【荒野の三つ巴】
荒野の朝はひどく冷たく、そして静かだった。
リバティー・アライアンス北米地区・白堊理研第八基地、通称『リトルベース』。
防壁の向こう側から昇る乾いた太陽が赤茶けた大地に長い影を落とし始める頃、基地内にはすでに活気が戻りつつあった。
数日前、MSGヴァリアントフォースの強襲部隊がこの基地を狙って進軍してきた際、リトルベースは一時的な緊張と絶望に包まれた。
しかし、その危機はたった一機のヘキサギアと、規格外のガバナーによって瞬く間に粉砕されたのだった。
リトルベースの食堂。
まだ多くの兵士たちが眠りについている早朝の時間帯に、一人の少女が山盛りの朝食と格闘していた。
フレンダ・ディーコン大尉。白堊理研が生み出したクローンであり、LAの黒き獣の元主。そして今は紫水の狼『ルプス・インパルス』を駆る規格外のガバナーである。
「んん〜っ、やっぱりリチャードさんの融通してくれた合成肉のスープは最高だね!メイ、今の私のカロリー摂取量、ちゃんと記録してる?」
フレンダはスプーンを口に運びながら、嬉しそうに宙に向かって話しかけた。
彼女のナイトアーマー【ビアンコ】の極小ストレージに同調しているKARMA、メイの理知的な声がインカム越しに響く。
《記録しています、フレンダ。現在、成人女性の平均的な一日の摂取カロリーの約2.5倍を消費中です。ただし、貴女の細胞の代謝速度とルプス・インパルス搭乗時における忘我廻廊の極限負荷を考慮すれば、これでもまだ予備エネルギーとしては心許ない数値です》
「だよね!よし、おかわりもらってこよう!」
フレンダが勢いよく立ち上がろうとしたその時、食堂の入り口に漆黒のアンダースーツ姿の少女が腕を組んで立っているのに気がついた。
リトルベース司令官、ミカ・フォルクス少佐である。彼女の目の下には相変わらず薄いクマが張り付いており、多忙を極める司令官の日常を物語っていた。
「朝から元気なのは結構なことっすけど、少しは基地のエンゲル係数を気にしてほしいっす、大尉。ただでさえ、先日のVF迎撃戦の事後処理で書類の山がエベレストみたいになっているんっすよ」
「ミカちゃんおはよう!ミカちゃんも食べる?今日のスープ、お肉がちょっとだけ多い気がするんだ!」
「遠慮しておくっす。……それより、食事が済んだら司令室に来るっす。大尉に頼みたい密命があるっす」
ミカのその言葉に、フレンダの顔から能天気な笑みが消え、戦場を駆けるガバナーの鋭い眼差しへと切り替わった。
数十分後、防音と電子防壁が完璧に施された司令室のデスクを挟み、二人は向き合っていた。
「密命って何?VFの残党でも見つかったの?」
フレンダの問いに、ミカは首を横に振った。そして、デスクの上のコンソールを操作し、空中にホログラムの地図を投影した。
「VFの動きは、先日の大尉の腹ごなしのせいで完全に沈黙しているっす。連中もたった一機に一個中隊規模の戦力を全滅させられた事実を消化しきれず、戦線の再構築に追われているはずっす。……問題は、そこじゃないっす」
ミカは地図の一部を拡大した。そこには、リトルベースから西へ数十キロ離れた岩肌がむき出しになった荒野の座標が示されていた。
「ここにはかつて、白堊理研の情報中継施設があったっす。本部が壊滅する前は各拠点からの通信データや実験ログをバックアップし、暗号化して転送するためのハブとして機能していた極秘施設っす」
「本部のデータ……。じゃあ、もしかして」
「そうっす」
ミカは重々しく頷いた。
「白堊理研本部を文字通り消し飛ばした、あの理不尽な光の刃・レイブレードを搭載した謎の機体ゼニス・リヴェール。あれの痕跡や本部が襲撃される直前に観測されたはずの異常波長データが、この中継施設跡地のローカルサーバーに残っている可能性があるっす」
フレンダは息を呑んだ。
あの青白い閃光。ロード・インパルス【Reloadead】の強靭なフレームを、防御行動をとる間すら与えずに両断した究極の暴力。あの絶望的な光景は、今でもフレンダの脳裏に焼き付いている。
「LA本部も、VFも、あのレイブレード搭載機に関しては全く情報を掴めていないっす。まるで幽霊のように現れ、本拠地を消し去って、また幽霊のように消えた。……大尉、私は怖いっす。あの化け物が誰の差し金で、次にどこを狙うのか分からない状況でただ怯えて待っているなんて、司令官として耐えられないっす」
ミカの言葉には、かつて白堊理研の実験体として弄り回され、絶対的な力に怯えて生きてきた彼女自身のトラウマが影を落としていた。
「大尉とメイのルプス・インパルスに単機でこの施設跡地に向かってほしいっす。これはLA本部を通さない私個人の密命っす。大部隊で動けばVFの目を引き、無用な戦闘を招く。それに……」
「わかってるよ、ミカちゃん」
フレンダはミカの言葉を遮り、力強く笑いかけた。
「あの光の刃の痕跡、絶対に突き止めてやる。……私の相棒だったロード・インパルスを壊した上に、私から特盛シチューの勝利の味を奪った罪は宇宙よりも重いんだからね!あのレイブレード野郎、次に会ったら絶対にぶっ飛ばす!」
「……大尉のその食い意地由来の執念には本当に救われるっす」
ミカは微かに口元を綻ばせた。
「頼んだっすよ、相棒。施設はすでに放棄されているはずっすが、何が潜んでいるか分からない。十分に気をつけてほしいっす」
「任せて!ワンちゃんの散歩の延長戦だと思ってサクッと行ってくるよ!」
荒野の風を切り裂き、紫と水色の閃光が疾走していた。
ルプス・インパルス。
