【反撃の咆哮】
リバティー・アライアンス(LA)とMSGヴァリアントフォース(VF)による戦線の小康状態。
それは、薄氷の上に成り立つかりそめの平穏に過ぎなかった。
白堊理研本部が謎のヘキサグラム崩壊兵器・レイブレードによって壊滅したという情報は、LA陣営に多大な混乱と戦力低下をもたらした。当初こそ得体の知れない事態に静観を保っていたVF側であったが、LA側の補給線が細り、各地の前線基地の防衛機能が低下し始めているという確証を得るや否や、水面下で迅速な侵攻作戦を企てていたのだ。
北米地区・白堊理研第八基地リトルベース。
その近郊に広がる赤茶けた荒野において、静寂を破る轟音が響き渡った。
『こちら第04哨戒ポイント!敵部隊の接近を確認、所属はMSGヴァリアントフォース!繰り返す、VFの侵攻部隊です!』
リトルベースの司令室に、前線で哨戒任務に当たっていた無人偵察機からの緊急アラートが鳴り響いた。
メインモニターに映し出されたのは、巻き上がる砂塵の向こうから統制の取れた陣形でこちらへと進軍してくるヘキサギアの群れだった。
「……ついに動き出したっすね。規模は?」
司令官であるミカ・フォルクス少佐は手元のコンソールを瞬時に操作しながら、冷静に状況の分析を始めた。
「光学センサーの解析結果、出ます!敵は中規模の独立強襲部隊。構成は地上制圧用の第三世代ボルトレックスが四機、重装甲の第二世代バルクアームλが二機。さらに上空および後方からの狙撃支援としてブロックバスターが二機随伴しています。そして……」
報告を行う通信兵の声が、微かに緊張で強張った。
「部隊の中央に指揮官機と思われる大型の第三世代ヘキサギアを確認。……ボルトレックス・ラースです!」
「ラース……。狂暴なゾアテックスを極限まで引き上げた、ボルトレックスの派生強化型っすね」
ミカは鋭く目を細めた。
敵の編成は非常に理にかなった隙のない布陣だった。
バルクアームλの重装甲を盾にして陣形を押し上げ、上空のブロックバスターによる精密なスナイプでこちらの防衛線を崩す。そして、乱戦になったところで、極めて高い闘争心と白兵戦能力を持つボルトレックスとボルトレックス・ラースが一気に肉薄し、喰い散らかす。
白堊理研の弱体化を突き、リトルベースを完全に制圧し、物資を略奪しようとする明確な意志が感じられた。
「防衛線が突破されれば背後の民間居住区にまで火の手が及ぶっす。……第一小隊、出撃準備!私もポーンX1で出るっす!敵を基地に一歩も近づけるな!」
ミカが立ち上がり、漆黒のヘルメットを手に取ろうとしたその瞬間だった。
『ミカちゃん、ちょっと待って!』
司令室のメインスピーカーに、弾むような明るい声が割り込んできた。
格納庫で、ルプス・インパルスの最終調整を終えたばかりのフレンダ・ディーコン大尉である。
「大尉、何をしているっすか?大尉はまだ病み上がりっす。機体のテストが終わったなら、大人しく医療室で点滴でも受けているっすよ」
『やだね!私すっごくお腹が空いてて機嫌が悪いんだから!それに……』
フレンダの通信の背景からウォォォォンッ!という、重低音の唸り声のような駆動音が聞こえてきた。
『この子がさっきからずっと、「暴れたい、腹ペコだ」ってうるさく吠えてるんだよね。だからちょっと腹ごなしの散歩に行ってくるよ』
「散歩って……相手は一個小隊以上の正規部隊っすよ!?しかも単機で突出するなんて、戦術の基本から外れてるっす!忘我廻廊のリンクテストもまだ実戦レベルの負荷はかけていないはず――」
『だからこそ、実戦で試してみる必要があるんでしょ?』
フレンダの言葉に、ミカは反論を呑み込んだ。
確かにルプス・インパルスは全く新しい機体であり、忘我廻廊という劇薬を用いた制御システムが実戦の激しい負荷の中で、どこまで安定するかは未知数だった。基地の防衛線というギリギリの場所でテストを行うより、被害の及ばない遠方で敵を足止めしつつデータを収集する方が戦術的な理には適っている。
『それにさ、ミカちゃんたちがチマチマ迎撃してたら、お昼ご飯の時間に間に合わなくなっちゃうでしょ?私がサクッと終わらせてくるから、ミカちゃんたちはシチューの準備して待ってて!絶対にご飯の前に終わらせるから!』
