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【忘我廻廊】

特別格納庫の重い電子ドアが開き、車椅子に乗ったフレンダが姿を現した瞬間、その場にいた全員の時間が止まったかのような錯覚に陥った。


全身をギプスと痛々しい包帯で覆い、まだ自力で歩くことすらままならない状態。それなのに、彼女の周囲だけは重苦しい絶望の空気が晴れ、まるで本物の太陽が昇ったかのような温かさと活力が満ちていた。


「た、大尉……本当になんでここにいるっすか!?医療班は何をしているっすか!」


ミカが血相を変えてガントリーの階段を駆け下り、フレンダの車椅子に取り付いた。


「医療班の人たちは悪くないよ?私がちょっとお手洗いに行くって嘘ついて監視の目を盗んで抜け出してきただけだから。あ、ついでに食堂の備蓄倉庫からレーションの余りを少し拝借してきたんだけど、ミカちゃんも食べる?」


フレンダは悪びれる様子もなく、パジャマのポケットから無骨なパッケージに包まれた高カロリーのレーションを取り出して見せた。口の周りには、すでに一つ平らげた証拠である粉がしっかりと付着している。


「食べるわけないっす!というか、胃腸の再生もまだ完全じゃないのに、固形物を勝手に食べたら……!」


「大丈夫大丈夫、私の細胞、すっごく優秀だから。お腹が空いてるってことは、体が栄養を求めてるってことだよ。それにしても……」


フレンダはミカの小言を適当に受け流し、車椅子の背もたれから身を乗り出すようにして、格納庫の中央に鎮座する巨体を見上げた。

紫と水色の装甲を纏った、鋭角的で獰猛なシルエットを持つ狼型ヘキサギア。

フレンダの青い瞳に、純粋な感嘆の光が宿る。


「……すごいね、これ。ロード・インパルスの面影があるけど、もっとこう……研ぎ澄まされてて、触れたら切れちゃいそうな鋭さがある。リチャードさん、これが私の新しい相棒?」


「……ええ、そうです。大尉のために、俺たち整備班が文字通り不眠不休で組み上げました」


ガントリーから降りてきたリチャードが、油にまみれた手で頭を掻きながら答える。しかし、彼の顔には新機体を完成させた誇りよりも、深い苦悩の色が濃く表れていた。


「でも、さっきミカちゃんと深刻そうな顔で話してたよね?何か問題でもあったの?」


フレンダの鋭い指摘に、ミカとリチャードは顔を見合わせた。

隠していても仕方がない。いずれフレンダが乗る機体なのだ。ミカは重い口を開いた。


「……ハードウェアは完璧っす。第三世代を凌駕するスペックに仕上がったんですが、ソフト面に致命的なバグ……いや、呪いが宿ってしまったっす。マーナガルムの飢餓感と、ロード・インパルスの闘争心が最悪の形で混ざり合って、制御不能な凶暴なゾアテックスが形成されてしまったんっすよ」


《通常のガバナーがBMI接続を行えば、脳神経が焼き切れ、自我を失うほどの過負荷が発生します。フレンダ、大変残念ですが……現状、貴女をこの機体に乗せることはできません。これは、機体ではなく、ただの狂犬です》


