。まだ完全に信頼を取り戻したわけではないものの、確かに前へ進む意思を感じさせた。昨日の喧嘩の余韻は洞窟の隅に押しのけることができた。二人の間に漂っていた刺すような緊張が、朝露のようにゆっくりと溶けて消えた。


「ほーら! 二人が仲直りしたことだし、そろそろ出発しようぜ!」


 カツキがぱんと手を叩くと、場の空気が明るく切り替えた。洞窟の奥まで響くほど明るかった。全員が同時に動き出した。荷物をまとめ、武器を確認し、出発の準備を整える。朝焼け。朝の光はまだ弱く、外の世界は薄い青色の染まり始めた。俺たちの影を長く伸び、揺れていた。


 近くでは風が草木を揺らし、遠くでは小鳥たちが歌っている。ケルベルスの気配がない。その光は、まるで『さあ、行け』と背中を押してくれているようだった。目的地に向かって――シュティレ大森林に向かって歩く。何はともあれ、俺たちの新しい一日が始まった。逃避行の三日目の幕が静かに上がったのだ。






 ※ ※ ※ ※ ※  ※ ※ ※ ※ ※ ※






 ドワーフが魔法で作った洞窟を出発してから、もう三時間は経過していた。昼と呼ぶにはまだ少し早い。だけど、太陽はすでに高く昇り、まるで天に飛び立つ準備を済ませた鳥のように、空の真ん中でじっと燃えていた。秋になったとはいえ、日差しはまだ鋭く、肌をじりじりと焼くようだった。森の木々と俺たちの影の両方を短くしている。地面に濃い輪郭を落としている。それでも、森を抜ける気配がない。木々の壁は相変わらず深く、どこまでも続いているように見えた。カツキの話では途中から草木がなくなると聞いたんだけどな。どうやら、まだまだ先らしい。


 喉が渇く。歩くたびに、身体の内側で熱がこもっていくのが分かった。秋の森を歩いているだけで、ここまで身体が重くなるものだろうか――と、そんな疑問が頭によぎる。額に触れると、指先にじんわりと温度が伝わってきた。汗が滲むほどではないが、確かに熱い。背中に背負った荷物が、昨日より重く感じる。昼よりも前の時間帯だというのに、体力が妙に削られている。


 まさか、今日になって疲れが出てきたのかもしれない。昨日の冷え込みと今朝の緊張が一気に反動として押し寄せてきたのか。どちらにせよ、歩みを止めるわけにはいかない。シュティレ大森林までは、まだ距離がある。というか、内陸を拠点に活動している商人たちは馬ではなく牛に荷車を引かせるらしいので、道はどうやっても荒れやすい。俺たちの足取りが重くなるのも、ある意味では当然だった。


 だが、メリットもある。洞窟ごとの距離が比較的に短いのだ。牛も、馬も、荷車もない俺たちはかなり余裕が持って次の洞窟まで辿り着くことができる。極端に体力を消耗しても、日が沈む前にはドワーフたちの洞窟へと到着する予定だ。つまり、早く着けば、それだけ身体を休める時間が増える。俺は唇を湿らせるように舌で触れ、乾いた喉を誤魔化しながら前を見据えた。もう少しだけ、もう少しだけ、頑張れ。自分にそう言い聞かせるように俺は足を前へと運んだ。すると――


「なぁ、ちょっとばかり休憩しないか?」


 背後からかけられた声が放たれた。振り返ると、声の主はウタだった。普段は無駄に元気で、軽い足取りで鼻歌を歌うように歩く彼が、今は肩で息をしている。彼も、朝はとても元気そうだったのに。自分の身体の重さは、勘違いだと思い込もうとしていた。だが、ウタの様子を見る限り、どうやら全員に同じような負担がかかっているらしい。俺だけじゃなかったみたいだ。


 先頭を歩いているシモンさんたちが足を止めた。カツキが振り返った。その表情はいつもの軽さを消し、状況を冷静に対処しようとする鋭さが宿っていた。俺たちの中でも、特にヤバそうなのは……怪我を負っているアサヒだった。傷は浅く、荷物は少ない。だが、やはり体力の消耗が激しいみたいだ。呼吸が浅い。朝の言動がただ強がりだったかのように、顔が真っ青になっている。