LAが生み出した魔狼・マーナガルムと、漆黒の獣ロード・インパルスの遺産を掛け合わせて建造された、第三世代ヘキサギアの限界を超えた突然変異。
フレンダはコックピットで、心地よいシートの振動を感じながら操縦桿を握っていた。
現在のBMI接続は通常レベルであり、忘我廻廊はオフになっている。
忘我廻廊を起動せずともルプス・インパルスの基礎スペックは驚異的であり、荒野の悪路など全く苦にすることなく滑るように進んでいく。
《フレンダ、間もなく目的地である旧白堊理研・情報中継施設跡地に到着します。光学迷彩および静音モードへの移行を推奨します》
「了解だよ、メイ。グラビティコントローラー、接地圧を極小化。迷彩起動」
フレンダの指示と同時に、ルプス・インパルスの装甲表面を覆っていた紫と水色のカラーリングが周囲の景色と同化し、機動音すらも風の音に溶けて消えた。
そのまま巨大な岩山の陰へと回り込むと、岩肌をくり抜くようにして作られた、人工的な巨大施設の入り口が見えてきた。
かつては強固な防爆扉で閉ざされていたはずのゲートは、乱暴な手口で破壊され、ポッカリと暗い口を開けている。
「……あれ?ミカちゃんは放棄されてるって言ってたけど、先客がいるみたいだね」
フレンダはメインモニターの映像を拡大した。
破壊されたゲートの奥、薄暗い施設内部に、不自然な光源と熱源反応が確認できた。
《熱源反応、複数。ヘキサギアの反応はありませんが、旧世代の重機や改造ビークルが確認できます。……データベースと照合。正規軍ではありません。この周辺を縄張りとする、ヘテロドックスの集団と推測されます》
「野盗かぁ。こんな何もない廃墟でコソコソ何やってるんだろうね」
フレンダはルプス・インパルスの足音を完全に殺し、巨大な獣の姿を景色に溶け込ませたまま、施設内部へと静かに侵入した。
施設の中は、かつて高度な電子機器が並んでいた形跡があるものの、今は見る影もなく荒らされていた。壁の配線は引きちぎられ、高価なパーツはあらかた持ち去られた後だ。
しかし、施設の最深部に位置する巨大な地下サーバー区画に、数十人の武装した男たちが群がっていた。
彼らは旧式の作業用パワードスーツを着込み、サーバーのメインコンソールに無理やりケーブルを繋いで、何かを抽出しようとしている。
『おい、急げ!このサーバーにはまだ生きてるストレージがあるぞ!』
『白堊理研の連中が残していった極秘データだ。ブラックマーケットに流せば一生遊んで暮らせるだけのクレジットになる!』
『手当たり次第にサルベージしろ!波長データでも戦闘ログでも、なんでもいい!』
下劣な笑い声と怒号が、地下空間に響き渡る。
どうやら彼らは白堊理研が弱体化した隙を突いて残された機密情報を漁りに来たハイエナたちのようだ。
「ビンゴだね。あそこのサーバーに例のレイブレード搭載機の情報が残ってるかもしれない。……さて、どうやって譲ってもらおうかな」
フレンダは操縦桿を軽く叩きながら思案した。
相手は正規軍ではない。重武装しているとはいえ、ルプス・インパルスの火力をもってすれば、数秒でミンチにすることも可能だ。
しかし、フレンダの目的は殺戮ではなく情報の確保である。派手に暴れてサーバーごと破壊してしまえば、元も子もない。
《フレンダ、ルプス・インパルスのグラビティコントローラーを利用した静音スライド移動で背後を取り、物理的な威圧による交渉を提案します》
メイがフレンダの思考を先読みしたかのように最適な戦術を提示した。
「いいね、それ採用!命のやり取りより、大人しくお話し合いで解決する方が平和でいいよね。ご飯も美味しく食べられるし!」
フレンダは操縦桿を操作し、ルプス・インパルスの質量制御システムを極限まで微調整した。
巨大な金属の塊であるはずの機体が重力の軛から解き放たれ、摩擦音を一切立てることなく、まるで氷の上を滑るかのように無音で空間を移動していく。
野盗たちは、サーバーからのデータ抽出に夢中で、背後に死神が迫っていることに全く気がついていなかった。
『よしっ、暗号プロテクトを一つ突破したぞ。データのダウンロードを開始する!』
リーダー格と思われる男が歓喜の声を上げたその瞬間だった。
「……はい、そこまで。そのデータ、私に譲ってくれないかな?」
背後から、少女の無邪気な声が響いた。
野盗たちが驚いて振り返った彼らの目に飛び込んできたのは、光学迷彩を解除し、暗闇の中で眼光を紫色に光らせる巨大な狼の姿だった。
「ひぃッ!?」
「な、なんだこの化け物ッ!!いつからそこに……!?」
ルプス・インパルスの放つ、ゾアテックス特有の圧倒的な捕食者のプレッシャー。
それは、忘我廻廊を起動していなくても、相対する者に本能的な死の恐怖を植え付けるには十分すぎた。
機体の前脚から展開された『ヴォーパルクロー改』が、プラズマの赤い輝きを帯びて野盗たちを威圧する。
「私、今ちょっと探し物をしてて気が立ってるんだよね。そのデータを大人しく渡してくれたら、命と引き換えに見逃してあげるよ?悪い取引じゃないでしょ?」
フレンダはコックピットのスピーカーを通し、明るく、しかし一切の拒絶を許さない声で交渉を持ちかけた。
野盗たちは、目の前の圧倒的な力の差を瞬時に理解した。銃を構えることすらできず、リーダー格の男はガタガタと震えながら、データストレージをフレンダの方へと差し出そうとした。
「わ、わかった……!殺さないでくれ!データは全部――」
男がそう言いかけた、まさにその瞬間だった。
ズガンッ!!!
