【飢餓への誘導】
白堊理研本部跡地をすっぽりと覆い隠す重篤なエレメント汚染の靄は、かつてそこにあったはずの人間の営みを完全に消し去っていた。
レイブレードという必殺の兵器によってもたらされたヘキサグラムの崩壊現象。
それは単なる物理的な破壊にとどまらず、空間そのものを汚染し、あらゆる生命の存在を拒絶する死の領域を作り出す。
フレンダは、愛機であるロード・インパルス【Reloadead】の操縦席で、ナイトアーマー【ビアンコ】の気密バイザー越しに広がる灰色の景色を睨みつけていた。
癌細胞由来の特殊な体細胞を持つフレンダの肉体は、常人であれば数分で致命的な症状を引き起こす高濃度の汚染環境下であっても驚異的な耐性と回復力を見せる。それでも、肺の奥底に微かに張り付くような息苦しさと、視界を覆う絶望的な光景は、彼女の気分をひどく沈ませた。
「……何の手掛かりもない、か。派手にやってくれたよね、本当に」
フレンダは操縦桿から片手を離し、ヘルメット越しに自分の首筋を軽く叩いた。
生存者はおろか、かつて本部だった建物の原型すら留めていない。ひび割れた大地から立ち上る黒煙と、計器類にノイズを走らせる残留エネルギーの波長だけが、ここに圧倒的な暴力が通り過ぎたことを証明していた。
《フレンダ、これ以上の汚染区域への滞在は機体フレーム、およびナイトアーマーの環境維持システムに悪影響を及ぼします。また、貴女のバイタルサインにも微小ながら疲労の蓄積が確認されています。速やかな離脱を推奨します》
搭載AIであるKARMAメイの理知的な声がインカム越しに響く。彼女の声帯モジュールから発せられる音の波は、フレンダにとって何よりも心を落ち着かせる精神安定剤のようなものだった。
「うん、そうだね。このままじゃ今日の晩ご飯の味が分からなくなっちゃう。リトルベースに帰ろう、メイ」
《了解しました。現在位置より最短ルートで汚染区域を離脱、リトルベースへの帰還軌道へ移行します》
ロード・インパルス【Reloadead】の強靭な人工筋肉が脈動し、獣の四肢が汚染された大地を蹴った。
かつての愛機がフレーム崩壊を起こしたのち、新型のフレームデータを流用して極秘裏に再建造されたこの機体は、ロード・インパルス特有の荒々しい獣性に、【Reloadead】フレームのしなやかな剛性が加わり、以前にも増して恐るべき機動力とポテンシャルを秘めていた。
荒涼とした荒野を疾走しながら、フレンダは少しでも気を紛らわせようと、帰還後のメニューに思いを馳せていた。
「帰ったら特盛のシチューがいいな。リチャードさんに頼んでレーションじゃなくて本物のじゃがいもを少し分けてもらおう。ミカちゃんには内緒でね」
《ミカには事後報告という形をとるのですね。ミカの胃痛の種が増えることが予想されますが、フレンダの精神衛生の維持を最優先とし、私もデータ改ざん……いえ、帳簿の調整に協力しましょう》
「ふふっ、メイは本当に優秀な相棒だよ」
他愛のないやり取りを交わしながら、汚染区域の周縁部、比較的視界の開けた峡谷地帯へと差し掛かったその時だった。
《緊急事態です、フレンダ!現在地より北東へ約二キロの地点から、リバティー・アライアンスの暗号化された救難信号を受信しました。同時に複数の爆発音と微弱なヘキサグラムの異常波長を検知しています》
メイの声が日常のそれから、冷徹な戦術AIの響きへと瞬時に切り替わった。
「北東二キロ……こんな汚染区域の近くに味方の部隊が?」
《照合しました、白堊理研所属の小規模な補給部隊です。民間居住区および前線基地へ食料と医療物資を輸送中だったルートと推測されます。現在、護衛のヘキサギアの反応が次々とロストしています》
「食料と医療物資……!」
フレンダの蒼い瞳に鋭い怒りの色が点った。
白堊理研本部が壊滅した今、残された物資は血の一滴にも等しい価値がある。それを失えば、前線で戦う兵士たちだけでなく、白堊理研の庇護下にある多くの民間人が飢えと病に苦しむことになるのだ。
「明日のご飯を奪う奴は絶対に許さない!メイ、グラビティコントローラー起動!最大戦速で急行する!」
《了解。グラビティコントローラー、スタンバイ。ロード・インパルス、突撃軌道へ》
重力制御装置が機体の質量を欺き、巨大な獣型ヘキサギアは空を飛ぶかのような跳躍を見せた。岩肌を蹴り立て、風を切り裂き、フレンダとメイは真っ直ぐに煙の上がる方角へと突進した。
数分後、峡谷を抜けたフレンダの視界に飛び込んできたのは、無惨に破壊された輸送コンボイの残骸だった。
ひっくり返った輸送トラックからは黒煙が上がり、荷台から崩れ落ちたコンテナがひび割れ、中から貴重な合成麦やレーション、医療用の防護パックが荒野の砂土の上に散乱していた。
護衛についていた数機のポーンA1や旧世代のヘキサギアは、どれも致命的な一撃を急所に受けて沈黙している。火線の痕跡から見て、多人数による襲撃ではない。たった一機による、手慣れた蹂躙劇だ。
「生存者は……っ!」