メインフレームからアクセスしているメイの声も、ひどく沈み込んでいた。


「狂犬、ね……」


フレンダは車椅子の上で腕を組み紫水の狼をじっと見つめた。

機体は起動していないはずなのに、フレンダには感じ取れた。


装甲の奥底で、二つの獣の魂が互いを喰らい合い、周囲の全てを破壊しようと飢えて吠え猛っているのを。


かつて相棒だった漆黒の獣の怒りと、自分を憎み、世界を憎んだ白き狼の絶望。

それが混ざり合えば、どれほど恐ろしい衝動が生まれるか、想像に難くない。


「……ねぇ、メイ。一つ聞きたいんだけど」


しばらくの沈黙の後、フレンダは不意に真剣な声色に変わった。

先程までのレーションを頬張る能天気な少女の顔は消え、数多の死線を潜り抜けてきたガバナーとしての鋭い眼差しがそこにあった。


「マーナガルムの機体をサルベージした時、あいつのブラックボックスの中に、特殊なシステムモジュールが残ってなかった?」


その問いに、ミカとリチャードは怪訝な顔をした。


《……マーナガルムのブラックボックスの解析データですね。お待ちください。……はい、確かに通常の第三世代機には搭載されていない、特殊なBMI拡張モジュールが存在しています。ただ、これはあまりにも危険な代物で、現在の『ルプス・インパルス』の制御には全く適さないと判断し、システムから切り離して封印しました》


「やっぱり、あったんだね。白堊理研の暗部が、廃棄検体04にあんな無茶な戦いをさせていた理由。……メイ、システムの名前は?」


《システム名は忘我廻廊。……ガバナーと機体の神経接続を理論上の限界値まで引き上げ、機体の知覚と演算能力を人間の脳に直接フィードバックする、禁断のシステムです》


「忘我廻廊……!?」


ミカが息を呑んだ。白堊理研の強化手術を受けた彼女でさえ、その名を聞くのは初めてだった。しかし、その名前とシステムの概要だけで、それがどれほど非人道的で狂った代物であるかが直感的に理解できた。


「それって、要するに人間の脳をヘキサギアの演算装置の一部として扱うってことっすか!?そんなものを起動したら、ただでさえ暴走しているゾアテックスの狂気が、直接ガバナーの脳に流し込まれることになる!廃人になるどころの話じゃないっすよ!」


ミカの激しい抗議に対し、フレンダは静かに首を横に振った。


「逆だよ、ミカちゃん」


「……逆?」


「忘我廻廊はね、機体に人間が飲み込まれるためのシステムじゃない。人間の自我を極限まで拡張して、機体という器を完全に支配するためのシステムなんだよ。これを使えば、どんなに狂暴な獣性だろうと、上から力ずくで押さえつけるための手綱になる」


フレンダの言葉は、あまりにも常軌を逸していた。

暴走する猛獣の檻の中に、丸腰で飛び込んで首輪をつけようと言っているに等しい。


「ダメっす、絶対に許可できないっす!」


ミカが激昂し、車椅子の手すりをガタッと音を立てて掴んだ。


「大尉は忘我廻廊の恐ろしさを分かっていないっす!人間の脳が、ヘキサギアの膨大な情報量と並列処理に耐えられるわけがない!獣性を抑え込む前に大尉の自分という存在そのものが、情報の海に溶けて消え去ってしまうっすよ!」


「……少佐の言う通りです、大尉」


リチャードも、ミカに同調して重々しく頷いた。


「俺たち整備兵は、パイロットに生きて帰ってきてもらうために機体を整備してるんです。自ら廃人になるようなスイッチを大尉に押させるわけにはいかない。この機体は諦めて、別の第三世代機を本部に要請しましょう。時間がかかっても――」


「時間がかかっても、じゃないよ。リチャードさん」


フレンダの静かだが鋼のように硬い声が、リチャードの言葉を遮った。


「時間が経てばあのレイブレードの化け物がまた現れるかもしれない。そしたら、リトルベースのみんなは?民間居住区の人たちは?全員、あんな風に消されちゃうのをただ待つしかないの?私は、そんなの絶対に嫌だ」