「……そうだな、少し休むか」


「聞いたか。皆、ここで荷物を下ろして……十分……いや、十五分休もう?」


 短く言い切ると、彼は周囲を見渡して、影を探す。陽光が容赦なく降り注ぐ中、樹の根元にわずかに影が落としていた。カツキの意図を察した俺が言葉を発すると、皆がほっとしたような表情を浮かべた。我先にと背中の荷物を下ろす音が、湿った土の上にぽすりと響いた。俺も肩の紐を外した瞬間、肩から腰にかけてじわりとした痛みが走った。


 やっぱり、無理をしていたみたいだ。まだ、シュティレ大森林までの道のりはまだ半分以上もあるのにこの様だ。木陰に腰を下ろすと、風が少しだけ涼しく感じられた。さっきまで身体の内側にこもっていた熱が、地面に接した部分からゆっくりと逃げていくようだった。カツキは鉄製の水筒を開け、蓋の部分に少量の水を注ぐ。直飲みはダメだという判断みたいだ。カツキは水を注いだ蓋を俺に手渡してきた。


「……あ、ありがとう」


「うん? おお、全員に順々に回すんだから、さっさと飲んでしまえよ?」


 カツキの軽い声に促されて隣へ視線を向ける。すると、トール君が持ってきた水筒の一つを開けて、ヒデトラさんに手渡していた。喉を鳴らして水を飲んでいた。ゆっくりと。慎重に。水を噛むように飲んでいた。冷えているわけではない。むしろ、生温いぐらいだ。だが、彼の豪快な飲みっぷりが、やけに羨ましく聞こえた。俺も喉を鳴らして、手元の水を見る。だが、口をつけることはなかった。視界の端に、意識を尖がらせて周囲を警戒しているヘルガの姿が映ったからだ。


「……」


 昨日のことを思い出す。昨日の夜の出来事だ。ニックとヘルガの喧嘩――あれは、ただの言い合いではなかった。言葉が過ぎたとはいえ、どちらの言葉にも本心が混じっていた。頭の中にない不満は、絶対に口からは出てこないものだ。だからこそ、あの夜の空気は重く、鋭かったのだ。


 ヘルガの姿をじっと観察する。彼女は一人で木陰に入ることなく、陽光の下で周囲へ鋭い視線を走らせていた。視界を遮るものがない場所を選び、ケルベルスの気配を探っている。今の彼女の姿は、まるで森の中に潜む獣の気配を探る狩人のようだった。いや、事実としてそうなのだろう。彼女の肩はわずかに強張り、手はいつでも武器を抜けるように腰へ添えられている。この三日間、彼女はこうして周囲を警戒し続けていたのだ。


 俺を含めた全員が休憩している間も、彼女は深い森の闇を睨みつけるように見つめていた。彼女のその背中には、エルフの戦士としての矜持と仲間を守ろうとする責任感が滲んでいた。昨日の喧嘩の余韻が完全に消えたわけではない。俺は手元の水を見つめた。喉は渇いている。だけど、ヘルガの姿を見た瞬間、飲む気が少しだけ遠のいた。そのとき、カツキが俺の様子に気づいたのか、軽く顎をしゃくってきた。まるで『行け』と言わんばかりの、短い合図。それを受けて、俺は水筒の蓋を持ったままヘルガに歩み寄り、声をかけた。


「……ヘルガ、先に飲んでしまえよ。いざって時に動きけなくなるぞ」


「いいわよ、ジンから先に飲んでしまいなさい。ワタシは後でも構わないから」


 ヘルガは振り返るわけでもなく、ただ視線だけをこちらに向けた。その一言に、彼女の眉がかすかに動いた。彼女の声色には、義務感で固めたような硬さがあった。俺も近くで見て初めて分かった。彼女の頬はうっすらと赤く、呼吸も少しだけ早い。疲れていないはずがなかった。むしろ、負担を抱えているのは彼女だ。それでも、ヘルガは首を横に振った。


「ヘルガが倒れちまったらもともこもないだろ? ずっと無理してるんだろ? ケルベロスへの備えとか、戦力とか、そんなんじゃなくて……ただ、お前が心配なんだよ」


 言葉を吐き出した瞬間、自分で自分に驚いてしまった。ヘルガはしばらく黙り込んでいた。風がひとつ、彼女の美しい髪を揺らす。沈黙は拒絶ではなく、迷いの色を帯びていた。やがて、彼女は小さく息を吐いた。


