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【紫水の狼】

忘我廻廊のモジュール統合と、フレンダ専用のBMIチューニングが完了するまでにさらに十日の時間を要した。

その間、フレンダの肉体は彼女自身の早くご飯を美味しく食べたいという異常な執念と、癌細胞由来の規格外の再生能力によって、軍医が舌を巻くほどのスピードで回復を遂げていた。


複雑骨折していた左腕と右脚の骨は完全に繋がり、焼け焦げていた皮膚も真新しい細胞に置き換わっている。まだ激しい運動には耐えられない状態ではあったが、少なくとも自分の足で歩き、ヘキサギアのシートに座ることに関しては問題ないレベルにまで達していた。


そして迎えた、運命の起動テストの日。

リトルベースの特別格納庫はかつてないほどの緊迫した空気に包まれていた。


「……大尉。本当に、本当に後悔はないっすね?」


ポーンX1のアンダースーツ姿のミカが、ガントリーのタラップを登ろうとするフレンダの背中に、最後となる確認の声をかけた。

ミカの手には緊急時においてフレンダと機体を物理的に切断するための、分厚い強制停止デバイスが握りしめられている。彼女の指先は、微かにだが確かに震えていた。

フレンダは振り返り、不安げな相棒に向かってニッと白い歯を見せた。


「何回同じこと聞くのさ、ミカちゃん。後悔なんてしないってば。それに、これであの暴れん坊を手懐けたら、約束の特盛シチュー、お肉を二倍に増量してもらうからね」


「……この期に及んでまだそんなことを言ってるっすか。本当に大尉の食い意地には底がないっす。……無事に帰ってきたら、三倍にしてやるっすよ」


「言ったね!約束だよ!」


フレンダは満面の笑みでタラップを駆け上がり、格納庫の中央で静かに首を垂れている巨獣・ルプス・インパルスのコックピットへと滑り込んだ。


コックピットは、かつてのロード・インパルスの構造を踏襲しつつも、マーナガルムの制御系が複雑に絡み合った、全く新しい設計になっていた。

真新しいシートの感触。そして、微かに漂う、オゾンと機械油の匂い。

フレンダはシートに深く身を沈め、操縦桿を両手でしっかりと握りしめた。


「……久しぶりだね、メイ」


《はい、フレンダ。貴女を再びこのシートにお迎えできたこと、KARMAとしてこれ以上の喜びはありません》


メインモニターが点灯し、メイのシステムインターフェースが視界に展開される。


《機体各部のバイパス、正常。ヘキサグラム充填率100%。……これより第一段階・通常BMI接続を開始します。フレンダ、ゾアテックスの初期衝動が来ます。精神の防壁を高く保ってください》


「分かってる。いつでも来なさい」


フレンダが覚悟を決め、首の後ろのコネクタにBMIのケーブルをジョイントした瞬間だった。


――ガァァァァァァァァァッッ!!!!


鼓膜ではなく、フレンダの脳髄に直接、凄まじい咆哮が叩き込まれた。

それは音ではなかった。純粋な狂気と暴力の奔流だった。


「がッ……ぁぁぁあッ!?」


フレンダの体がシートの上で大きく跳ね、全身の筋肉が硬直する。

視界が血のように赤く染まり、情報の濁流が彼女の脳神経を容赦なく蹂躙していく。


(……痛いッ!痛い痛い痛いッ!!)