フレンダは痛む体を押して、車椅子からゆっくりと立ち上がった。

ミカが慌てて支えようとするが、フレンダは片手でそれを制し、自分の足でしっかりと床に立った。


「ミカちゃんが心配してくれるのはすごく嬉しい。でもね、ミカちゃんは一つだけ間違ってる」


「間違っている……?私の、何がっすか」


フレンダはミカの青い瞳を真っ直ぐに見つめ返し、そして、まるで昔の懐かしい友人のことを語るような、どこか遠くを見るような目をした。


「私は、忘我廻廊の恐ろしさを知らないわけじゃない。……知ってるんだよ。あのシステムがどれほど恐ろしくて、どれほど甘美で、どれほど人間を壊してしまうか」


その言葉に、ミカとリチャードは沈黙した。


「私がミカちゃんに会う前。私が乗っていた機体を知ってる?」


「第四世代……人型ヘキサギアっすか」


ミカは絶句した。

現在、戦場の主流となっているのは獣の形をした第三世代ヘキサギアだ。

しかし、LAでは人型でありながら、ガバナーと完全な同期を果たすことで究極の汎用性と戦闘力を発揮する第四世代の開発が進められている。


「うん。ロータス・プロトレクスは、本当に綺麗な機体だったよ。獣みたいなゾアテックスは無くて、ただ純粋に、私の手足の延長として動く。……でも、その機体との完全なシンクロを果たすために忘我廻廊が組み込まれていたの」


フレンダは自分の胸に手を当て、過去の記憶を辿るようにゆっくりと語り始めた。


「……あのシステムを起動した時、最初は本当に魔法みたいだった。機体の視覚センサーが捉える数百キロ先の砂埃の形、風の温度、大気中の粒子の流れ。それら全部が、まるで自分の皮膚で感じているように脳に入ってくるの。

自分が巨大になって、世界中の全てを理解して、全てを支配できるような錯覚。……あれはね、神様になるシステムなんだよ」


ミカは息を呑んだ。フレンダの言葉から想像を絶する情報処理の過負荷と、人間の精神が拡張されることによる自我の喪失のプロセスがありありと伝わってきた。


「だけど、神様になっていくにつれて、だんだん人間の私がどうでもよくなっていくんだ。

腕がちぎれそうになっても、機体の装甲が無事なら痛くないって錯覚する。仲間が死んでも、それはただの戦力数値の減少というデータとしてしか処理できなくなる。

恐怖も、悲しみも、喜びも、全部が巨大な情報の海の中に溶けていって……最後には、自分っていう境界線が消えてなくなる」


フレンダの表情から、一切の感情が抜け落ちた。それは、普段の彼女からは想像もつかないほど虚ろで、冷たい機械のような顔だった。

ミカはその顔を見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「私もその感覚の底まで沈みかけた。自分の名前も、どうして戦っているのかも分からなくなって、ただ全てを見下すシステムの一部になりかけた。……その時だよ。私がそこから這い上がれたのは」


フレンダはフッと表情を緩め、いつもの温かい笑顔に戻った。

そして、自分のぺちゃんこのお腹をポンッと叩いた。


「怖くなったんだ」


「…………」


「嘘みたいな話だけど、本当だよ。メイと一緒に神様になりかけた時怖くなったんだよ。自分は何になるんだろうって。人を殺しても何も感じない、ご飯の味もわからない無機質な機械の神様なんて……怖くてたまらないよ」


フレンダは少し恥ずかしそうにくすくすと笑った。


「私は神様なんかになりたくない。不味いレーションに文句を言って、みんなで笑いながらご飯を食べて、お腹いっぱいになって眠りたい。泥臭くて、欲張りで、食い意地が張ってる……それが私なんだって、思い出したの。

その瞬間、私の根源的なエゴが、忘我廻廊の全能感を完全に食い破ったんだ」


フレンダは車椅子から数歩歩み寄り、ルプス・インパルスの紫色の前脚の装甲に、そっと掌を触れた。


「ミカちゃん。獣性がいくら狂暴でも、飢餓と怒りに狂っていても、絶対に私には勝てないよ。

だって、獣が本能で求めてる破壊なんかより、私が明日を生きて、美味しいご飯を食べたいっていう欲求の方が、ずっとずっと強くて図太いんだから」


フレンダは装甲を撫でながら、ルプス・インパルスの奥底に眠る魂に向かって語りかけるように言った。


「ロード・インパルス。お前が無念だったのは分かってる。マーナガルム。お前が世界を憎んでたのも知ってる。でもね、お前らのその飢えは、ただの八つ当たりだ。

本当に飢えてるっていうのは、生きるために歯を食いしばって、明日の一口のために戦うことなんだよ。……私がお前らの狂気を、全部丸ごと呑み込んで、美味しいご飯に変えてやる。だから、私の手綱に従いなさい」