「……なら、少しだけ、もらうわ」


 彼女はほんの少しだけ弱くて、ほんの少しだけ素直だった。短かい言葉だったが、そこには昨日にはなかった柔らかさがあった。俺は黙って、水筒の蓋を差し出した。ヘルガはそれを受け取り、喉を鳴らして水を飲んだ。彼女の肩の力が少しだけ抜けた。そして、飲み終わった蓋を俺に向かって突き返してきた。


「……美味しかったわ。これ、返しておいて!」


「あ、おい! まあ、いいか。……周囲の警戒を頼んだぞ?」


「フン、誰に言っているのよ。ジン!」


 ヘルガは鼻を鳴らしながらも、ほんの少しだけ表情が和らいでいた。昨日の喧嘩の影が、ようやく薄れていくのを感じた。水筒の蓋をヘルガに突き付けられた俺は一瞬だけ戸惑ったが、すぐに気持ちを切り替えることができた。カツキの方へ、自分の分の水を貰いにゆっくりと歩み寄る。


「カツキ、俺の分の水をくれ?」


「おお、いいぜぇ?」


 カツキは俺から蓋を受け取ると、一滴も零さないように丁寧に水を注いでくれた。手つきはとても慎重で、仲間を気遣う彼の性格がよく出ていた。


「それよりもどうだった? ヘルガは大丈夫そうだったか?」


「……心配いらないくらい、大丈夫だったよ。心配したのが損になるくらいな」


 そう答えると、カツキはにやりと笑った。


「そいつは良かった。ヘルガにとって一番いい薬はオレじゃなくてジンみたいだからな。昨日はどうなることかと思ったが……本当にリーダーがいてくれて助かったぜ?」


「メンケア担当のリーダーって、何だかな……いや、必要なのは分かっているんだけど……何だかな」


 俺は髪をわしゃわちゃと掻き上げながら、溜息をひとつ落とした。


「オレはさっきトールのヤツから少し貰ったからな。ジンが飲む分で最後のはずだ。ちゃんと味わって飲めよ?」


 俺が思わず苦笑をすると、カツキは満足そうに頷いた。雰囲気が、森の薄暗さを押し返すみたいに明るかった。彼の手の中で揺れる水面が、木漏れ日を受けてきらりと光った。水は見ているだけで、疲れた体にほんの少しだけ活力をくれるようだった。俺は蓋を受け取りながら、座る場所を探した。仲間の気遣いって、こういうさりげないところに宿るんだな、と思いながら。座る場所を探すついでに、皆のことを見る。皆の息遣いも、少しずつ落ち着いてきた。ほんの十五分の休憩。だけど、この十五分がきっと今日を乗り切るための大事な時間になる。そんなことを考えながら、俺はちょうどいい木陰を見つけて腰を下ろした。そして、ゆっくりと水を飲もうとした――そのときだった。


「ねぇ、少しいい?」


「――え?」


 珍しい人物に声をかけられた。思わず声が裏返る。真っ黒な制服と少し長めの黒髪。現世では街を歩けばどこにでもいるような格好だが、この世界では逆に特徴的になっている根暗な少年。猫背で、視線を下に落としたまま、ボソボソとした話す少年、トール君だ。彼が自分から俺に話しかけてくるなんて、ほとんど記憶にない。だからこそ、その一言が妙に胸に引っかかった。


「……」


 しかし、彼の方から言葉が続かなかった。彼の方から話しかけてきたはずなのに、本当はあまり興味がないかのようだった。言葉を探しているのか、それとも話す気がないのか分からない。彼の瞳はまったく動くことがなかった。俺の顔を見ているようで見ていない。


「……い、いいよ?」


 沈黙に耐えきれず俺の方から声をかける。すると、トール君はほんのわずかに顎を動かした。それが頷きなのかどうかも判別しづらい。そして、ぽつりと落とすように言った。


「君ってさ……魔法使いだったんだね」


「あ、あれ、話したことなかったっけ?」


「……うん、興味がないから」


「……そっか」


「……」


「……」


 俺は曖昧に返事を返すしかできなかった。短いやり取りの間に、胸の奥がざわりとした。だって、彼は『興味がなかったから』じゃなくて『興味がないから』と言った。過去形ではなく、現在進行形だ。つまり、彼は今も俺という人間に興味がないみたいだ。トール君の表情は変らない。彼の鉄仮面は、俺には剥がせそうにない。