フレンダの脳裏に、二つの獣の記憶と感情がフラッシュバックする。

一つは、最強の刃によって、何の抵抗も許されずに己の半身を真っ二つに切断された漆黒の獣の絶望と殺意。

どうして死ななければならなかった、全てを切り裂いてやるという、ロード・インパルスの魂が上げる怨嗟の叫び。

そしてもう一つは、冷たい地下の焼却炉で仲間の死体の中から這い上がり、世界中の全てを飢えさせようと憎悪を燃やし続けた白き狼の飢餓と狂気。

足りない、満たされない、全てを喰い尽くしてやるという、マーナガルムに焼き付いた廃棄検体04の底なしの執念。

この二つの極限の感情が、フレンダの脳内という一つの器の中で激突し、互いを喰らい合おうと暴れ狂っているのだ。


通常の第三世代ヘキサギアのゾアテックスとは次元が違う。これは、文字通り呪いだった。


《警告!ガバナーの心拍数、危険域に到達!脳波に深刻なノイズが発生!》

《獣性の干渉率、300%を突破!フレンダの自我が侵食されています!》


格納庫のスピーカーから、メイの悲痛なアラートが鳴り響く。


「大尉ッ!!」


「クソッ、やっぱり無理だ!少佐、強制停止ボタンを!」


外部モニターでフレンダの異常な脳波を見たリチャードが叫ぶ。ミカが唇から血を流すほど噛み締め、手元のデバイスのカバーを跳ね上げた。

だが、コックピットの中で白目を剥きかけ、口からよだれを垂らしながらも、フレンダは操縦桿から絶対に手を離さなかった。


「……ま、て……!まだ、だ……ッ!」


血を吐くようなフレンダの念話が、通信回線を通じてミカの手を止めた。


「こいつら……喧嘩してる、だけ……だッ。腹が、減って……八つ当たり、してるだけだ……ッ!! メイ……忘我廻廊を……起動しろッ!!」


《……了解!忘我廻廊、起動!!》


メイがマスターキーを叩き込んだ瞬間。

ルプス・インパルスのブラックボックスに封印されていた狂気が目を覚ました。


『——————』


フレンダの意識の中から、痛みが消えた。

いや、痛みだけではない。獣たちの咆哮も、自分の荒い息遣いも、シートの感触も、全てが遠くへ、遙か遠くへと遠ざかっていった。


(……ああ。これだ。この感覚)


フレンダの意識は、肉体という矮小な牢獄を抜け出し、無限に広がる情報の海へと溶け込んでいく。

機体の装甲表面を撫でる微細な風の動き。地下格納庫を漂う塵の数。数百メートル先の地上で、哨戒部隊のヘキサギアが立てる駆動音。大気中の粒子の運動ベクトル。

世界を構成するあらゆる事象が、フレンダの脳内に数字と構造として、手に取るように理解できた。


神の視点。

第四世代・ロータス・プロトレクスに乗った時と同じ、自分という存在が無限に拡張され、世界そのものと同一化していくような錯覚。


この静寂で完璧な世界の中では、先程まで彼女の脳を焼き切ろうとしていたロード・インパルスとマーナガルムの凶暴なゾアテックスすらも、ちっぽけなバグデータの塊に過ぎないように思えた。

赤い狂気の波がフレンダという巨大な情報の海の中で、ポツンと浮かぶ小さな染みのように静止している。


《……フレンダ。聞こえますか》


情報の海の中からメイの声が響いた。それは音声ではなく、フレンダの意識に直接書き込まれるデータの羅列だった。


《忘我廻廊の起動により、機体の演算能力と貴女の脳神経が完全に直結されました。現在、貴女の意識はルプス・インパルスのシステムそのものと同化しつつあります》


《……フレンダ。貴女の自我を保ってください。このままシステムの全能感に身を委ねれば、貴女の意識は情報の海に拡散し、二度と人間の肉体に戻れなくなります》


メイの警告はどこか遠い世界の出来事のように感じられた。


(自我……?私の、エゴ……?)