《熱源探知。生存者ゼロ。護衛のガバナーも、輸送要員も、全てバイタルサインが消失しています》
「そんな……」
フレンダが唇を噛み締めたその直後。炎上する輸送トラックの奥、揺らめく陽炎と黒煙の中から、その影が悠然と姿を現した。
「……狼?」
思わずフレンダが呟く。
そこにいたのは、四足歩行の獣型ヘキサギアだった。
特徴的なのは、その装甲色だ。リバティー・アライアンスの正規機体とも、MSGヴァリアントフォースの禍々しい赤と黒とも違う。死の灰と煤が舞う戦場において、あまりにも異質で、目を射るような『純白』。
鋭く尖った装甲、しなやかにうねる人工筋肉のシルエット。そして、月に喰らいつく狼の名を冠された特務機体。
《機体データ照合。第三世代ヘキサギア『マーナガルム』。しかし、装甲色および一部の兵装がデータベースの標準仕様と異なります》
メイの冷静な分析がインカムに流れる中、純白のマーナガルムはロード・インパルスの存在に気付くと、ゆっくりとその凶悪な頭部をこちらへと向けた。
アイセンサーが不気味な赤い光を放ち、機体の各部から余剰エネルギーが青白い排熱の炎となって漏れ出している。
ゾアテックス、機体に搭載された獣性が強敵の出現を前に歓喜と闘争心で打ち震えているのを、同じ獣型を駆るフレンダには肌で感じられた。
「リトルベース教導隊隊長、フレンダ・ディーコン大尉です。貴機は所属不明だが、LAの輸送部隊に対する明確な敵対行動と見なす。武装を解除し、直ちに投降しろ!」
フレンダはオープンチャンネルで警告を発する。しかし、相手から音声による返答はなかった。
代わりにマーナガルムが取った行動は、足元に転がっていた、まだ無傷だった医療用特殊保冷コンテナを、前脚の鋭い爪で容赦なく踏み砕くことだった。
パリンッ、という乾いた音と共に、貴重なワクチンや薬品が砂に吸い込まれていく。
「……ッ!お前……!!」
その行為が意味するものは明白だった。物資の略奪でも、単なる殺戮でもない。白堊理研の血脈を断ち切るための、徹底した破壊だ。
純白の狼は低く身を沈め、戦闘態勢をとった。フレンダもまた、操縦桿を強く握りしめる。
《フレンダ、敵機より強力なゾアテックスの発現を確認。来ます!》
「メイ、チェーンガン掃射!牽制しつつ間合いを詰めるよ!」
フレンダのトリガーと同時に、ロード・インパルスの側面にマウントされたチェーンガンが火を噴いた。秒間数十発の重金属弾がマーナガルムへと殺到する。
しかし、白狼は弾雨を嘲笑うかのように、信じられない跳躍力で真横へと飛翔した。岩壁を蹴り、変幻自在のジグザグ軌道を描きながらロード・インパルスへと肉薄してくる。
「速いっ……!でも、直線的な動きなら!」
ロード・インパルスは前傾姿勢をとり、尾部に搭載されたトリックブレードを射出した。蛇のようにしなる特殊な刃が、空間を薙ぎ払いマーナガルムの四肢に絡みつこうとする。
だが、白き狼は空中で姿勢を捻り、スラスターの噴射を利用してトリックブレードの軌道を紙一重で躱した。そのままの勢いで、マーナガルムの鋭い牙と爪が、フレンダのコックピットを狙って振り下ろされる。
「させないッ!」
フレンダは操縦桿を強引に引き、グラビティコントローラーを瞬間的にオーバーロードさせた。機体そのものの質量を瞬時に変化させ、慣性の法則を無視した急ブレーキと横方向へのスライドを行う。
マーナガルムの爪がロード・インパルスの装甲を浅く削り、激しい火花が散った。
獣と獣の近接格闘戦。互いの装甲が軋み、ゾアテックスによる人工筋肉の唸り声が峡谷に響く。
フレンダはヴォーパルクローを展開し、反撃の打撃を繰り出す。しかしマーナガルムの動きは、ただ野性的なだけではなく、恐ろしく『統制』されていた。無駄な動きが一切なく、フレンダの攻撃の死角を的確に突き、反撃を躱しては再び致命的な一撃を狙ってくる。
「この動き……ただの野良のヘテロドックスじゃない。正規の訓練、それも特殊部隊クラスの近接格闘術をインストールされてる!」
激しい攻防の中、メイが緊急のデータ通信をフレンダの視界にポップアップさせた。
《フレンダ!敵機と近接戦闘を継続したことで、搭乗ガバナーの生体信号データのスキャンに成功しました。この波長、データベースの『ある記録』と98%一致します》
「記録?誰のデータなの!?」
フレンダがヴォーパルクローでマーナガルムの装甲を弾き飛ばしながら叫ぶ。
《白堊理研・人体強化計画、検体ナンバー群。ミカ・フォルクス少佐と同じ、初期ロットのデータパターンです》
「……えっ?」
フレンダの動きが、ほんのコンマ一秒だけ鈍った。
ミカと同じ、人体強化の被験者。
白堊理研によって肉体を弄り回され、人間としての尊厳を奪われ、兵器として仕立て上げられた子供たち。ミカはその中でも数少ない成功例だったが、その背後には無数の失敗作として廃棄された命があったことを、フレンダは知っていた。
(あの狼に乗っているのは……ミカちゃんの過去、そのもの……?)