「……君さ、向こうに残してきた家族とか気にならないの?」


「え?」


 唐突な質問だった。さっきまでの会話とはまったく繋がらない、急角度の話題転換。しかも、あまり触れていいのか分からないラインの話だ。トール君の瞳は相変わらず動かない。だけど、彼の目の奥には何か別の感情が、言葉にできない影のようなものが潜んでいる気がした。俺だって整理できていないんだ。だから、今の正直な気持ちを口にしてみることにした。


「……うーん、あんまり気になってないかな? 俺、家族とあんまり上手くいってなかったからさ。むしろ、距離ができて……少しだけ気が楽になった」


「ふーん。そっか」


 トール君はそれだけ言うと、踵を返した。立ち去ろうとしていた。彼のその背中は影のように細く、今にも森の闇に溶けて消えそうなほど危うかった。思わず、呼び止めたくなるほどに。


「あ、トール君!」


「……なに?」


 振り返った彼の目は、やはり感情が読めないままだった。


「トール君はどうなんだい? 家族とか……気にしていないの?」


「……姉が一人だけ」


 彼の言葉は乾いた土の上に落ちる小石のように軽く、重かった。瞬間、彼の声にほんのかすかな震えが混じっていた。表情は相変わらず無機質なのに、言葉の端だけがわずかに揺れていた。俺は思わず、トール君の目をじっと見つめた。いつもは深い井戸の底みたいな彼の目の奥に、初めて感情が宿ったような気がした。昔を思い出すような、優しく、泣き出しそうな……そんな、壊れ物みたいに繊細な光だった。


「……そっか。トール君には、お姉さんがいるんだね。俺も兄貴が一人いたよ? 優秀過ぎて……俺にとっては、目の上のタンコブみたいな兄貴だったけど」


「……」


 言葉を選びながら、ゆっくりと口にする。トール君は返事をしなかった。だが、ほんの少しだけ視線が動いた。森の影が彼の横顔を半分だけ覆い、残り半分に淡い光が差し込んだ。そのコントラスト、彼の孤独をいっそう際立たせていた。俺にはその揺れが、彼の心がわずかに動いた証のように思えた。だが、彼はすぐに口を閉ざし、また無表情に戻った。俺が再び、トール君に声をかけようとした次の瞬間――ヘルガが声を荒げた。


「森が騒めているわ! 周囲を警戒しなさい!」


 ヘルガの鋭い声が、穏やかな空気を切り裂いた。それが、束の間の休息が終わる合図だった。さっきまでの会話が、まるで夢の中の出来事だったかのように遠ざかっていく。俺とトール君は同時に顔を上げた。カツキはすでに腰の武器を抜き、シモンさんたちも素早く陣形を整え始めている。熟練の海賊たちの動きには迷いがなく、まるで長年の経験が身体に染みついているかのようだった。俺やトール君、ウタたちも森に武器を向けて威嚇するように構えた。


 張り詰めた。空気が一瞬で張り詰めた。鳥たちの鳴き声さえ止む。言われずとも理解した。ケルベルスが近づいてきているのだと。ケルベルスは姿も気配も悟らせないまま、ケルベロスは俺たちを殺し(かり)に来ているのだ。気配を殺して近づき、一気に命を奪うつもりなのだろう。それは、ケルベロスが狩りを得意とする証拠だ。こちらに気づかれないように近づき、気づいたときにはもう遅い。

 

 俺たちには何も分からない。感じられない。だが、森の奥で何かが動いた気配をヘルガは確かに感じ取ったのだ。エルフとして敏感な五感を持ち、長く森の中で生きてきた彼女の言葉を信じるしかない。森の中で何かが動いた気配を確かに捉えたのだ。森全体が息を引き取ったかのように静まり返った。柔らかな木漏れ日さえも、今は冷たく感じられた。