フレンダは、圧倒的な静寂と万能感の中で自問した。

人間の肉体なんて、不便で、脆くて、すぐに怪我をする。

骨が折れれば痛いし、血が流れれば苦しい。

あのレイブレードの光の刃に怯え、恐怖しながら戦わなければならない。

でも、この神様の世界にいれば、そんな痛みも恐怖も感じることはない。

二つの狂える獣も、ただのデータとして容易く消去できる。

全てを忘れて、この完璧な海の一部になってしまえばどれほど楽だろうか。


フレンダの意識の境界線が少しずつ、少しずつ、透明に溶け始めている。

彼女の顔から表情が抜け落ち、呼吸が極端に浅くなっていく。

格納庫ではフレンダのバイタルサインが人間のそれから離れ、機械のアイドリング状態に近づいていくのを、ミカたちが絶望的な顔で見つめていた。


「ダメっす……!大尉が、システムに呑まれている……ッ!!」


ミカが強制停止のボタンを押し込もうとした、まさにその時。


『ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ〜〜〜〜〜〜っ』


コックピットにひどく間の抜けた、しかし生命力に溢れた音が響き渡った。

それは、フレンダの腹の虫が鳴く音だった。

ギプスを外して以来、まともな固形物を食べていなかった彼女の胃袋が、極限のエネルギー消費を強いられたことで、限界を訴える悲鳴を上げたのだ。


(……あ)


情報の海の中で、全てを忘れかけていたフレンダの意識に強烈なノイズが走った。


(……お腹、空いた)


その単純で、泥臭くて、あまりにも生物的な欲求だった。


神様は、ご飯を食べない。

システムは、空腹を感じない。

腹が減るというのは、欠落を埋めようとする生き物だけの特権だ。


(……そうだ。私、ミカちゃんに特盛のシチュー作ってもらう約束してたんだ)


情報の海の中にポツリと、温かいオレンジ色の光が灯った。

それはリトルベースの食堂の風景だった。

薄暗い照明の下、煤けた顔の仲間たちが笑い合っている。リチャードが配給のパンをかじり、ミカが呆れた顔でフレンダの皿に肉を盛ってくれる。

どんなに過酷な戦いがあっても、あの温かいご飯を食べれば、明日も生きていこうと思えた。


(あんな美味しいものを食べられないくらいなら……神様なんて、絶対に願い下げだ!!)


フレンダの意識の中で、ちっぽけだったオレンジ色の光が、爆発的な勢いで膨張し始めた。


それは自我だった。

人間としての、フレンダ・ディーコンという生物の、強欲で底なしの食い意地。

忘我廻廊のシステムがもたらす冷たい全能感を、フレンダの圧倒的な生への執着が内側から喰い破り、反転させていく。


《……フレンダの自我領域、急速に拡大!システムの全能感を自身の意志の力で上書きしていきます!》


メイの声が、格納庫に響き渡る。


「……私の、言うことを……聞けッ!!」


コックピットの中で、フレンダがカッと青い瞳を見開いた。

彼女の瞳孔の周囲に、忘我廻廊が完全にリンクした証である紫色の幾何学模様が浮かび上がる。

フレンダは、先程まで情報の海の中で静止していた二つの獣の狂気を、自らの圧倒的な自我で鷲掴みにした。


『殺してやるッ!!』

『喰い尽くしてやるッ!!』


再び牙を剥こうとするロード・インパルスとマーナガルムの魂。

しかし、忘我廻廊によって神の視点から圧倒的な支配者へと変貌したフレンダの意志の前に、それはひ弱な子犬の抵抗に等しかった。


(うるさいッ!!)


フレンダの精神が、二つの獣を力でねじ伏せる。


(お前らが無念なのも、世界を憎んで腹ペコなのも分かってる!だけど、過去の傷を舐め合って暴れてるだけのヒステリー犬に、私のご飯を邪魔させるわけにはいかないんだよ!!)


獣たちが恐怖に似た感情を抱いて後ずさる。

彼女の意志はもはやただのガバナーのものではなかった。獣たちの本能を根源から屈服させる、完全な群れの長の覇気だった。


(腹が減ってるなら私が美味しいものを山ほど食わせてやる!殺したい奴がいるなら私がそいつをぶっ飛ばしてやる!だから……お前らの力は全部、この私に明け渡しなさいッ!!)


フレンダの自我が二つの獣性を完全に呑み込み、調伏した。


その瞬間。

カァァァァァァァァァンッッ!!!!