その底抜けに明るく、絶対的な自信に満ちたフレンダの声を聞いてミカは深く、本当に深くため息をついた。
「……了解したっす、大尉。先行迎撃を許可するっす。ただし、少しでもバイタルに異常が生じた場合は即座に撤退すること。……約束のシチューは逃げたりしないっすから」
『やった!行くよ、メイ!ルプス・インパルス、急速発進!!』
ミカが通信を切ると同時に。
リトルベースの巨大な防壁の一部が開き、紫と水色の閃光が、文字通り砲弾のように荒野へと打ち出された。
グラビティコントローラーの瞬間的な出力によって、機体の質量を一時的にゼロに近づけ、人工筋肉の跳躍力だけで音速に近い初速を叩き出す。
ミカはモニターに映るその人間離れした超機動を見て、ただ絶句するしかなかった。
「……あんな化け物、本当に大尉が手懐けたんっすね……」
かくして、紫水の狼は、獲物を求めて荒野を疾走し始めた。
リトルベースから十数キロ離れた岩と砂だけの荒涼とした大地。
VFの侵攻部隊は完璧な統制の下に進軍を続けていた。
部隊の先頭を歩くバルクアームλの重厚な足音が大地を揺らす。
その後方には四機のボルトレックスが低い姿勢で周囲を警戒しながら随伴し、上空には二機のブロックバスターが巨大なローターの風切り音を響かせながら滞空していた。
そして陣形の中央に鎮座するのは、ひときわ巨大で禍々しいシルエットを持つボルトレックス・ラース。
搭乗しているVFの部隊長はコックピットの中で嗜虐的な笑みを浮かべていた。
「白堊理研も地に落ちたものだな。LA本部も対応に追われ、この周辺の基地は見捨てられたも同然だ。さっさとリトルベースを制圧して、連中の備蓄物資を頂くとしよう」
部隊長がそう呟いた時、上空のブロックバスターから警戒通信が入った。
『前方に急速接近する熱源反応あり!単機です!』
「単機だと?この大部隊を前に足止めでもするつもりか、舐められたものだ。ブロックバスター、狙撃でスクラップにしてやれ」
部隊長が指示を出し、ブロックバスターの長大なスナイパーキャノンが、砂塵の向こうから迫る影に照準を合わせた。
しかし。
彼らがスコープ越しに捉えたそれは、ただのヘキサギアではなかった。
「……な、なんだあの機体は!?白堊理研のデータにないぞ!」
砂埃を切り裂いて現れたのは夜明けの空のような深い紫色と、凍てつく水面のような水色の装甲を纏った鋭角的な狼型ヘキサギアだった。
その機体は地面を走っているというより、まるで空気を蹴って飛んでいるかのような、物理法則を無視した異様な機動で距離を詰めてくる。
フレンダが駆るルプス・インパルスであった。
「……さてと、腹ごなしの散歩にはちょうどいい数だね!」
コックピットにて、フレンダは首の後ろにBMIケーブルを接続し唇の端を吊り上げた。
彼女の青い瞳孔の周囲には、忘我廻廊が起動している証である紫色の幾何学模様が浮かび上がっている。
彼女の脳内には、ルプス・インパルスの捉える荒野の風、砂の粒子、敵機体の関節部の稼働音に至るまで、あらゆる情報が完璧な支配下にあるデータとして流れ込んでいた。
かつてロータス・プロトレクスで経験した全能感。しかし今の彼女はその全能感に飲み込まれることなく、自らの圧倒的な自我・美味しいご飯を食べたいという泥臭くも強靭な生存本能によって、システムの全てを己の手足として調伏していた。
《フレンダ、敵部隊が完全な迎撃陣形に移行しました。ブロックバスターの射線に入ります》
メイの冷静な音声が響く。
「させるか。……お前ら、起きなさい!食事の時間だよ!」
フレンダは、ルプス・インパルスの奥底で彼女の強大な自我にひれ伏している二つの獣、マーナガルムとロード・インパルスの魂に直接命令を下した。
その瞬間。
ルプス・インパルスの巨大な顎が、限界まで開かれた。
「インペリアルロアー、起動ッ!!」
フレンダの叫びと共に、ルプス・インパルスの喉元に搭載された超音響・エネルギー発生装置が火を噴いた。
――ガァァァァァァァァァァァァァァァァァァッッ!!!!