施設の上部、外壁の一部が突如として爆発し、瓦礫が雨のように降り注いできた。
「えっ!?」
フレンダが上空を見上げた直後、爆煙の向こうから、凄まじい速度で数条の光条が施設内へと撃ち込まれた。
それは野盗たちを狙ったものではなく、彼らの乗ってきた旧式のビークルや作業用スーツの駆動部を、寸分違わず撃ち抜く精密な射撃だった。
「うわぁぁぁッ!?」
「敵襲だ、逃げろぉぉッ!」
突如として降り注いだ攻撃に野盗たちは完全にパニックに陥り、データを放り出して四散して逃げ惑い始めた。
「ちょっと!なんで邪魔するのさ!」
フレンダはルプス・インパルスの巨体を盾にして、落下してくる瓦礫と跳弾から逃げ遅れた野盗とサーバーを庇いながら、上空の招かれざる客を睨みつけた。
爆煙を切り裂いて、施設内部に降下してきた影。
それはジャンクパーツで身を固めた野盗などとは違う。統制の取れた動きと、洗練された装甲。
MSGヴァリアントフォースの正規軍。それも、通常の拠点制圧部隊とは明らかに毛色の違う、軽量かつ高機動に特化した第三世代ヘキサギアの姿があった。
「……メイ、あれってVFの特殊部隊?」
《照合しました。モーターパニッシャーやハイドストームをベースにした、隠密行動と情報収集に特化したカスタム機です。……厄介な連中が現れましたね、フレンダ》
「最悪。せっかく穏便に済まそうとしてたのに、よりによってVFの猟犬のお出ましとはね」
フレンダは操縦桿を強く握り直し、舌打ちをした。
静まり返っていた荒野の施設跡地は、一瞬にして、データという幻影を巡る三つ巴の戦場へと変貌を遂げようとしていた。
コンクリートの粉塵と爆発の白煙が旧白堊理研・情報中継施設跡地の地下空間を分厚いカーテンのように覆い尽くしていた。
天井に開いた大穴から降り注ぐ瓦礫の雨の中でフレンダは操縦桿を的確に操作して、ルプス・インパルスの巨体をデータサーバーと逃げ遅れた数名の野盗の前に割り込ませた。
カンッ!ガキンッ!
岩の塊や上空から撃ち込まれた小口径の徹甲弾が、ルプス・インパルスの装甲に弾かれて甲高い音を立てる。耐エレメント汚染と光学迷彩を両立させた特殊コーティング装甲は、この程度の物理的衝撃では微かな傷すらつかない。
しかし、その背後でパニックに陥った野盗たちは違った。
『ひぃぃぃッ!助けてくれ!』
『出口が塞がれた!足が、足が挟まって……!』
降下してきた無慈悲な銃弾は、野盗たちの命を直接狙ったものではなかった。彼らが逃走用に乗ってきた旧式のビークルや、作業用パワードスーツの駆動関節部のみを寸分違わず撃ち抜き、機動力を完全に奪い去ったのである。
それは殺害ではなく、無力化と拘束を目的とした極めて高度な射撃技術だった。
「……随分と手慣れた連中だね。野盗の皆さん、大人しく頭抱えて伏せてなよ。流れ弾に当たっても知らないからね!」
フレンダはスピーカーで野盗たちに警告を発しつつ、メインモニターの視界を上空へと向けた。
立ち込める煙を切り裂き、不気味な駆動音と共にそれらは降下してきた。
ヴゥゥゥゥン……という、巨大な昆虫の羽音を思わせる低周波のローター音。
姿を現したのは、MSGヴァリアントフォースの正規軍が運用する第三世代ヘキサギアだった。しかし、先日のようなボルトレックスやバルクアームといった重武装の正面突破用機体ではない。
《機体シルエット、照合完了。ベース機体は『モーターパニッシャー』および『ハイドストーム』。しかし、装甲形状やセンサーユニットの配置が標準仕様と異なります。隠密行動および情報収集・電子戦に特化した特殊改修機と推測されます》
KARMAメイの冷静な分析データがフレンダの網膜に直接投影される。
「なるほどね。ド派手に暴れ回る猟犬じゃなくて、コソコソ嗅ぎ回るのが得意なハイエナってわけだ」
フレンダの視界の中で四機のヘキサギアが施設内部に展開し、ルプス・インパルスを半包囲するような陣形を敷いた。
前衛に位置するのは、昆虫のような多脚と飛行ユニットを併せ持つモーターパニッシャーのカスタム機が二機。その頭部には、通常の機体よりも遥かに巨大で複雑な複合センサーユニットが搭載されており、複眼のように不気味な赤い光を点滅させている。
そして後衛には、空中を浮遊しながら触手のようなマニピュレーターを蠢かせるハイドストームのカスタム機が二機。彼らの機体表面は、周囲の瓦礫や煙の色をリアルタイムで反映してカモフラージュする高度な光学迷彩が施されていた。
「これだけの数の情報収集部隊がこんな辺境の廃墟にわざわざお出ましなんて。……やっぱり、狙いはあのサーバーのデータかな」
《肯定します。彼らの火線の軌道と現在の配置から見てデータサーバーの物理的破壊、あるいはデータリンクによる直接強奪を最優先の戦術目標としています。……フレンダ、オープンチャンネルにて敵指揮官機と思われるハイドストームから通信が入っています。接続しますか?》
「繋いで。敵さんの言い分くらいは聞いてあげないと、食後のマナーが悪いからね」
フレンダが許可を出すとノイズ混じりの通信回線が開かれた。