その一瞬の隙を、白狼は見逃さなかった。
マーナガルムは強烈なタックルでロード・インパルスの体勢を崩させると、追撃をするのではなく、信じられないほどの後方跳躍を行った。
そして、そのまま峡谷の陰へと着地すると、残っていた最後の大型食料コンテナに備え付けの火器で容赦なく銃弾を浴びせた。
コンテナが大爆発を起こし、大量の穀物が炎に包まれて焦げた匂いを撒き散らす。
「ああっ、ご飯が!」
炎と煙が視界を遮る中、フレンダのセンサーからマーナガルムの反応が急速に薄れていく。機体の排熱を抑え、光学的な迷彩機能かあるいは地形を利用した高度な隠密行動に移行したのだ。
《敵機の反応ロスト。周辺の熱源探知からも完全に消えました。追撃は困難です》
「……逃げたの?私を倒せるチャンスだったのに」
フレンダはロード・インパルスの姿勢を立て直し、周囲を警戒しながら息を吐いた。
白狼はフレンダとロード・インパルスを破壊することよりも、物資の確実な破壊と離脱を優先した。それは誇り高き戦士の戦い方ではなく、明確な目的を持った「テロリスト」の戦い方だった。
《敵の目的は戦闘での勝利ではなく、白堊理研という組織に対する兵糧攻めです。補給線を断ち、末端の人間から飢えさせ、じわじわと組織を死に至らしめる。非常に陰湿……しかし効果的な戦術です》
「……ミカちゃんと同じように実験体にされて、白堊理研を憎んでいる。それは分かるよ。復讐したい気持ちも、痛いほど」
フレンダは黒焦げになった食料コンテナの残骸を見つめた。
もしあの食料がリトルベースに届いていれば、今日一日厳しい訓練を乗り越えた新兵たちが温かいスープとパンを腹いっぱい食べられたはずだ。民間居住区で震える子供たちが、明日の命を繋ぐことができたはずだ。
「でも、これは違う。過去にどれだけ酷いことをされたからって、今を必死に生きてる人たちの明日のご飯を奪っていい理由にはならない」
フレンダは操縦桿を握り直した。その手には、先程までの動揺はなく、静かで確かな怒りが満ちていた。
「メイ、ミカちゃんに通信を繋いで。事後報告じゃない、緊急の作戦会議だ」
《了解しました。リトルベース、フォルクス少佐への暗号通信回線を開きます》
通信が繋がると同時に、ミカの張り詰めた声がインカムに響いた。
『こちらミカ・フォルクス少佐っす。大尉、帰還予定時刻を過ぎているっす。何かトラブルでもあったっすか?』
「ミカちゃん、聞いて。白堊理研本部の襲撃犯とは別に、私たちを……白堊理研全体を狙う狼が現れた。補給部隊が全滅させられたよ」
『狼……?まさか、マーナガルムっすか!?』
ミカの声が微かに震えるのをフレンダは聞き逃さなかった。おそらくミカも、情報網の端々からその存在の噂を感じ取っていたのだろう。
「ミカちゃんの知り合いかもしれない。でも、私はあいつを許さない。私たちの、みんなの食卓を守るために、私はあの白狼を絶対に止める」
『……大尉』
「帰ったら、第一小隊を再編成して。ここから先は終わりの見えない泥沼の防衛戦になる。リトルベースの胃袋は、私が守り抜くから」
フレンダの決意に満ちた言葉に、通信越しのミカは短く息を吐き、いつもの冷静な司令官の声に戻って答えた。
『……了解したっす、帰還を待つっすよフレンダ大尉。特盛のシチューの用意をしておくっす』
「約束だよ、ミカちゃん!」
フレンダは通信を切り、ロード・インパルスをリトルベースの方向へと旋回させた。
荒野に吹きすさぶ風は冷たく、エレメントの汚染による死の匂いが立ち込めている。これから始まるのは、華々しい一騎打ちではなく、血を吐くようなゲリラ戦と飢餓との戦い。
しかし、フレンダの心に迷いはなかった。
美味しいご飯を食べるため。そして、かつて暗闇の中にいた自分と相棒が、今ようやく見つけた帰る場所を、過去の亡霊から守り抜くために。
白き狼との長く過酷な追走劇が、ここに幕を開けたのだった。