それは、空気を物理的に叩き潰すような、凄まじい大音響とヘキサグラムエネルギーの衝撃波だった。
荒野の砂塵が吹き飛び、大気が激しく震動する。
「な、なんだこの音はッ!?」
「モニターが!センサー系が完全にイカれました!」
インペリアルロアーがもたらしたのは、単なる物理的破壊だけではない。
音波に乗せて放たれた特殊な波長が敵の電子機器に強烈なノイズを発生させたのだ。
バルクアームλとブロックバスターのカメラアイが砂嵐に塗れ、通信回線が完全にダウンする。
さらに恐るべきは、ゾアテックスを搭載した獣型ヘキサギアへの影響だった。
「どうした!?機体が……言うことを聞かんッ!」
部隊長の乗るボルトレックス・ラース、そして四機のボルトレックスが突如としてその場にガクガクと膝をつき、怯えたように震え始めたのだ。
インペリアルロアー。それは文字通り、群れの長が放つ王の咆哮。
忘我廻廊によって極限まで高められ、フレンダの絶対的な自我で統率されたルプス・インパルスの獣性は、格下のボルトレックスたちの獣性に対し、本能レベルの恐怖と服従を叩き込んだのである。
敵の陣形が、たった一吠えで完全に瓦解した。
「よし、今だよメイ!グラビティコントローラー、全開!」
《了解。質量制御、極限までマイナスへシフトします》
フレンダは操縦桿を強く引き絞った。
ルプス・インパルスの紫水の巨体が、重力の軛から完全に解き放たれ、空に向かって凄まじい速度で跳躍した。
それはもはや、獣のジャンプという次元ではない。ミサイルの直撃すら避けるほどの垂直方向への飛翔だった。
「上だッ!上空を警戒しろ!」
センサーが麻痺したブロックバスターのパイロットが肉眼で紫色の影を追う。
だが、遅すぎた。
「落ちなさいッ!」
フレンダは空中でルプス・インパルスの姿勢を反転させながら、側面の武装を展開した。
チェーンガンと、グレネードランチャー。
そして何より、ガバナーであるフレンダ自身が、装甲の隙間から上半身を乗り出すようにして構えた、二丁のハンドガトリングガン。
忘我廻廊によって機体の演算能力と直結しているフレンダの眼にはブロックバスターの装甲の薄い部分、ローターの駆動軸、ヘキサグラムの装填部がまるで赤くハイライトされた標的のように明確に見えていた。
「オラぁぁッ!!」
獣型ヘキサギアの機動性と人間のガバナーの手数を完全に融合させた、変態的な弾幕の嵐。
機体から放たれるチェーンガンとグレネードがブロックバスターのシールドと装甲を削り取り、その僅かに生じた隙間へフレンダの放つハンドガトリングの重金属弾が、針の穴を通すような精度で殺到する。
ガガガガガガガガッ!!
「うぉぉぉぉぉぉッ!?」
被弾音。そして、ローターの基部を完全に撃ち抜かれた一機のブロックバスターが黒煙を吹き上げて錐揉み状態で地上へと墜落していく。
もう一機も、グレネードの直撃をエンジン部に受け、爆発した。
「空中支援がやられただと!?ええい、バルクアーム隊、対空砲火を張れ!撃ち落とせ!」
部隊長が叫ぶ。
インペリアルロアーの恐怖からいち早く立ち直ったバルクアームλの二機が、重装甲を軋ませながら空中のルプス・インパルスへと一斉に重火器の砲口を向けた。
圧倒的な弾幕が紫水の狼を捉えようとする。
しかし、フレンダは全く意に介さなかった。
「グラビティコントローラー、質量反転!急降下!」
フレンダの指示と同時に、空中に浮遊していたルプス・インパルスは自身の質量を瞬間的に数倍に増加させた。
放物線を描くはずの落下軌道が、直角に折れ曲がるように真下へと急降下する。
バルクアームλの放った対空砲火は、全てルプス・インパルスの頭上数十メートルを虚しく通り過ぎていった。
「な、なんだその動きは!?物理法則を無視しているぞ!」
驚愕するバルクアームλのパイロットの視界に、大地を蹴って凄まじいスピードで肉薄してくる紫色の悪魔の姿が映った。
「重い図体でノロノロしてんじゃないよ!」
ルプス・インパルスはバルクアームλの砲塔が旋回するよりも早く、その懐へと潜り込んだ。
そして、前脚に装備された近接格闘兵装・ヴォーパルクロー改が、プラズマの赤い輝きを帯びて展開される。
ザシュゥゥゥゥッ!!
交差する紫水と赤熱の閃光。
ルプス・インパルスのしなやかな一撃はバルクアームλの分厚い前面装甲を真っ向から切り裂くのではなく、装甲の継ぎ目、膝の関節部、そして腕部の駆動シリンダーのみを的確に切断した。
「ぐ、動かんッ!?腕が……!」
「はい、一丁上がり!」
足を止められたバルクアームλにトドメを刺すことなく、ルプス・インパルスはそのままの勢いで地面を滑るように横移動し、もう一機のバルクアームλの背後へと回り込む。
そして、フレンダのハンドガトリングと機体のチェーンガンが背面のヘキサグラムストレージに集中砲火を浴びせた。
ドゴォォォォォォンッ!!