『――こちらMSGヴァリアントフォース、第4特務情報大隊。そこの所属不明機に警告する。貴機は現在、我々の作戦領域内に侵入している。直ちに武装を解除し機体から降りて投降せよ。抵抗すれば容赦なく撃墜する』
スピーカーから響いたのは、感情の起伏を一切感じさせない冷徹で機械的な男の声だった。
その声には、先日フレンダが葬ったボルトレックス・ラースの指揮官のような狂気や闘争心はなく、ただ淡々と任務の障害を排除するという合理性だけが詰まっていた。
「……ずいぶんと上から目線だね。リバティー・アライアンスの領域に勝手に上がり込んできて泥棒の野盗を撃ち抜いておいて、作戦領域だなんて笑わせるよ」
フレンダは操縦桿を握りしめ、通信回線越しに明るく、しかし挑発的なトーンで言い返した。
「私は白堊理研第八基地・リトルベース教導隊隊長、フレンダ・ディーコン大尉。ここのサーバーに残ってるデータは私たちLAの所有物だよ。横取りしようっていうなら、こっちのルプス・インパルスが黙ってないからね」
『白堊理研、だと……?』
フレンダの所属を聞いた瞬間、冷徹な男の声に、ほんの僅かだが明らかな動揺と警戒の色が混じった。
『……なるほど。白堊の残党か。本拠地を失い、見捨てられた哀れなネズミが過去の遺産を漁りに来たというわけだ。だが貴様らがそのサーバーから引き出そうとしているものは、我々にとっても必要なものだ』
「必要なもの?」
フレンダはニヤリと笑った。ここでカマをかけてみる価値はある。
「……そっちも探してるんでしょ?白堊理研本部を文字通り消し飛ばした、あの青白い光の刃の情報をさ」
その言葉が図星だったのか、通信の向こうで数秒の沈黙が落ちた。
周囲を取り囲むモーターパニッシャーの複眼センサーが、ルプス・インパルスの装甲の隙間や武装を舐め回すようにスキャンしているのが分かる。
『……肯定も否定もしない。だが、状況は理解した。貴様らLAも、あの未知の機体に関する情報を掴んでいないのだな』
男の声が、再び冷酷なトーンに戻る。
『白堊理研本部を壊滅させたあの規格外の兵器がLA内部の権力闘争によるものなのか、あるいは全く別の第三勢力によるものなのか。我々VFとしても、あの不確定要素を放置しておくわけにはいかない。……そして、その情報を貴様ら白堊の残党に渡すわけにもいかない』
(なるほどね。やっぱりあいつらもレイブレードの正体を知らないんだ)
フレンダは舌打ちをした。
万が一、あのレイブレード搭載機がVFの秘密兵器であったならここでこいつらを締め上げて情報を吐かせることもできた。しかし、敵もまた手探り状態で幻影を追っているに過ぎないということが、この短い対話で確定してしまった。
「なんだ、そっちも何も知らないのか。期待して損しちゃった。……でも、そういうことなら話は早いね」
フレンダは、ルプス・インパルスの四肢の人工筋肉に力を込め、機体の姿勢をゆっくりと沈み込ませた。いつでも飛びかかれる捕食者の構えだ。
「このサーバーのデータは私が先に唾をつけたの!お腹が空いてる時に目の前のご飯を横取りされるのが、私がこの世で一番嫌いなことなんだよね。大人しく帰ってくれないなら、そこの羽虫たちごとまとめてスクラップにしてあげる!」
『……交渉決裂だな』
VFの指揮官は、短く冷酷に宣告した。
『貴様の機体……その紫と水色の装甲。先日、我が軍の強襲部隊を単機で壊滅させたという報告にある未知の機体と合致する。まともに撃ち合えば脅威となるだろうがここは閉鎖空間だ。それに、背後のサーバーを庇いながら戦えるほど我々の部隊は甘くはないぞ』
「上等だよ!やれるもんならやってみな!」
フレンダが叫ぶと同時に通信が切断され、それを合図としたかのように周囲を包囲していたVF特殊部隊が一斉に行動を開始した。
『第一、第二分隊、制圧フォーメーション!目標の機体およびガバナーの排除、ならびにサーバーの確保を最優先とせよ!』
モーターパニッシャーの機体下部にマウントされた特殊なスモークディスチャージャーが火を噴いた。
プスゥゥゥゥッ! という音と共に、地下空間に高濃度のジャミング・スモークが急速に充満していく。ただの煙幕ではない。通信電波や光学センサーを著しく阻害する、金属微粒子を含んだ特殊な電子戦用のスモークだ。
《フレンダ、視界およびメインレーダーの機能が30%まで低下。敵はデータサーバーへの物理的なアクセスを試みつつ、アウトレンジからこちらの隙を狙う戦術です》
メイの冷静な報告がインカムに響く。
「煙に巻いてコソコソと……本当に猟犬じゃなくて泥棒だね!」
フレンダは操縦桿を引き、ルプス・インパルスのチェーンガンを起動した。
煙の向こうで不規則に動き回る羽音と、床を這うような多脚の駆動音。
VF部隊はルプス・インパルスの恐るべき白兵戦能力を警戒し、決して自分たちからは有効射程内に踏み込んでこない。代わりに死角から執拗に徹甲弾やワイヤーアンカーを放ち、フレンダの意識を逸らそうとしてくる。
ガガンッ!キィィィンッ!