「……本当に、来るのか?」


 ヒデトラさんが縋るような声でヘルガに向かって呟いた。だが、彼女は一言も発さなかった。それだけ意識を森の奥に潜むケルベロスに集中しているのだ。言葉を発するその一瞬の隙を突いて、ケルベロスが襲いかかってくると彼女はそう思っているのだ。少しの意識の乱れも、許されない状況なのだと嫌でも理解させられた。手のひらがじんわりと汗ばむ。俺は喉を鳴らし、武器を握り直す。今はただ、迫りくる気配に集中するしかなかった。瞬間、森の奥で何かが確かに動いた。全員の視線が一点に集まった。


「……ッ!」


 全員が息を呑んだ。森の奥から、風とは違う何かが押し寄せてくる気配があった。その直後、鼻を掠めるように、鉄のような臭いが漂った。血の臭いだ。空気が一段と冷たくなった。誰もが一瞬、身体を強張らせた。不気味だ。ヘルガが容赦なく矢を放った。


 ヘルガの指先が、手にしていた二本の矢のうち一本を迷いなく摘まみ上げ――放ったのだ。彼女の放ったその矢先に、透明の液体が薄く光っていたのを俺は見逃さなかった。ヒュドラの毒。どちらも、忌々しいあの毒だ。ヘルガは一瞬たりとも躊躇しなかった。弦を弾く音が、張り詰めた森の空気の中で鋭く響いた。放たれた矢は、木々を薙ぎ倒すかのような勢いで飛び出し、荒々しい軌道を描くが、木々の間を縫うように滑らかに抜けていく。正確だった。まるで矢そのものが生き物のように、獲物を探して森の奥に吸い込まれていく。ウタが息を呑み、シモンさんが低く唸った。


「……どうだ?」


「分からないわ、でも……手応えはあったわ」


 カツキとヘルガの二人が噛み殺すような声で短く言葉を交わした。俺たちにも聞こえるように。驚きと緊張が入り混じっていた。ヘルガの矢はただの攻撃ではない。探りであり、威嚇であり――そして、牽制だった。生々しい音。耳に届いたのは、草木が揺れる音。血が噴き出るような音。何かが倒れ込むような鈍い衝撃音。ヘルガの風を纏った矢の勢いに押し出され、草木の隙間から矢が刺さった『何か』がわずかに姿を覗かせた。


 見えたのは、鹿だった。その鹿は、まるで何かに捕らえられたように木に引っかかり、ぐったりと垂れ下がっていた。鹿の遺骸が、木に吊るされていた。自然のものとは思えない、不自然な姿勢。森の静けさが、さらに深く沈んでいく。首から上がなくなった鹿の遺骸が、俺たち目に入った瞬間――背後で、枝が折れる音が響いた。森の奥ではなく、俺たちのすぐ後ろからだ。


「「――ッ!」」


 俺とヘルガの二人だけがその音に反応できた。方角は……後ろ。そこには、アンゴが立っていた。彼はまだ鹿の方を見ていたが、足元はしっかりと震えていた。ケルベロスの巨大な顎の一つが、地面すれすれに潜り込み、アンゴの足を狙って迫る。迫る。迫る。迫――


「ァッ! イ――」


 短い悲鳴が上がった。アンゴのものだ。彼の身体が足元から何かに弾かれたように跳ね上がった。ケルベロスの鋭い牙に足を噛まれた。見えない力に引きずられるように、アンゴの身体が宙に持ち上げられた。宙に振り回されていた。ケルベロスは捕まえた獲物で遊ぶのが趣味みたいだ。流れる血が、彼の皮膚を覆い隠す。足が食い千切られなかったのが……まだ食い千切られていないのが、奇跡のようなものだ。旗さんとローブさんが駆け寄っていく。二人は咄嗟に、アンゴを助けようとしたみたいだ。


 ケルベロスは、二人が攻撃を仕掛ける気配に先に勘づいた。草の影が、一際大きく揺れる。旗さんの右腕を爪で軽く傷つけ、尻尾でローブさんの身体を横に薙ぎ払った。ローブさんは反射的に左手を間に滑り込ませることに成功したみたいだが、勢いを殺せるわけではない。受け身を取ろうとしたのだが、地面に転がる。吹き飛ばされる。彼の左腕が、不自然な方向に曲がってしまっている。ケルベロスが触れたのは一瞬だったのに、二人の体勢は完全に崩されてしまった。