誘爆を起こし、火柱を上げて崩れ落ちるバルクアームλ。
開戦からわずか数分。
VFが誇る重装甲の盾と上空の矛が、ルプス・インパルスたった一機によって完全に無力化されたのである。
「バカな……!たった一機に、これほどの部隊が……!」
残されたボルトレックス・ラースのコックピットの中で、部隊長は信じられないものを見る目で戦場を見渡した。
四機のボルトレックスもルプス・インパルスの放つ圧倒的なプレッシャーの前に、手出しすることすらできずに立ちすくんでいる。
「……ええい、怯むな!ボルトレックス隊、奴を包囲しろ!いくら動きが速かろうと、所詮は装甲の薄い機体だ、格闘戦で捻り潰してやる!」
部隊長は自らの恐怖を振り払うかのように、ラースの操縦桿を限界まで倒し込んだ。
ラースの背部にマウントされたプラズマキャノンが青白い光を帯び、長大なテイルブレードが鞭のようにしなる。
四機のボルトレックスも指揮官機の叱咤によって辛うじてゾアテックスの狂化を取り戻し、一斉にルプス・インパルスへと飛びかかった。
「数で押せば勝てると思ってるの?……浅はかだね」
フレンダはコックピットの中で冷たく、しかし獰猛に笑った。
忘我廻廊を通じて、彼女の脳内には迫り来る五機のボルトレックスの挙動予測が完璧な三次元マッピングとして展開されている。
「メイ、グラビティコントローラーを足元に集中。スケーティング・モード!」
《了解。接地圧を極小化します》
ルプス・インパルスは、大地を蹴るのではなく、氷の上を滑るかのように、摩擦ゼロの超高速スライド移動を開始した。
襲い掛かるボルトレックスの牙や爪がルプス・インパルスの残像を切り裂く。
フレンダは敵の連携の僅かな綻びの中を、優雅なダンスでも踊るかのようにすり抜けていく。
すれ違いざま。
ルプス・インパルスの尾部が、フレンダの意志と完全に連動してナックルダガーを振り抜く。
ボルトレックスの首の人工筋肉。脚部のヘキサグラム結合部。
致命傷を与えずとも、機体制御を完全に奪う急所のみを、流れるような連撃で破壊していく。
「一機、二機、三機……四機!」
踊るように戦場を駆け抜けながら、フレンダは歌うようにカウントを刻む。
その背後で四機のボルトレックスが次々とバランスを崩し、盛大に砂塵を巻き上げて転倒、機能停止していく。
「おのれぇぇぇッ!!舐めるなァァァッ!!」
残された最後の一機。指揮官機のボルトレックス・ラースが狂乱の咆哮を上げてフレンダの正面に立ち塞がった。
プラズマキャノンから極太の熱線が放たれ、同時に死角からテイルブレードがルプス・インパルスのコックピットを串刺しにせんと迫る。
「……死に物狂いかな?悪くないけど腹ペコの私には通用しないよ!」
フレンダは回避行動をとらなかった。
忘我廻廊の極限の演算速度がプラズマの熱線の軌道と、テイルブレードの死角からの刺突を、完全に視ていた。
「グラビティ・スイング!」
ルプス・インパルスは機体の左半分の質量を急激に増加させ、右半分の質量をゼロにするという、機械工学の常識を無視した挙動を強行した。
機体が独楽のように超高速でその場で旋回する。
放たれたプラズマキャノンの熱線はルプス・インパルスの装甲に施された特殊コーティングに弾かれ、紫水の光の尾を引いて逸れていく。
そして旋回の遠心力を乗せた、ルプス・インパルスの右前脚で赤熱化したヴォーパルクロー改が、迫り来るラースのテイルブレードの刃を正面からカチ上げ、弾き飛ばした。
「バカな!?ラースの最大出力の刺突を、力で弾き返しただと!?」
驚愕に見開かれた部隊長の眼球にスイングの勢いそのままに、ゼロ距離まで肉薄してきた紫と水色の狼の頭部が映し出された。
「……食事の邪魔をする奴は万死に値するって、お母さんから教わらなかった?」
通信回線に、フレンダの氷のように冷たい、そして圧倒的な捕食者の声が響く。
「終わりだよッ!!」
フレンダの叫びと共に、ルプス・インパルスの両前脚のヴォーパルクロー改が、十字を描くように交差して振り下ろされた。
忘我廻廊の神速の演算。
ロード・インパルスの闘争心。
マーナガルムの破壊力。
そして、フレンダ・ディーコンという規格外のガバナーの執念。
その全てが融合した一撃は、絶対的な切断力となってボルトレックス・ラースの重装甲を襲った。
ズバァァァァァァァァァァァァァァァァァンッッ!!!!
