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そばが食べれる夢

 緑色の麺を一口分箸で掴み、底が見えないほどに濃いつゆに漬ける。麺が十分につゆを吸ったのを確認して、そのまま一気に口へ運ぶ。

 ジュルジュルジュルジュル。

 爽快な音が口元で弾けると、こしのある食感とつゆの旨味が口の中で戯れる。そしてそのまま身体に染み込んでいき、俺を満たしてくれる。

 そんな一瞬の甘美な体験を再び求めて、また俺は麺の山に箸を伸ばす。

 ジュルジュルジュルジュル。ジュルジュルジュルジュル。ジュルジュルジュルジュル。 

 西欧人なら真っ青になりそうなくらい、音を立てて麺をすすった。西欧人的にドン引きだとしても、これが日本の食文化だ。それに、仮に日本人までもが音を立てて飯を食うのに恥じ入って、これまでの主義を棚に上げて静かにお淑やかに麺をすする日が来たとしても、俺は豪快に音を立てて食ってやる。マナーが何だと言うんだ。

「旨い」

 俺はいつの間にか呟いていた。

「吉岡、お前そば駄目なんじゃ無かったっけ?」

 一緒に昼食を摂りにそば屋に入ったクラスメイトが、今更のように心配そうな顔で俺の顔を覗き込んできた。

「駄目だったけど、今日は大丈夫だな。治ったんじゃね?」

「アレルギーってそういうことあるのか?」

「良く分からないけど、そういうこともあるらしいよ」

「ふーん、そうなんだ。ま、良かったな。吉岡もそばの旨さが分かってさ」

 そう言って、クラスメイトも顔を綻ばせながらそばをすする。こいつは大のそば好きだ。

 俺も負けじとそばをすする。生まれて初めてまともにそばを食ったが、これは相当旨い。まさか、この世にこんな旨いもんがあったとは。

 今まで、自分がそばアレルギーであることを別に不幸だとは思って無かったけど、もの凄く不幸だったって事に初めて気付いた。この味を知ること無く、俺は一生を終える所だったんだ。それが悔しくて、でも今そばを食えてることが嬉しくて、俺は夢中で箸を伸ばし続ける。

 腹を空かせた高校生が一盛りで足りる訳がない。俺達は何盛りもお替わりしてそばを食った。

「おお! 吉岡食うねぇー」

「お前もだろ」

 ジュルジュルジュルジュル。ジュルジュルジュルジュル。ジュルジュルジュルジュル。

 俺等は派手に音を響かせて、お互い笑い合いながら夢中で麺をすする。

 一盛り、一盛り、また一盛り。どんどん山を腹に収めていく。なぜそばを食うのか? そこに山があるからだ。

「うん?」

「どうした?」

 腹も溜まってきて、あと一盛りで終わりにしようか、と考えている時だった。

「地震か?」

 急に視界が揺れ出した。だが、奇妙な事に周りの人達は揺れに気付いていないようだった。

「吉岡! 大丈夫か!?」

 クラスメイトが俺に手を伸ばす。

「うご・・・・・・、うぐ・・・・・・、ううぅ! う! う、ううん! あ、ごぉ、ごほ!」

 口まで震え始めて、俺は何も話せなくなった。そして気付いた。これはアレルギー反応だ。

 周囲の人達が走ってきて、俺を床に寝かせてくれた。誰かが必死になって、俺にそばを吐き出させようとしている。

「吐け! 吉岡! 吐け!」

 遠くの方で、誰かが俺の名前を呼んでいる。だが、誰が吐くものか。俺は今、幸せなんだ。この幸福を奪われてたまるものか。

 俺は吐かせようとする手に必死に抵抗した。心なしか、息が苦しくなってきた気がする。気付けば、目を開いているはずなのに、目の前が真っ暗だ。

「おい! 吉岡ぁああああ!」

 そばは、死ぬほど旨かった。


******


「この人、馬鹿じゃないの・・・・・・」

 吉岡という名前らしい少年が吹き出す悪夢を綺麗に巻き取りながら、あかりは呆れたように呟いた。

「馬鹿じゃない。食べたかったんだよ。そばが」

「えぇ? だって、アレルギーなんだよ?」

「皆が旨そうに食ってるのに、自分はそれが食えない。自分だけその味が分からない。そんな時、あかりはどう思う?」

「別に・・・・・・。なんとも思わないと思うけど? そう言うものだって割り切るよ」

「そっか」

 寂しげに微笑を浮かべて、希夢は少女を見つめた。

「俺だったら、多分もの凄く食べたくなると思う。そして、それができないのが、どうしようもなく悔しいだろうな」

「おそばよりも美味しいものはたくさんあるじゃん。わざわざおそばに拘らなくても良いんじゃない?」

「そういう事じゃ無いんだよね」

 希夢は苦笑した。

「俺は色弱なんだよ」

「色弱?」

「目の色を判断する部分が普通の人よりも少ないってこと。俺の場合は、緑色が良く見えないんだ」

「えぇ!? じゃあ、希夢くんは緑色がどんな風に見えてるの?」

「普通の人が言うところの灰色に見えてるらしいよ。それも俺には分からないけどね」

「なら、灰色はどう見えてるの?」

「灰色だよ。だから、緑色と灰色の違いがあまり分からないんだよね」

 あかりは寂しそうに希夢を見上げている。

「俺には、他の人がこの世界をどう見ているのか、一生分からないんだ。それはやっぱり悲しいし、悔しいよ。普段は何にも感じ無くてもさ。突然、どうしようも無く辛くなることがある」

「ごめんね、希夢くん。何も知らないのに、勝手な事言っちゃった・・・・・・」

「良いんだよ。あかりは、何も知らないってことが分かったんだ。十分な成長だよ」

 希夢は、しょんぼりするあかりの頭を優しく撫でてあげた。

「希夢くん、くすぐったい」

 そう言うものの、あかりは嫌がるそぶりは見せず、頭を希夢に預けきっている。

 そうこうする間に、あかりは悪夢を巻き取り切っていた。

「どうぞ、召し上がれ」

「頂きます」

 ジュルジュルジュルジュル。

「ははは! そば食ってるみたいだな」

「だって、わたしもおそば食べたくなったんだもん」

「そばって言っても、悪夢だから不味いだろ?」

「うん・・・・・・。滅茶苦茶、苦ぁい」

 夢をすすりながら、あかりは顔をしかめていた。

「しゃあないなぁ。帰ったらそば食わせてやるよ」

「ほんと!?」

 あかりは顔を輝かせた。

「ああ。ただし、カップ麺だけどな。俺はそばなんてゆでられないし」

「希夢くん、不器用だもんね」

「ゆで方を知らないだけだ」

 少しだけ膨れて希夢は言った。そんな風にすねる希夢の様子が面白くて、あかりは笑う。

「まあ、良いや。ありがとう。希夢くん」

 ジュルっと、最後の一口を呑み込むとあかりは嬉しそうに言った。

「じゃあ、帰ろうか」

「うん!」

 そう言う希夢の腕に自分の腕を巻き付けて、あかりは声を弾ませる。

 あかりの左手から吹き出す煙が雲になり、部屋の片隅に横たわった。いつも通り、二人はその中に飛び込んでいく。

「でもまあ、どんなに悔しくても、どんなに足掻こうとも、吉岡はそばが食えないよ。その運命は受け入れなきゃな」

 そんな希夢の声だけが、吉岡の部屋に残った。

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