 ヘルガが残りの一本を振り向き様に放った。風が一筋、森を横切る。矢は、ケルベロスの影を追いかけるように走る。軌道は鋭く、迷いがなかった。ヒュッ、と風切り音が空間そのものを裂く。ガンッ、と乾いた衝撃音が森に跳ね返った。矢が、太い木の幹に深々と突き刺さったのだ。木肌に食い込んだ矢羽が、微かに震えていた。


 軽く舌打ちをしたヘルガは、すぐに腰の矢筒から新たな矢を二本抜き取った。次の動きを探るように、ケルベロスを睨みつける。そこにいたはずの巨大な影は、もう姿を消している。まるで、森のそのものに溶け込むように、位置を変えていた。移動していた。葉が擦れ合う音が、妙に遠く聞こえていた。ケルベロスがまだ近くにいる。痛みに悶えている三人を助けたい気持ちはあるのに、身体が動かなかった。俺たちは自分の背中を互いの身体で隠すように周囲を警戒した。


 次は自分たちの番だと、何故か理解したからだ。ケルベロスの牙が向かう先は、怪我をした三人ではなく、俺たちなのだと冷たい直感が胸をくすぐった。この場に残されたのは、まだ怪我をしていないのは――俺を含めて九名。目線を仲間たちへと滑らせる。俺、ヘルガ、カツキ、ヒデトラさん、シモンさん、ウタ、イオリ、ニック。もう一度、仲間たちの顔を素早く見渡す。誰もが息を潜め、ケルベロスの影を探っていた。


「……っ! いた――」


 ケルベロスの姿を見つけた。だが、口が凍ったように動かなかった。目が合った。木々の陰。深い影の奥でふたつの光がこちらを射抜いていた。満月のような丸く、濁りのない光。夜の獣が持つ鋭さを、もっと研ぎ澄ましたような、冷たさがあった。心の奥底まで覗き込んでくるような、恐怖を引きずり出してくるような、そんな瞳だった。視線に触れた瞬間、背筋がぞわりと粟立つ。俺の小さな声に反応できたのは隣に立っていたカツキ一人だった。


 ケルベロスは動かない。ただ、じっとこちらを見ている。逆に恐ろしい。その静けさが、逆に恐ろしかった。まるで、次に誰を狙うかを選んでいるかのようだった。いや、違う。次は――次は、俺の番だ。


 喉が乾き、呼吸が浅くなる。足元の落ち葉が、かさりと小さく鳴った。ケルベロスの瞳がわずかに細められた。口元が愉悦に歪んでいた。ケルベロスの全身が弓弦のように丸め始めた。全身の獣毛を逆立たせ、鋭い牙をカッカッと鳴らした。膝が笑いそうになるほどの威圧感がある。戦意を喪失させるような圧迫感がある。次の瞬間。ケルベロスは、地面を蹴った。四肢が地面を抉るように踏み込み、砂塵が舞いあがる。黒い影が一直線にこちらへ向かってきた。


 速い。胸の奥がぎゅっと縮む。逃げるという選択肢は、もうどこにもなかった。一瞬が永遠のように長く感じられた。俺の身体が、ケルベロスに傷つけられる瞬間――パンッ、と無機質な音が響いた。一瞬、何が起きたのか理解できなかった。空気が弾けたような、そんな音だった。黒い影が、目の前で揺らぐ。ケルベロスの身体に血が噴き出した。細い、細い、鏃がケルベロスの眼下に突き刺さっていた。


 ヘルガか、と思ったが種類が違う。ヘルガがいつも使っている矢よりも短く、細い。形も、色も、まるで別物だった。その隙を突くようにカツキが少しだけ助走をつけ、手に持っていた薙刀をケルベロスに向かって投擲した。槍投げの要領で放たれたカツキの薙刀は、一直線にケルベロスの左足に直撃した。だが、巨体は揺るがない。ケルベロスは低く唸り、カツキのことを覚えるようにじっと見据えていた。


「逃がさないわ、よ!」


 ヘルガが二本の矢を放った。だが、ケルベロスはすでにそこにはいなかった。次の瞬間には、もう別の場所にいた。まるで森そのものがケルベロスの味方をしているかのように、音もなく位置を変える。本当に、ヘルガのことを……ヒュドラの毒だけは警戒しているみたいだ。ケルベロスがまた森の中に姿を消した。また、周囲を警戒しないといけない。俺がそんなことを考えながら、武器を握る手に再び力を込めると――