火花が散る暇すらなかった。
十字の閃光がラースの巨体を通り抜けた直後。
VFが誇る指揮官機はプラズマキャノンもろとも、綺麗な四つの鉄塊へと両断されその場に崩れ落ちた。
地を揺るがすような大爆発が起こり、黒煙が天高く立ち昇る。
その炎を背景にして、紫と水色の装甲に傷一つ負うことなく、ただ静かに、悠然と佇む一機の狼の姿があった。
《……敵部隊の完全沈黙を確認。周囲三キロ以内に稼働状態のヘキサギア反応はありません。……私たちの完全勝利です、フレンダ》
情報の海の中から、メイの安堵に満ちた声が響く。
「……ふぅ、ごちそうさま。腹ごなしにしてはちょっと骨があったかな」
フレンダは首の後ろのBMIケーブルを引き抜き、大きく伸びをした。
忘我廻廊のリンクが解除され、全能感からいつものフレンダ・ディーコンという人間の肉体へと感覚が戻ってくる。
極度の集中と演算の反動で全身の筋肉が鉛のように重く、嫌な汗が吹き出している。
しかし、彼女の心は驚くほど晴れやかだった。
狂暴な二つの獣は今や完全に彼女の飼い犬となり、ルプス・インパルスの奥底で満足げに喉を鳴らして眠りについている。
これなら、やれる。
あの理不尽な光の刃が再び現れても、この紫水の狼となら、絶対に負けない。
『……大尉!フレンダ大尉、応答するっす!』
リトルベースのミカからの通信がインカムに飛び込んできた。
その声は司令官としての威厳をかなぐり捨てた、心底心配そうな悲鳴に近い響きだった。
「はいはーい、こちらフレンダ。ちゃんと生きてるよー。敵部隊の排除も完了したよ」
『……排除って……さっきのレーダーの反応だと、たった数分しか経っていないはずっすよ!?まさか、本当に単機で一個部隊を殲滅したんっすか!?』
「まぁね、うちのワンちゃんは思ってたよりすっごく優秀だったから。あー、でも忘我廻廊のフルパワーで動いたから、お腹と背中がくっつきそうだよ」
フレンダは操縦桿を操作し、ルプス・インパルスの巨体をリトルベースの方向へと旋回させた。
「ミカちゃん、腹ごなしも終わったし約束の特盛シチュー、ちゃんと用意してあるよね?お肉三倍の約束、忘れてないよね!」
『…………』
通信の向こうで、ミカが深く呆れたようなため息をつく音が聞こえた。
しかし、そのため息には、隠しきれない安堵と喜びの響きが混じっていた。
『……仕方ないっすね。さっきリチャード班長から備蓄の貴重な合成肉を全部放り込んだって報告があったっす。大尉が帰ってくる頃にはとびきり美味しく煮えているはずっすよ』
「やったぁ!さすがミカちゃん、大好き!」
フレンダは満面の笑みを浮かべ、ルプス・インパルスのグラビティコントローラーを起動した。
戦場を舞うように駆け抜けた紫水の狼は、今度は主の早くご飯を食べたいという純粋な欲求に従って、一直線に風のように帰路を急ぐ。
『……でも、帰ってきたら、単機突出の軍律違反についてたっぷり反省文を書かせるっす。覚悟しておくっすよ』
「ええー!?嘘でしょ、そんなの聞いてないよー!?」
コックピットに響き渡るフレンダの不満げな、しかしどこまでも明るい笑い声。
白堊理研の壊滅。得体の知れないレイブレードの脅威。そして終わりの見えないLAとVFの戦争。
世界には、まだ数多くの絶望と謎が渦巻いている。
しかし、最強の相棒を手に入れ、確かな日常を取り戻したフレンダ・ディーコンの足取りはどこまでも力強く、未来へと向かっていた。
(……待ってなさいよ、最強の刃さん。次に会ったら私たちがその理不尽を、真っ二つに噛み砕いてやるから!)
夕焼けに染まる赤茶けた荒野を、紫水の狼が、希望の軌跡を描きながら疾走していく。
その咆哮が世界に反撃の狼煙を上げる日は、そう遠くない未来に迫っていた。




