無という地獄から救ってくれた人
「そ、それで条件とは?」
「ま、待って。心の準備がいる」
条件を出すと宣言したメー子の方に心の準備がいるとは思ってもいなかった僕は、簡単な条件ではなく実はとんでもない条件ではなかろうかと考えてしまいさらに緊張が増してしまう。
「えっとね……」
少し視線を逸らし気味に頬をかく姿は、僕の見間違いでなければ恥ずかしそうにしているように見える。見間違いでなければだが。
「うーんっと、恵人!」
「はい……」
いきなり僕の名前を呼びながら指をさしてくるので思わず返事をしてしまう。ふんと荒い鼻息を一つしてメー子は自分自身を指さす。
僕が首をかしげるとメー子はふん! ふん! と声を出しながら自分のことを何度も指さす。
「え? えっと……?」
「あー、鈍い」
ジト目になって呆れるメー子が僕を指さす。
「恵人。じゃあ、私は?」
そう言って再び自身を指さしてようやく意図を理解する。
「あ、ああなるほど。メー子であってる?」
「むっ! あってるはいらない。もう一度」
「え、えっと……メー子」
「よくできた」
腕を組んで満足気にうんうんと頷くメー子の意図が未だ掴み切れていない僕が戸惑っていると、メー子が腕を組んだままチラッと見てくる。
「今から名前で呼ぶ。私だけ呼ぶのはひきょう」
「名前? いやひきょうって、きみが呼んでただけでぇ⁉」
「な・ま・え!」
僕の言葉を遮りいつの間にか目の前に迫っていたメー子が僕をにらんで圧をかけてくるせいで思わず咳こんでしまう。
「メー子……」
「よしっ」
納得するメー子に対してなんだこれ? と思っていたら肩をポンポンと叩かれる。
「それが条件」
「それがって、名前呼ぶのが条件ってこと?」
「そう。私だけ恵人呼びはひきょうだから」
「ひきょうってさっきも言ってたけど、いきなり名前呼びってハードル高くない? 実際に出会って三日程度なわけだしさ」
「そんなことはない。もっと……なんでもない」
「もっと? 今何か言いかけたよね?」
「しつこい」
何かを言いかけたメー子に対し攻め込もうとしたら頭に手刀を落とされ強制的に制止される。
「ある日のこと私は……」
「あ、始まるんだ」
そして唐突に始まるメー子の話にそれ以上攻めるのは止めて耳を傾ける。そんな僕の姿勢に満足したのかわずかに微笑んだメー子が両目をつぶる。壮大な話が始まりそうな予感に期待してしまう。
「気づいたらビルの上にいた」
……しばらくの沈黙。結構な時間我慢したつもりだが耐えきれなくなった僕は口を開く。
「それで?」
「おしまいっ」
「いや全然きみの過去が分からないんだけど」
「こらっ、名前」
メー子の手刀が僕の頭に落とされる。
「ごめん、今の話じゃメー子の過去が分からないんだけど」
メー子は素直に謝る僕から手を離して腕を組む。
「だってしかたない。本当に気づいたらあそこにいたから」
ふんっと顔を逸らして拗ねてしまう。確かに幽霊の自覚もなかったくらいだしあそこにいた理由を知らないのはしかたないのかもしれない。
「じゃあ、あそこにいてからの記憶とかでいいから何かない?」
「あそこにいた記憶……」
僕をチラッと見たメー子の瞳にふっと影が過る。
「あそこは、ずっと何もなくてただいただけ」
どこかもの悲しくメー子は喋る。
「風も匂いもなくて、何も触れられなくて誰も見てくれない時間だけが過ぎる。ずっと……ずっと……ただあそこにいただけ」
ぽつりぽつりと語りだしたメー子の姿がすごく悲しそうに見えた僕は「もういい」と声に出そうとするが先にメー子が首を横に振る。
「楽しいこと考えようとしたり、屋上に来る人たちを観察して暇をつぶしてみたりしたけどすぐにやめた。他の人が楽しそうにしているのを見て私もあんなことしたいなぁって考えると辛くなるの。だって、このつまらない毎日がいつ終わるかなんて分からないし、私はあっちに行けない気がしてたから……地獄ってこういうことを言うんだろうなって。でも、ある日すごく面白いことがあったの」
一瞬だけ僕をチラッと見てメー子は話を続ける。
「私の足下に猫がいた。もちろん猫は私のことなんて気づいていないんだけど、柵の向こうからある人が「危ないよ」って話しかけてきたの。私に言ったんじゃないのは分かってるけど、ちょうど目の前にいてまるで私に話しかけてくれたみたいだった」
その状況を思い出しているのかメー子は目をつぶる。
「それでその人は猫に必死にこう言うの。「ほらっ、とっておきのから揚げあげるからこっちへおいで」って。必死にから揚げを摘まんだ箸を振るってアピールするの。必死にから揚げを振る人なんて見たことなかったから思わず笑っちゃった。私が見てることなんて気づかずにその人は猫との交渉を続けるの」
そのときの光景を思い出したのか口元を押さえ笑いをこらえるメー子の話を聞きながら、段々と記憶が蘇ってきた僕は体がそわっと浮くような感覚を覚える。