特別格納庫に、空気を震わせるほどの甲高い共鳴音が響き渡った。

機体に火が通った。


沈黙していた紫と水色の狼、ルプス・インパルスの全身の装甲の隙間から制御されたヘキサグラムの光が眩いほどに噴き出す。

それは暴走を示す不吉な赤色ではなく、フレンダの意志と完全に同調した美しく透き通るような紫水の輝きだった。


「うおおおぉぉぉぉぉぉッッ!!!」


フレンダの絶叫と共に、ルプス・インパルスの巨大な顎が大きく開かれ、格納庫を揺るがすほどの凄まじい咆哮が放たれた。

それは、悲痛な叫びでも、飢餓の呪いでもない。

二つの獣が新たな主を認め、一つに融合して生まれ変わった歓喜の産声だった。


《……忘我廻廊、安定領域にて定着。ゾアテックスの狂化、完全に沈静。……ガバナーと機体のシンクロ率、計測不能。……機体、完全にフレンダの制御下にあります!!》


メイの報告が、歓喜に震えていた。


「……やった……!やったっす!!本当に、あのバカ大尉は……システムごと獣を喰い破りやがったっす!!」


ミカは手にしていた強制停止デバイスを床に放り投げ、顔を覆って崩れ落ちた。

安堵と、相棒の無事への感謝、そして想像を絶する奇跡を目の当たりにした震えが止まらない。

ガントリーの上の整備兵たちも、言葉を失ったまま、圧倒的な存在感を放つ紫水の狼をただ見上げていた。


コックピットの中。

フレンダは荒い息を吐きながらも、操縦桿を握る手に確かな繋がりを感じていた。

もう獣たちの狂気は聞こえない。代わりに自分の手足がそのまま鋼鉄の装甲と人工筋肉に置き換わったかのような、完璧な一体感があった。


忘我廻廊は起動し続けているが、彼女の意識は情報に溶けることなく、強固なフレンダという個を保ったまま、機体の全ポテンシャルを掌握している。


(……これなら、いける。これなら、あの光の刃にも……!)


フレンダは操縦桿を引き、ルプス・インパルスをゆっくりと立ち上がらせた。

四本の脚が床を踏みしめる重厚な音が、格納庫に響く。

アイセンサーが鋭い紫色の光を放ち、獲物を狙うかのように前方を睨み据える。

マーナガルムとロード・インパルス。

そして、全能感すらも食欲でねじ伏せる規格外のガバナーと彼女を支える最高のKARMA。

全ての要素が奇跡的なバランスで融合し、ここにリバティー・アライアンス最強の、いや、世界で最も強欲で純粋な機体が誕生した。


「……お待たせ、ミカちゃん、リチャードさん」


フレンダの声が、外部スピーカーを通じて格納庫に朗らかに響き渡った。

先程までの死闘の疲労を感じさせない、いつもの太陽のような明るい声。


「うちの新しいワンちゃん、すっごくいい子だよ!ちょっとご飯はいっぱい食べそうだけどね!」


その言葉に、ミカは涙を拭い、ポーンX1のヘルメット越しにフッと笑みをこぼした。


「……大尉の相棒なら、大食らいなのは当然っす。基地のエンゲル係数がまた跳ね上がるっすね、全く」


リチャードも、油まみれの顔をくしゃくしゃにして笑い、親指を高く突き上げた。

最強の狼がここで目を覚ました。

絶望の淵に突き落とされたリトルベースに、再び反撃の炎が灯った瞬間だった。

・ルプス・インパルス

マーナガルムとの死闘にて、ロードインパルス【Reloadead】はマーナガルムを討ち取りながらも、突如現れた最強の刃・レイブレードにより大破した。

討ち取ったマーナガルムと大破したロードインパルス【Reloadead】を素材として急遽建造されたフレンダの機体。搭載システムに忘我廻廊を加え、理論上の最大値までゾアテックスを高めた最新鋭機体。


【武装】

・インペリアルロアー【頭部】

・グラビティコントローラー【前後足裏、機体各部】

・ヴォーパルクロー改【両前足側面】

・チェーンガン【頭部右側面】

・グレネードランチャー【頭部左側面】

・ハンドガトリングガン×2【尾部】

・ナックルダガー×2【尾部】


【制御AI】

KARMA・メイ

【搭載システム】

ゾアテックス

忘我廻廊

【ガバナー】

フレンダ・ディーコン


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