フレンダの意志を帯びた声に呼応したのか、起動していないはずのルプス・インパルスの装甲表面に、淡い紫色のヘキサグラムの光が一瞬だけ脈動した。


「……大尉は、本当に……」


ミカは深くため息をつき顔を覆った。

常識で考えれば、フレンダの理論は無茶苦茶だ。食欲でシステムをねじ伏せるなど、どこの軍事マニュアルにも書いていない。


だが、ミカは知っている。フレンダ・ディーコンという人間が、その理屈を超越した生存本能の塊であり、有言実行の化け物であることを。

ミカは顔を覆っていた手を下ろし、フレンダを真っ直ぐに見据えた。


その瞳には、もう迷いはなかった。


「……分かったっす。大尉の意志と、その食い意地を信じるっす」


「少佐!?本気ですか!」


リチャードが慌てて声を上げるが、ミカは手でそれを制した。


「ただし、条件があるっす。忘我廻廊の起動シークエンス及び、BMIの接続設定は、私とメイで完全に監視するっす。もし大尉の脳波に少しでも自我の崩壊の兆候が見られたら、物理的にケーブルを切断してでも強制停止させる。……それでもいいっすね?」


「もちろん!ミカちゃんとメイが見張っててくれるなら、これ以上心強いことはないよ」


フレンダは満面の笑みで頷いた。

ミカはリチャードに向き直る。


「聞いた通りっす、リチャード班長。マーナガルムのブラックボックスから忘我廻廊のモジュールを抽出し、ルプス・インパルスのメインシステムに統合するっす。大尉のBMI設定はロータス・プロトレクス搭乗時のログを参考に、特別チューンを施すっすよ」


「……分かりましたよ。どうなっても知りませんからね。全く、うちの基地の連中はどいつもこいつも狂ってる……!」


リチャードは悪態をつきながらもその顔にはどこか嬉しそうな、メカニックとしての純粋な闘志が戻っていた。

すぐに彼は整備兵たちを呼び集め、忘我廻廊モジュールの組み込み作業の指示を出し始める。


《……フレンダ。本当に、後悔はしませんね?》


メイの音声が、確認するようにフレンダに問いかけた。


「後悔なんてするわけないでしょ。メイも一緒に戦ってくれるんだから」


《ええ。私が再び貴女の精神の防波堤となります。……フレンダ専用の忘我廻廊最適化シークエンス、構築を開始します》


格納庫は再び、いや、これまで以上の熱気と喧騒に包まれた。

絶望の淵に沈んでいた狂える狼に、今、最強の手綱が掛けられようとしている。

フレンダはルプス・インパルスの装甲から手を離し、痛む脇腹をさすりながら小さく息を吐いた。


忘我廻廊の恐ろしさは、誰よりも自分が一番理解している。あの全能感の甘い誘惑に、もう一度打ち勝てる保証はどこにもない。

だが、恐怖よりも、守りたいものへの執着が勝る。


「……さてと。それじゃあ今のうちにさっきのレーションの続きを食べてカロリーを補給しておかないとね!」


「大尉!いい加減にするっす!医療班!早くこのバカ大尉をベッドに縛り付けて、点滴を打つっす!」


「ええー!?ミカちゃんご飯ぐらいゆっくり食べさせてよー!」


騒がしく逃げ回るフレンダと、それを追いかけるミカ。

その騒々しくも温かい日常の光景を、紫と水色の狼は、静かな暗闇の中からじっと見つめ続けていた。

双獣の遺産に命が吹き込まれる時、それはもう間もなく訪れようとしていた。

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