「……行ったみたいね」


 ヘルガはそう呟いた。彼女の声は、張り詰めていた弦がようやく緩んだような、かすかな安堵を含んでいた。彼女の言葉に引き寄せられるように、俺も森の奥へ視線を向ける。さっきまでそこにいたはずの巨大な影は、もうどこにも見えない。その事実を前にして、ようやく全身から力が抜けた。握り締めていた武器が、汗で少し滑りそうになる。呼吸がゆっくりと戻ってくるのを感じた。終わったのか、という疑問が頭を過る。森は静かだった。何かが息を潜めてこちらを見ているような、そんな不気味な気配を孕んでいた。


「……」


 そこで俺は、思い出したかのように視線を矢が飛んできた方へ彷徨わせている。すると、空間の一部が歪んでいるのが分かった。揺らぎの中心から、影を伸び、輪郭が形を成す。虚空から、いきなり弓を手にしたトール君が姿を現した。魔法で、透明になっていたみたいだ。文句を言いたい気持ちと感謝を伝えたい気持ちの両方が同時に押し寄せてきて、言葉が喉でつかえてしまった。


「おい、三人とも大丈夫か!」


 カツキが慌てた様子でアンゴの方へと駆け寄った。ローブさんの方にはシモンさんとヒデトラさんの二人が向かっていた。だから俺は、近くにいた旗さんの方へと向かった。旗さんの傷を確認する。皮膚が裂かれたように血が出ている。見た目は派手だが、深くなさそうだ。そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。


「アンゴの足は無事だ! だけど、血がかなり出ている。今すぐ血を止めないと明日まで持たない! そっちはどうだ!」


 カツキの切羽詰まったような声が森中に響き渡った。カツキはアンゴの足を縄で縛りつけた。圧迫して、止血しようとしている。その手つきは荒っぽいのに、必死で丁寧だった。彼の声に一番最初に反応したのは、シモンさんだった。シモンさんはローブさんの左腕を確認した後で、短く叫んだ。


「こっちは、大丈夫だ! 左腕が折れちまってるが、これだけならオレたち二人で大丈夫だ!」


 シモンさんの声を聞いて、俺はようやく旗さんの方へと向き直る。こちらに意識が向けられたのが分かった。俺一人だ。俺がなんとかしないといけない。でも、医療知識のない俺が、勝手に『大丈夫だ!』なんて言ってしまっても大丈夫なのか、という恐怖のせいで頭がこんがらがってしまった。すると、旗さんが痛みで顔を歪めながら、手で制するように俺の身体をそっと押し返した。


「大丈夫。ちょっとだけ、血が出てるだけだ。ジン君に手伝ってもらったら、ボク一人でも処置できるくらいだ」


 旗さんは微笑みかけてきた。俺を安心させるように。弱弱しいはずの立ち姿には、不思議と安心感があった。俺は処置がしやすいように、と旗さんの服を一枚脱がした。すると、遠くで『ヤバいな』という風に乗ってカツキの方から聞こえてきた。


「ジン、マッチを出せ! ヘルガとトールはケルベロスに注意しながら、枝を集めてくれ! 火を起こして、傷を焼き塞ぐ!」


「いや、だが――」


「それしか、方法を思いつかない! 他があればいいが……このままだと先に出血死する! 早く、動け!」


 ヒデトラさんが口を挟もうとしたが、カツキの恫喝に掻き消された。怒りはない。焦りと恐怖と責任が全部混ざり合ったような、カツキの口から聞いたことがない響きをしていた。少なくとも、普段の彼から想像ができないほど激しい口調だった。


 俺たちは、カツキの一言を受けて跳び上がるように動き始めた。何をするのかを考えるよりも先に、身体が動いていた。腰のポーチを探り、マッチ箱を取り出すと、それをヘルガに投げ渡した。トール君は透明になり、ヘルガは弓を構えたまま、森に潜む影を警戒しながら素早く動いている。


 手が震えていた。一瞬の出来事だった。なのに、一分にも満たない攻防の果てに……俺たちは、気づけば危機的状況に追い込まれていた。胸の奥ではまだ戦いの余韻が渦巻いている。鼓動が鳴り続けている。嵐のような体験だった。そして俺は、ようやく理解した。ケルベロスという名の脅威が――確かな形を持って、俺たちに迫ってきたのだと、本当の意味で理解できた。



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