ルプス・インパルスの装甲に弾丸が当たり、不快な音が響く。
『ヒャアアアッ!』
『来るな!こっちに来るなァ!』
戦闘の余波に巻き込まれそうになった野盗たちが煙の中で恐慌状態に陥り、喚き声を上げながら這いずり回っている。
(このままじゃ野盗のおじさんたちも大事なサーバーも蜂の巣にされちゃうね……)
フレンダは舌打ちをした。
忘我廻廊を全開にしてインペリアルロアーを放てばこの程度の煙幕ごと敵部隊を吹き飛ばすことは可能だ。しかし、それでは背後にある旧式のデータサーバーまで衝撃波で粉砕してしまう。
敵を倒すだけなら簡単だ。だがデータを守りながら敵を無力化するという器用な立ち回りは、規格外のガバナーであるフレンダにとっても、神経をすり減らす至難の業であった。
「メイ、私があの羽虫たちの相手をして時間を稼ぐ!その間に、メイはサーバーのデータを丸ごと引っこ抜いて!」
《……物理的な接続なしでのデータ抽出ですか?現在のジャミング環境下では無線での大容量データ転送は困難を極めます。それに、敵のハイドストームも既にハッキングを仕掛けてきているはずです》
「メイならできるでしょ!リトルベースのメインフレームを乗っ取ったこともあるんだから!」
《……買い被りすぎですが、善処します。機体の演算領域をハッキングに全振りします。フレンダはその間、機体のマニュアル制御に集中してください》
「任せて!お料理の前の野菜の皮剥きだと思って丁寧に刻んであげるよ!」
フレンダはメインモニターの光学センサーから機体の聴覚センサーおよびヘキサグラム波長探知システムへと意識を切り替えた。
煙の中で、敵のモーターパニッシャーの羽音が右後方から迫る。
牽制の射撃ではない。サーバーへと直接有線ケーブルを打ち込もうとする大胆な接近だ。
「そこっ!!」
ルプス・インパルスの巨体が、重力制御によって摩擦ゼロで真横へとスライドした。
煙幕から姿を現したモーターパニッシャーの目前に、紫と水色の悪魔が突如として立ち塞がる。
『なっ……!?』
VFのパイロットが驚愕の声を上げる暇も与えず、フレンダは尾部のハンドガトリングガンを展開する。
「手加減してあげるから、大人しく寝てて!」
ガガガガガガガガッ!!
至近距離から放たれたハンドガトリングの重金属弾がモーターパニッシャーの脆弱な飛行ローターの基部と、多脚の関節部のみを正確に撃ち抜いた。
パイロットが乗るコックピットブロックや、誘爆の危険があるヘキサグラムストレージには一切傷をつけない神がかった精度だ。
『出力低下!飛行姿勢を維持できませんッ!』
片側のローターが完全に破壊されたモーターパニッシャーがバランスを崩して床に激突し、火花を散らしながら沈黙した。
「よし、一匹!次はどこから来る!?」
ルプス・インパルスを操作するフレンダの唇には獰猛な笑みが浮かんでいた。
VFの情報収集部隊は確かに優秀だ。しかし、彼らは大きな計算違いをしている。
この紫水の狼はただの重装甲の高火力機ではない。二つの獣の魂を、フレンダ・ディーコンという人間の圧倒的な自我で完璧に調伏した、変幻自在の捕食者なのだ。
煙幕の奥で、VF指揮官の舌打ちが聞こえた気がした。
高濃度のジャミング・スモークが充満する旧白堊理研の地下施設は視界が数メートル先までしか利かない、濃密な灰色の泥水の底のような有様だった。
逃げ惑うヘテロドックスたちの悲鳴、データを回収・破壊しようと暗躍するMSGヴァリアントフォースの情報収集部隊、そして、データを傷つけずに両者を無力化しようとするフレンダの紫水の狼ルプス・インパルス。
目的の異なる三勢力が入り乱れる複雑な三つ巴の乱戦が展開されていた。
『ひぃぃッ!化け物だらけだ!出口はどこだ!』
『動くな、動いたら撃たれるぞ!サーバーの陰に隠れろ!』
野盗たちは完全に戦意を喪失し、頭を抱えてガタガタと震えている。彼らの乗ってきた旧式ビークルはすでにVFの精密射撃によってスクラップにされており、逃げ道は完全に絶たれていた。
フレンダはそんな彼らとデータサーバーを背後に庇うように立ち塞がりながら、操縦桿を繊細に操作していた。
「あーもう、ちょこまかと!視界が悪い上に、後ろに気を使いながら手加減するのってすっごく神経使うんだけど!」
フレンダのぼやきは決して誇張ではなかった。
本来ルプス・インパルスの真骨頂は、忘我廻廊による圧倒的な全能感と、グラビティコントローラーを用いた予測不能な三次元の変態機動にある。
しかしこの狭い地下空間で、しかも背後に脆い旧式のデータサーバーと生身の人間を抱えた状態では、機体の質量を乗せた強烈なタックルや、広範囲を破壊する重火器、あるいは衝撃波を伴うインペリアルロアーなどの大技は一切封印せざるを得なかった。
少しでも火力を誤れば、目的であるサーバーごと、野盗たちを挽肉にしてしまうからだ。
「仕方ないか、お料理で言えば包丁を使った繊細な千切りの時間だね!」
フレンダは機体のチェーンガンとグレネードランチャーのセーフティを物理的にロックし、近接戦闘とピンポイントの射撃のみに意識を集中させた。
煙の向こうから、VFのハイドストームが放つ触手が、蛇のようにうねりながらサーバーへと伸びてくる。データへの物理的な直接リンクを試みているのだ。
「させないっ!」
ルプス・インパルスはグラビティコントローラーで自重を極限まで軽くし、音もなく横へとスライドした。
展開した尾部のナックルダガーが紫色の軌跡を描いて閃く。
金属が切断される鋭い音が鳴りハイドストームの触手の先端、インターフェースの接続端子部分だけが綺麗に切り落とされ、床に転がった。
『チッ……!なんという反応速度だ。光学迷彩とジャミングの只中だぞ!』
煙の奥に潜むハイドストームのパイロットが忌々しそうに舌打ちをするのが通信傍受のノイズ越しに聞こえた。
VF部隊はルプス・インパルスの異常な戦闘力をすでに理解し、まともに撃ち合うことは避けていた。