「でね、結局から揚げとられて逃げられるんだけど。その人ね、逃げる猫を見て「無事で良かった」って言うの。だから私も「そうだね」って言ってみた」
目を開けたメー子が僕を見つめる。
「その日から私はその人を観察していた。毎日来てくれるわけじゃないけど、その人は屋上のドアから出てくると真っ直ぐ私の前に来てなんか喋るの。愚痴だったり、仕事の予定だったり、無言でため息だけだったり……それに私は返事してた。絶対に聞こえないって分かってたけどそれでも楽しかった」
僕が言葉を挟む隙を与えず一呼吸だけ置いてすぐに話しを続ける。
「気付けばずっとその人を見てた。その人が来た日は良い日。来なかった日はダメな日。いつ来るか分からないから夜も待てた。それまでの私はずっと何も考えないようにしてたけど、気になってからはずっと明日は来てくれるかなって思った。それで来てくれた日は言葉を交わして、いなくなった後はその人とどこか一緒に行けたら良いなって必死に私の知っている知識の中で想像してた。絶対に無理だと思ってた、だけどそんなことがあったらいいなってずっと、ずっと思ってた。そしたらある日その人は屋上にカップラーメンを持って来て突然私に話しかけるの」
メー子は僕を見て微笑む。
「そんなところにいたら危ないよって」
そこまで言って僕を見て頬をほんのり桜色に染めたメー子は顔を逸らす。
「え、えっと……それって」
「おしまい! 私のことは話した。次は恵人の番」
「いや、僕の番ってきみの、いやメー子の話に出てきた人って……」
「お・し・ま・い! これ以上は何も話さないから終わりなの」
両手で大きくバツを作って会話を拒否するメー子に、僕はなんと声をかければいいのか思いつかず口をもごもごと動かすにとどまってしまう。ここで何かしら気の利いたことが言えないからこそ深い人間関係に発展したりしないのだろうと冷静に考えてしまう。
「恵人、お腹空いた」
「いや、晩御飯食べたばっかりでしょ」
「たくさん話したから疲れたの。疲れたときは甘いもの食べるのは常識。今こそコンビニで買った冷凍マンゴーの出番! レッツ解凍!」
元の調子に戻ったメー子の発言に頭を押さえて呆れつつも、一方で会話の糸口が見えずに言葉に詰まった僕としては助かったと感謝する。
まだ出会って日は浅い、メー子の今後をどうするかを考える時間はあるはずだし、今はメー子の話をすることの方が大切だろう。ついでに僕の会話スキルを磨こうと誓いながら冷凍マンゴーを解凍しに冷蔵庫へと向かう。
向かう途中、僕の横で楽しみすぎて跳ねるメー子を見てさっき話したことを思い出す。
「地獄か……」
マンゴーを解凍するため皿に移しながら、味も感触もない世界で孤独に過ごすメー子が呟いた言葉を思わず口に出してしまう。
ハッとして隣にいるメー子の方を見ると、僕のことをじっと見ていて余計なことを呟いてしまったと思うがメー子はふっと笑うと僕の腕にしがみつき冷凍マンゴーを摘まんで口に放り込む。
「今は天国……ううん、それ以上。このままでもマンゴーおいしいよ」
そう言って冷凍マンゴーを摘まんで僕の口に押し付けてくる。唇に触れるひんやりとした感触が心地よく感じる。グイッと押され口を開けるとマンゴーは押し込まれ口の中にひんやりとした感触が移動する。代わりに唇にはメー子の指の感触がある。
「ずっと夢見てた。色んな所に行って、たくさん食べて、知らない場所を見て。だから今すごく楽しいの。まだまだやりたいことあるから成仏なんてしたくない」
そう言って僕の唇をグッと押してニシシと歯を見せて笑う。
「だから恵人に憑りつくことにした。すーっと憑りついてやるの」
「ついさっき憑りついてないって言ってなかったっけ?」
「今決めた。だから今から憑りつくから離れないの」
ふふ~んと言いながらメー子はマンゴーを口に放り込んで再びニシシと笑う。
「はいはい、そうですか。正直どうしていいのか分からないけど離れられないなら、ひとますはこれからどう生活していく方がいいと思うんだ」
僕の言葉に目を丸くして驚いた表情を見せたメー子だがすぐにぱあっと明るい表情になる。
「やっぱり思ってた通りの人だった……ううん、それ以上」
小さく呟いたメー子がマンゴーを摘まむと僕の口に押し付ける。
「お気持ちだけど、よろしくの品。じゃあはい、あーん」
マンゴーを口に入れた僕にメー子が口を開けて待つ。その姿に戸惑いつつ意図が読めた僕はぎこちなくマンゴーを摘まむとおそるおそるメー子の口に近づける。
「え、えっと……よ、よろしく」
緊張で裏返った声の僕はメー子の口にマンゴーを放り込むと、もぐもぐと食べるメー子が満面の笑みを見せる。
出会ってからバタバタと忙しい日々だったが、ここにきてようやく少しだけどメー子と向き合えた気がした。これからどうするべきなんかは正直全く分からないが、今はこの子が少しでも楽しめることをしようかなと思う。そう思った日だった。




