第二話
「ウェンディ! ウェンディ・ロータス伯爵令嬢!」
突然の大声に、会場は静まり返った。
マーガレーテ、ナディアと歓談していたウェンディがロルフを見る。
ロルフに続き、ロルフの後ろにいたアンドレアスとフリッツがウェンディに近づいた。
「ウェンディ・ロータス伯爵令嬢。俺は真実の愛に目覚めたんだ! 君とは婚約破棄してリリ……」
パァァァァァァーンッ
ウェンディは、ロルフがリリーの名前を言い終える前に一歩踏み込むと、全体重を乗せた渾身の平手打ちを食らわせたのである。
会場が凍りつく。その静けさは、しんしんという雪の降る音の方が大きく感じられるほどだった。
そして、その場にいた全員が何が起こったのか理解できなかった。いつも穏やかなウェンディ嬢が、とても女性の平手打ちとは思えない衝撃をロルフに与えたのだ。人間、理解が追いつかないと動けないらしい。誰一人として、止めに入ることもできない。
頬を打たれたロルフ本人もそうであり、後ろで婚約破棄の順番を待っていたアンドレアスとフリッツも然り。
しかし、いち早く我に返ったのはロルフだった。
ロルフは顔を真っ赤にさせると、怒りに満ちた目で再びウェンディに近づこうとした。
対するウェンディも、すっと静かに腰を落とした。
「な、何をす……」
パァァァァァァーンッ
「やめっ、話を……」
パァァァァァァーンッ
「ウェン……」
パァァァァァァーンッ
ロルフが話そうとすると、ウェンディがすかさず平手打ちをする。
繰り返すうちに、次第に平手打ちの音しか聞こえてこなくなった。
何度、平手打ちの音が響いただろうか。
とうとう、大人しくなってしまったロルフが膝をついた。涙目で、腫れた左頬をかばいながら。
ウェンディは、ロルフの頬と同じぐらい真っ赤に腫れた手もそのままに表情ひとつ変えないでいた。やがてウェンディはにっこりと微笑むと、いつもと同じ穏やかな柔らかい声でロルフに言った。
「それで、ロルフ様のお話はなんでしょう?」
ロルフはもう何も言えない。何か言おうとすると、父親に殴られた時よりも痛い、あの平手打ちが飛んでくるのを学習したから。
黙り込み涙を流すロルフから視線を外したウェンディは、今度はアンドレアスとフリッツの正面に立った。
「アンドレアス殿下、フリッツ様」
息ひとつ切らさない澄んだ声に、目の前で友人の惨状を見た二人は体をビクッと震わせた。
「ロルフ様が何を言おうとしていたのか、ご存知ありませんか? 私、頭が真っ白になってしまって。何があってこうなったのか、ひとつも覚えていないんですの」
微笑むウェンディの右手が時間と共にさらに赤く腫れ上がる。それを見た女子学生から小さな悲鳴が上がる。
アンドレアスはロルフに目をやるが、無表情で涙を流すロルフのその目には、もう光は無い。
ここで何かを話したら、ウェンディの右手はロルフかアンドレアスかのどちらかに飛んで来るだろう。
皇太子であるアンドレアスに手を上げることはないとは承知しているが、アンドレアスは怖くて仕方がなかった。
「い、いや……知らない」
すまん、ロルフ……答えながら、アンドレアスは心の中で謝った。フリッツに至っては、初めて目の当たりにした女性からの暴力に直立不動である。
「そうですか。あら? アンドレアス様とフリッツ様も、婚約者様に何かお話があったのでは?」
アンドレアスとフリッツは、ウェンディの後ろにいる自分の婚約者を恐る恐る視界に入れる。
ナディアは左手首を軽く振りながら肩を回している。ナディアは左利きだからなぁと、フリッツが遠い目をした。
マーガレーテは制服のブレザーの袖口に指をかけている。あ、暗器を使うんだ、とアンドレアスは目を閉じた。
「「……特に何もありません……」」
小さな声を出した二人を、いつの間にか皇族席に座っていた皇帝と皇后、そして宰相として参加していたフリッツの父親が呆れたように見ていた。
「巷で流行っている婚約破棄。帝国内のあちこちで混乱を招いているそうです。実際、浮気を正当化したような『真実の愛』とやらでの婚約破棄のいざこざで、裁判所も辟易しているようでして……」
その混乱を我が息子が起こそうとしていた……その事実にショックを受けながら、宰相が情けなそうに皇帝に報告する。
皇后も口元は穏やかに笑っているものの、美しい額には青筋が立っている。情けない計画を立てた上に、ロルフを助けることなく逃げた息子が未来の皇帝として情けなく、腹が立って仕方がなかった。
「やり方はともかく、取り返しがつかなくなる前にハーバー公爵令息を黙らせたロータス伯爵令嬢には脱帽だ。おかげで息子の愚行を止めることができた。」
「全く、その通りです。うちの愚息も助かりました」
父親同士が情けなく話している隣で、皇后が侍女を呼び、ウェンディに手当てをするように指示した。
皇后は、貴族の令嬢が綺麗な手をあんなに腫れるまで打ちつけてまで、相手の名前を決して出させなかったことに気づいていた。
婚約者の愚行を止めると同時に、相手の女性の立場も守ったのだ。
あのセリフを、三人が最後まで言っていたらどうなっていただろう。帝国中の笑い者だ。
そんなバカな皇太子が次期皇帝になっては、いつ内紛が起きてもおかしくない。皇后はゾッとして背筋を伸ばした。
三人の婚約者たちは、とても賢い。何らかの方法で息子たちが今日、愚行に出ることに気づいたのだろう。
誰の婚約者が一番に婚約破棄を言い出しても、彼女たちは同じように完膚なきまでに叩きのめしたはずだ。
正直褒められるやり方ではない。それでも将来のことを考えて、必死に立ち向かったことは褒めてやりたい。
あの娘たちが未来を担う馬鹿な息子たちの婚約者でいる限り、次の世代も安心ね、と皇后は呟く。それが聞こえた皇帝も、苦い笑顔を浮かべて頷いた。
ウェンディが手当てのために控室に連れて行かれ、娘の余りの所業に動けなかったウェンディの両親も、娘に付き添い会場を後にした。
ロルフはすっ飛んで来た父親に腫れていなかった右の頬を思いっきり殴られ、ウェンディへの謝罪のためにずるずる引き摺られて会場を後にした。
しばらく呆然としていたアンドレアスは、なんとか皇太子としての役割を思い出し、マーガレーテの手を取りダンスに誘う。
マーガレーテは口元だけ完璧な淑女の笑みを浮かべて、目を泳がせるアンドレアスのリードで踊り出す。ぎこちないフリッツと余裕の笑みのナディアが続いて踊り出し、それを見て他の卒業生たちもようやく踊り出した。
会場は賑やかさを取り戻し、卒業パーティーは何事もなかったように無事執り行われた。
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