煙幕や電子妨害を駆使し、フレンダの死角から徹甲弾を撃ち込みつつ、どうにかしてデータサーバーへの物理アクセス、あるいは爆破の隙を作ろうと足掻いている。
「視界が悪くてもあんたたちの出す羽音や、関節の駆動音は丸聞こえなんだよ。……ほら、そこッ!」
フレンダは機体を瞬時に反転させ尾を操り、ハンドガトリングガンを連射した。
重金属弾が、煙の中を這うように移動していたもう一機のモーターパニッシャーの多脚の関節部を、文字通り削り取るように撃ち抜く。
『脚部スラスター破損!機体バランス、維持できません!』
ガシャンッ!と音を立てて、モーターパニッシャーが不格好に転倒する。コックピットには一切の損傷を与えず、機動力のみを奪い去る完璧な無力化だった。
『……馬鹿な、ただの暴力ではない。機体を破壊しすぎないよう、火力を意図的に抑えながら、こちらの駆動系だけをピンポイントで削いでいるというのか』
VF特殊部隊の指揮官は戦況の推移をデータリンクで確認しながら、コックピットの中で戦慄を覚えていた。
圧倒的な力で蹂躙されるよりも、今の状況は遥かに恐ろしい。自分たちはこの紫と水色の狼にとって、殺す価値すらない、手加減してあしらう程度の相手として扱われているのだ。
指揮官は焦燥を隠しきれず、残存するハイドストームに命令を飛ばした。
『物理的な突破は困難だ!電子戦に移行しろ!対象のローカルサーバーに無線でクラッキングを仕掛け強引にデータを抜け!それが無理なら施設ごと焼き払う!』
VF部隊の戦術が、物理攻撃から電子戦へと切り替わった。
しかし、その領域こそが、フレンダのもう一人の相棒にとっての絶対的な独壇場であった。
《……フレンダ。敵のハイドストームより対象サーバーへの強力なクラッキング攻撃を検知。ファイアウォールが突破されるまで、残り数秒です》
KARMAメイの冷徹な声が響く。
「メイ!サーバーのデータは守れる!?」
《問題ありません。演算領域をハッキング防壁に全振りし、敵のクラッキングを完全に遮断します。……さらに》
メイの音声にAIらしからぬ、どこか底冷えするような凄みが混じった。
《防御だけではKARMAの名折れです。このまま敵の無線接続経路を逆探知し、VF部隊のローカルネットワークへ逆ハッキングを仕掛けます》
「逆ハッキング、VFのネットワークを?」
《はい。彼らもまたレイブレード搭載機に関する情報を求めてここに来たはずです。物理的な戦闘の裏でVF側がこれまでに独自に集めていた、レイブレードに関する断片的な観測データを彼らの機体ストレージから直接抜き取ります》
フレンダは思わず、コックピットの中でニヤリと笑った。
「最高!メイ、あんた本当に悪い相棒だよ!」
《お褒めにあずかり光栄です。では、電脳戦を開始します。フレンダはその間、絶対に敵をサーバーに近づけないでください》
「任せて、千切りは得意だからね!」
物理空間と、電脳空間。
二つの戦場で、同時に熾烈な争奪戦が幕を開けた。
ハイドストームのパイロットたちは信じられない光景を目の当たりにしていた。
自分たちがサーバーに仕掛けたクラッキングの攻撃プログラムが、まるで見えない壁に弾かれるように次々と無効化されていくのだ。それどころか、自分たちの攻撃経路を辿って、逆に未知のウイルスプログラムが自分たちの機体ネットワークへと侵入してこようとしている。
『なんだこれは!?サーバー側に高度な防壁AIが潜んでいるのか!?いや、違う……この侵入経路、目の前の所属不明機からだ!』
ハイドストームのパイロットが叫ぶ。
『馬鹿な!あの機体は近接格闘仕様の獣型だろう!?これほどの電子戦能力を並行して展開できるわけが……!』
VFの兵士たちが驚愕するのも無理はなかった。
通常のヘキサギアの制御と高度な電子戦は、全く異なる演算領域を必要とする。ルプス・インパルスはフレンダという規格外のガバナーが機体の物理的制御を完全に掌握しているからこそ、搭載AIであるメイがその演算リソースの100%をハッキングという裏仕事に注ぎ込むことができるのだ。
電脳空間の中でメイは冷酷な捕食者だった。
ハイドストームの貧弱なファイアウォールを紙切れのように食い破り、VF特殊部隊が共有しているローカルネットワークの深層へと瞬時に到達する。
《VFネットワーク・アクセス権限の奪取に成功。……ディレクトリ検索。キーワード『白堊理研本部』『レイブレード』『未確認ヘキサグラム崩壊波長』。……該当ファイルを発見。データの抽出を開始します》
メイの演算領域に、VFの暗号化されたデータが濁流のように流れ込んでくる。
しかし同時に、VFの指揮官も自軍のネットワークが侵入されたことに気がついた。
『ハッキングされているだと!?ええい、物理回線を切れ!奴らの狙いはサーバーの防衛だけではない!我々がこれまでに集めた観測データまで奪うつもりだ!』
指揮官の怒号が響く。
彼は即座に事態の深刻さを悟った。このままでは任務に失敗するだけでなく、自軍の機密情報までLA側に明け渡すことになる。情報収集部隊として、それだけは絶対に避けなければならない最悪の結末だった。
『全機に告ぐ!データの抽出は不可能と判断する。これより作戦目標を【情報の完全な隠滅】へ変更する!』
VF指揮官は、自らの機体の光学迷彩を解き、煙幕の奥からその禍々しい姿を現した。
『私自らがサーバーに肉薄し自機のストレージごと、あのサーバーを爆破する。残存機は全力で対象機を足止めしろ!』
「……させるかッ!」
フレンダは操縦桿を限界まで倒し込み、ルプス・インパルスを指揮官機へと突進させた。
しかし、残存していたもう一機のハイドストームが自らを盾にするようにしてフレンダの前に立ち塞がり、全ての武装とマニピュレーターを乱射して決死の足止めを図る。
「どけえぇぇぇッ!!」
ルプス・インパルスのヴォーパルクロー改が閃き、立ち塞がったハイドストームの触手を次々と破壊していく。
だが、その僅かな時間稼ぎがVF指揮官にとっては十分だった。
