第十四話
「孤児院の運営に抜擢されたことは嬉しく思います。でも、お断りします」
そう言うと、ラウラは席を立ち応接室を出て行こうとした。フィリップは慌てて立ち上がり、ラウラの手首を掴んだ。急に手首を掴まれ、ラウラは驚いて立ち止まった。フィリップはラウラの手首の細さに驚いた。
「離して下さいっ」
ラウラが腕を引くが、フィリップはその手を離さなかった。
「待って下さい。なぜ断るのですか? 断る理由がわからない!」
ラウラは、本当にわからないといった様子のフィリップを睨みつけた。
「私が侯爵家に入る理由もわかりません! ここからでも十分通えます」
「ああ、そういうことですか。孤児院から離れるのが寂しいのだったら、私も夜はこちらで過ごします」
「……ますます、意味がわかりません」
少し照れたように笑うフィリップとは対照的に、ラウラはどんどん追い詰められる。理解しようと考えていたラウラの顔に、絶望の色が浮かんできた。
「これは貴族、いえ、次期宰相様のご命令ですか」
ラウラの声が緊張で震える。フィリップは明るい声を上げた。
「命令? そうです。これは業務命令です」
そう言えば、ラウラは断れない。ラウラのわだかまりは、ラウラの都合に合わせて後から擦り合わせよう……フィリップはそう考えた。
ラウラからすれば、貴族の命令には逆らえない。今までフィリップに感じていた好感など一気に吹き飛んだ。
「……わかりました。従います」
感情のない声でラウラが呟いた。
「本当ですか!? 良かったー!」
ラウラは俯いて、ただ瞬きを繰り返した。溢れそうになる涙をフィリップには見られたくないと思ったからだ。
しかし、この仕事が孤児院のためになるのは確かだ。ラウラは頑張って気持ちを入れ替えようとした。
「私はこの先、どうすれば?」
俯いたままのラウラに、興奮しているフィリップは元気に答えた。
「まずは、親戚の子爵家に養女に入ってもらいます。そこで様子を見て、次は伯爵家に」
嬉しそうに早口で話すフィリップを、ラウラは恨めしそうな表情を浮かべて黙って聞いていた。
「期間は短い方が良いが、長くても二年以内にはうちの侯爵家に迎えようと思います」
「宰相補佐になるのに、そんなに転々としないといけないのですか?」
仕事の予定だと思っていたラウラは驚いて、思わず口を挟んでしまった。
「私もそう思っていました。でも、キャサリン様が言うには、直接侯爵家に入ると色々問題が起きるそうです」
国の仕事も大変なんだと、ラウラは少し怖くなった。
「大丈夫ですよ。私が常に隣にいます。それこそ、朝から夜まで」
不安そうなラウラを安心させようと、ことさら明るくフィリップが言う。ラウラは余計に混乱した。
「えっと。最終的に侯爵家の養女となった私が、フィリップ様と一日中過ごすのですか? フィリップ様には他にもお仕事がおありなのでは?」
フィリップはやれやれと首を振った。
「ですから養女ではない。ラウラさんには、私の妻として侯爵家に入ってもらうのです」
「つ、妻っ!?」
ラウラが思わず大きな声を上げた。
「そうですよ。妻です」
「妻って。フィリップ様、私のことがお好きなのですかっ!?」
耳まで真っ赤にして声を裏返すラウラに、フィリップはため息を吐く。
「好きって……。恋愛は理性を破壊するものです。貴族の結婚はそんな甘いものではない。これは、有益な人材の登用です」
膨らんでいたラウラの希望は、フィリップの言葉で一気に萎んだ。
フィリップの言う通り、貴族の結婚に恋愛は関係しないのだろう。同時に、ラウラは初めて自分の置かれた環境を恨んだ。孤児院運営の仕事を手にする代わりに、自分のことを好きではないフィリップの妻になることを命じられたのだ。
ハンスはもうすぐレベッカと結婚する。あの二人が仲睦まじく手を繋ぐ姿を見て、自分にもいずれそんな相手が現れると思っていた。一時はその相手がフィリップだったら、とも考えていた。すべて、都合の良い夢だったのだ。
フィリップ様も好きでもない平民の女と結婚させられて可哀想に……ラウラは自嘲するように微笑んだ。ラウラの目には、もう涙すら浮かばなかった。
そんなラウラの微笑みを肯定と受け止めたフィリップは、満面の表情を浮かべた。
「良かった! 断られた時はどうしようかと思った!」
一体、誰に話しているのか、フィリップはタガが外れたようにペラペラと話し出す。
「断られた時、二度とラウラさんに会えなくなったらと思うと、体中から嫌な汗が出た。キャサリン様にも断られるって言われていたし」
ラウラはハッとして手首を見る。手首はまだフィリップに掴まれたままだ。ラウラは掴まれた手首がしっとり湿っているのに気がつき、絶句した。
「毎日毎日、朝目覚めたら隣にラウラさんがいたらいいのにとか、夜寝る時、なぜ隣にラウラさんがいないのか考えたり」
手首を見ていたラウラは慌てて、フィリップの顔を見た。
「仕事が立て込んで孤児院に行けなかった日。仕事を持ってきた連中を殴ってやろうとすら思った。」
ラウラは目を見開く。
「ラウラさんの笑った顔、怒った顔、つむじ……それを思い出して温かい気持ちになって。でも、それと同じぐらい胸が苦しくなって」
フィリップの頬はほんのり赤く染まり、苦しそうなのにどこか恍惚としている。
これは……ラウラは思った。これは、恋をしている人の顔だ。
側から見たら十分気色の悪いフィリップの姿を、なぜかラウラは「可愛い」と思えた。同時に、ラウラにいたずら心が湧き起こる。
「でも私との結婚は、有益な人材の登用……なんですよね?」
フィリップは当然と言わんばかりに頷く。ラウラは掴まれていない方の手で、フィリップのタイを力一杯引き寄せた。驚いたフィリップの顔が、ラウラの顔の真ん前で止まる。ラウラは、フィリップの瞳を見つめながらゆっくりと伝えた。
「フィリップ様とは違って……私はあなたをお慕いしています」
フィリップが目を見開いたまま固まった。
その顔全体がみるみると赤くなっていく様子を見て、ラウラは少し溜飲が下がった。もっともらしいことを言っているだけで、この人はきっとラウラのことが大好きなのだ。こんな人に振り回されていたのが馬鹿馬鹿しい。
しばらく黙って震えていたフィリップは、おもむろにラウラの両手を握って叫んだ。
「幸せにします! あなたをいじめる貴族は片っ端から潰します! だから、安心して……私の妻になって欲しい!」
ラウラの瞳から、涙が一粒溢れた。聞きたかった言葉が聞けたのだ。
「私も誠心誠意、登用された人材として職務を全うします。フィリップ様の言うことなら、なんでも応えられるよう努力します」
ラウラの言葉に、フィリップの目にも涙が浮かんだ。
「では……」
今まで見た中で一番優しい顔をしたフィリップが、ラウラを見つめた。
「くるぶしを……」
次回、最終話です。
くるぶしとハンカチのご準備を……