『……遅い、貴様らのデータごと灰になれ!』
指揮官機がデータサーバーの目前まで到達し、自爆のシークエンスを起動しようとする。
それは情報の流出を防ぐためなら自らの命すら躊躇なく投げ出す、冷徹な兵士の覚悟だった。
「食べ物の恨みと、探し物の邪魔は……絶対に、許さないッ!!」
フレンダの青い瞳が、限界を超えた怒りにカッと見開かれた。
器用な手加減も、千切りのお遊戯も、もう終わりだ。
「メイ!!忘我廻廊……局所起動!!」
フレンダの絶叫が、煙に包まれた地下空間を震わせた。
地下空間を覆う高濃度のジャミング・スモークの中で、MSGヴァリアントフォース情報収集部隊の指揮官は自らの戦術ネットワークが音を立てて崩壊していくのを肌で感じていた。
「……ハッキングされているだと!?ええい、物理回線を切れ!奴らの狙いはサーバーの防衛だけではない!我々がこれまでに集めた観測データまで奪うつもりだ!」
指揮官の怒号がノイズ混じりの通信回線に響き渡る。
彼の駆る特殊仕様のハイドストームのコンソールには、レッドアラートが狂ったように点滅していた。強固なはずのファイアウォールは、LAの獣型ヘキサギア・ルプス・インパルスに搭載されたAIによって、まるで紙切れのように食い破られていたのだ。
敵のハッカーは彼らが探していた、白堊理研本部、レイブレード、未確認ヘキサグラム崩壊波長といった機密キーワード群に瞬時に到達し、データの抽出を強行しようとしていた。
「全機に告ぐ!データの抽出は不可能と判断する。これより作戦目標を情報の完全な隠滅へ変更する!」
情報収集部隊の指揮官として己の命より重いのが情報の秘匿である。彼らは幻影であるレイブレード搭載機を追っていたが、その過程で収集した断片的なデータすらもLA側に渡すわけにはいかなかった。
「私自らがサーバーに肉薄し自機のストレージごとあのサーバーを爆破する。残存機は全力で対象機を足止めしろ!」
指揮官のハイドストームは光学迷彩を解除し、煙幕の奥からその異形の姿を現した。触手のようなマニピュレーターが展開され、その先端には自爆用の高出力起爆装置が握られていた。
「させるかッ!」
フレンダは操縦桿を限界まで倒し込み、ルプス・インパルスを指揮官機へと突進させた。しかし、残存していたもう一機のハイドストームが、自らを盾にするようにしてフレンダの前に立ち塞がる。
「どけえぇぇぇッ!!」
ルプス・インパルスの『ヴォーパルクロー改』が閃き、立ち塞がったハイドストームの触手を次々と破壊していく。だが、その僅かな時間稼ぎが、VF指揮官にとっては十分だった。
「……遅い、貴様らのデータごと灰になれ!」
指揮官機がデータサーバーの目前まで到達し、起爆シークエンスを起動しようとする。
「食べ物の恨みと、探し物の邪魔は……絶対に、許さないッ!!」
フレンダの青い瞳が、限界を超えた怒りにカッと見開かれた。
器用な手加減も、千切りのお遊戯も、もう終わりだ。
彼女の正体は、かつて結晶炉事故で生まれたとされる癌細胞の化物、フレデリカ・マーキュリーの体細胞から作られたクローン(検体F)である。クローン特有の寿命問題は完全に克服されており、徹底した記憶操作と特殊体質の調整が施されている彼女の肉体は、極限環境下での圧倒的な回復力と耐久性を誇っていた。だからこそ、常人なら脳神経が焼き切れるような無茶なシステム稼働にも耐えうるのだ。
「メイ!!忘我廻廊……局所起動!!」
フレンダの絶叫が、煙に包まれた地下空間を震わせた。
忘我廻廊。それは、かつて彼女が第4世代人型ヘキサギア・ロータスプロトレクスに搭乗していた際に使用し、機体とガバナーの神経接続を極限まで引き上げたシステムである。
《了解!忘我廻廊、制限解除!獣性のプロテクトを0.5秒間のみ全開放します!》
搭載AIであるKARMAメイが即座にシステムの枷を外した。
カァァァァァァァァンッ!!
空間を震わせるような甲高いシステム起動音と共に、ルプス・インパルスの装甲の隙間から、禍々しい紫色のヘキサグラム光が噴出した。
マーナガルムとロード・インパルスの二つの凶悪な魂がフレンダの強靭な自我の鎖から一瞬だけ解き放たれ、その純粋な『破壊衝動』と『飢餓感』を外界へ向けて爆発させる。
フレンダは機体の咆哮機能に、その暴走しかけた獣性を全て乗せて叩きつけた。
「吠えなさいッ! インペリアルロアー!!」
ガァァァァァァァァァァァァァァァァァァッッ!!!!
大気を物理的に叩き潰すような、凄まじい大音響とヘキサグラムエネルギーの衝撃波が地下空間を吹き荒れた。
それは、群れの頂点たる王の咆哮。
放たれたインペリアルロアーはVF部隊の機体が搭載する電子センサーを焼き切るだけでなく、彼らの機体制御を一瞬にして麻痺させた。起爆スイッチを押そうとしていた指揮官のハイドストームも、自機の制御系が未知のエネルギー波長に恐怖するかのように凍りつき、マニピュレーターの動きがピタリと停止した。
「な、なんだこの異常な波長は!?機体が……動かんッ!」
指揮官がコックピットの中で驚愕の声を上げる。
「今だっ!グラビティコントローラー、最大出力っ!」
かつての愛機であるロード・インパルス【Reloadead】にも搭載されていたグラビティコントローラーを限界まで稼働させ、ルプス・インパルスの巨体は質量を完全に欺いた。
摩擦ゼロ、慣性ゼロ。
紫と水色の狼は、インペリアルロアーの衝撃波の余韻を追い抜くほどの超機動で、空間を滑るように肉薄した。
「させんっ!」
指揮官は凍りついた機体を再起動させ、強引に起爆スイッチを押し込もうとする。爆発まで残りコンマ数秒。
「遅いっ!!」
フレンダの怒声と共に、ルプス・インパルスの前脚が赤熱した軌跡を描いた。
ヴォーパルクロー改。
超高温のプラズマを纏った斬撃がハイドストームのマニピュレーターを、起爆スイッチごと手首から鮮やかに斬り飛ばした。
ザシュゥゥゥゥゥッ!!
切断された触手が空を舞い、地面に落ちて火花を散らす。起爆信号が送られる前に、物理的な回路が完全に遮断されたのだ。
「馬鹿な……!」
自爆による隠滅すらも防がれたVF指揮官は目の前で圧倒的な捕食者のプレッシャーを放つルプス・インパルスを見上げ、ついに絶望の声を漏らした。
フレンダは容赦なくルプス・インパルスの顎を開き、ハイドストームのメインカメラを噛み砕く勢いで威圧した。
「言ったでしょ?食べ物の恨みと、探し物の邪魔は許さないって。……これ以上抵抗するなら、本当にミンチにしてあげるけど、どうする?」
ハイドストームのコックピット内で、指揮官はギリッと奥歯を噛み締めた。
データリンクは切断され、サーバーの破壊も失敗。これ以上の戦闘継続は部隊の全滅を意味するだけだ。
「……全機、撤退せよ。作戦は失敗だ」
屈辱に塗れた声で撤退命令を下すと、ハイドストームは残存するスラスターを吹かし、煙幕に紛れて天井の穴へと逃れていった。傷ついたモーターパニッシャーたちも、這うようにしてそれに続く。
「……ふぅ、なんとか間に合ったぁ」
フレンダは操縦桿から手を離し、シートに深く背中を預けた。
ほんの一瞬の忘我廻廊の全開。それだけでもフレンダの脳神経には莫大な情報量と獣性が流れ込み、尋常ではない疲労をもたらしていた。
《VF部隊の完全撤退を確認。……フレンダ、お見事です。対象のデータサーバーは無傷、そして敵のローカルネットワークからのデータ抽出も完了しました》
ストレージの中からメイの誇らしげな声が響く。
「やったね!これで、あのレイブレード野郎の正体が分かるかもしれない。ミカちゃんも喜んでくれるかな?」
リトルベースで待つミカの顔がフレンダの脳裏に浮かぶ。
「さぁて、お宝のデータを確認しようか。メイ、解析をお願い!」
フレンダの明るい声が戦闘の傷跡が残る地下施設に響き渡った。
しかし数分後、回収したデータを照合していたメイから発せられたのは、冷たく、そして当惑に満ちた報告だった。
《……解析完了。フレンダ、報告します。野盗から回収した白堊理研の旧サーバーデータ、およびVF特殊部隊からハッキングした観測データ……その全てを照合しましたが》
メイは一瞬だけ言葉を区切り、重々しく告げた。
《……該当するレイブレード搭載機の情報は、存在しませんでした》
「……え?」
フレンダは間の抜けた声を上げた。
《白堊理研のサーバーに残されていたのは、本部が壊滅した瞬間の異常なヘキサグラム崩壊波長の記録のみです。機体の設計図はおろか、所属や開発コードすらこの中には存在しません。
また、VF側から奪ったデータも同様です。彼らも未確認の波長を遠方から観測しただけで、機体の姿すら捉えていませんでした。つまり、両陣営のデータベースのどこにも、あの機体の正体を示す確たる証拠は存在しないということです》
誰も知らない。誰も正体を掴んでいない。
それはまさに、戦場に突如として現れ、全てを消し去って消える幻影そのものだった。
「……空っぽ、ってこと?」
フレンダは唇を噛んだ。
命懸けで野盗と交渉し、VFの特殊部隊と激戦を繰り広げ、忘我廻廊の暴走リスクまで負って手に入れた真実が、誰も何も知らないという事実だったとは。
《悔しいですがこれが現状です。しかし、一つだけ確かな収穫はあります。……あのレイブレード搭載機は、VFの正規兵器ではないという事実です》
メイの慰めるような言葉に、フレンダは小さく息を吐いた。
「そっか。まぁ、敵の親玉の秘密兵器じゃなかっただけ、マシってことにしておこうか」
フレンダは気を取り直すように、パンッと両頬を叩いた。
幻影だろうと神様だろうと関係ない。自分の大切なものを奪った奴はいつか必ずぶっ飛ばす。その決意だけは、決して揺らぐことはない。
「よし、帰ろうメイ。お腹もペコペコだしこれ以上こんなホコリっぽい所にいたら、ミカちゃんに汚いっすって怒られちゃう」
美容オタクで潔癖症のミカの顔を思い浮かべ、フレンダは苦笑いした。
「それに、お詫びの品も手に入ったしね!」
フレンダはルプス・インパルスのマニピュレーターを操作し、気絶して転がっている野盗たちの荷物から保存食の入ったコンテナをちゃっかりと拾い上げた。
《……フレンダ、それは略奪行為に該当するのでは?》
「何言ってるの、これは野盗のおじさんたちからのサーバーを壊しかけたことへの誠意だよ?ありがたくリトルベースの備蓄に回させてもらうから!」
強欲で、底抜けに明るい太陽のようなガバナーの笑い声。
紫と水色の狼は戦果と少しの食料を携えて、荒野を駆けて帰路につく。
得体の知れない幻影を追う戦いは、まだ始まったばかり。だが、フレンダとメイ、そしてミカたちが待つリトルベースの絆がある限り、彼女たちが絶望に屈することはない。
温かい特盛のシチューと、次の戦いへの英気を養うための日常が、彼女の帰りを待っていた。




