第九話
柔らかい、温かい、もう少しここに居たい……。
くすぐったい、うるさい、鼻を摘むな……。
フィリップはゆっくりと瞼を開いた。
焦点が合った瞬間、フィリップは目の前に顔が二つあることに驚いた。
「やっと起きたな、フィリップ!」
マックスがモニーとそっくりの目を丸く見開いて、嬉しそうに声を上げた。どうやら、マックスに鼻を摘まれていたようだ。
ハンスが大きな体で、はしゃぐマックスを押さえつける。
「……フィリップ様な。お前、ちゃんと言えるようになってただろう」
そう言いながらも、フィリップはこの状況に混乱していた。
フィリップは、体を起こすと周りを見渡した。ベッド以外には小さな机と椅子が一脚あるだけの小さな部屋。すべてが質素なものだが、清潔なせいか嫌な感じはしない。花が一輪飾られている窓からは、たっぷりの光が差し込んでいた。
キョロキョロとするフィリップを見て、ハンスが笑いながらグラスを差し出した。
「やっぱり昨夜のこと、覚えていないんですね」
フィリップはグラスを受け取ると、それを素直に飲んだ。
「……うまい」
「うまいって……それ、ただの水だぜ。フィリップは貴族だろ?」
からかうマックスの口を、ハンスの大きな手が塞いだ。マックスは嬉しそうにジタバタする。
「昨夜、遅くに孤児院に戻れたと思ったら、マックスからモニーが病気になったと聞いたんです。しかも、あなたがモニーをお医者様のところに連れて行ってくれたと」
ああ、そうだった。孤児院に辿り着きドアを開けたところまでは思い出したが、フィリップにはその先の記憶がどうしても思い出せなかった。
「モニーは?」
フィリップの口から自然に言葉が出る。
「まだ少し熱っぽいけど、元気が戻って朝からめちゃくちゃ食ってる」
マックスが嬉しそうに教えてくれたので、フィリップもつられて笑みが溢れた。
「玄関の前で待っていたら、ドアが開いたんだ。開いたと思ったら、フィリップが白目で倒れ込んでくるから、驚いたのなんのって!」
マックスが興奮気味に語る。フィリップはギョッとしてハンスを見た。ハンスは困ったような笑みを返すだけ。残念ながらマックスが言ったことは本当らしい。
「みんなで手分けして、あなたをラウラの寝室に運んで。そうしたら、侯爵家の御者が来て」
暗くなって侯爵家から迎えに来た御者は、馬車を少し離れた場所に停めていた。が、待てど暮らせどフィリップが来ない。心配になった御者は孤児院を訪れたのだ。
「あなた、忙しくて睡眠不足だったそうですね。よく寝ていらっしゃったので、一旦馬車は戻って行きました」
そうだったのか。フィリップは、自分がとんでもない迷惑をかけていたことを恥じた。確かに、孤児に関する法整備に走り回り、ここ数日は寝る時間も削っていた。それなのに、あの時はモニーを救いたい一心で走った。普段は書籍より重いものは持たず、少しの距離を歩くのも嫌なのに……。
「迷惑を掛けた……」
不甲斐なさに、フィリップの声は小さく震える。俯くフィリップに、ハンスもマックスも驚いて顔を見合わせる。こんな偉そうじゃないフィリップなんて、見たことがなかったのだ。
「こちらこそ、モニーを助けてくれてありがとうございました」
ハンスが立ち上がり、深々と頭を下げた。マックスも慌てて頭を下げる。フィリップはなかなか頭を上げないハンスを見つめた。刈り込まれた黒い髪と、広い肩幅。シャツ越しにも、腕の筋肉がわかる。そのまま自分の腕に目を落とす……何も言えない。
女性というものは、力強い男に惹かれるのだろうか。ラウラはどうなんだ……。
そこでようやく、フィリップはラウラが顔を見せていないことに気がついた。
「ラウラさんは?」
ハンスが頭を上げる。少し困ったように笑いを堪えるハンスの表情に、フィリップは早く教えろとムッとした。
しかし、ハンスは意外なことを言った。
「あんなに取り乱したラウラは、初めて見ました」
取り乱す? フィリップは首を傾げた。
『フィリップさまー、フィリップさまー。死んじゃいやー!』
突然、マックスが声色を変えて大袈裟に叫び出す。唖然としたフィリップだったが、やがてそれがラウラの真似だと気づいた。
ハンスはマックスを黙らせようと、その小さな頭に腕を回した。
「むぐぐ……」
「俺が交代する明け方まで、ラウラはずっと、ここであなたを看病していましたよ」
ラウラが私を……。フィリップは自分の体を見る。そういえば、シャツが清潔なものに変わっている。あの濡れたシャツを、ラウラが着替えさせてくれたのかもしれない。ハンスと比べればまるで枯れ木のような、この腕も見られたのかもしれない……。
フィリップの顔が赤くなる。ハンスはそれをニコニコと見ていた。熱出たのか、とマックスが心配する。
誤魔化すように咳払いを一つして、フィリップはハンスに断りを入れた。
「雨に濡れた私のことを心配してくれただけだ。ラウラさんは優しい女性だから……それに」
フィリップはハンスたちに顔を背けて言った。
「あなた……ハンス先生とラウラさんの間を邪魔するつもりはない。多分」
顔を背けているフィリップには、ハンスの表情は窺えない。「俺のラウラに手を出すな」とあの腕で殴られるかもしれないと想像すると、フィリップはますますハンスの方が向けないでいた。動かないフィリップに、ハンスとマックスはただ困惑した。
しばらく、誰も何も言わない。遠くからは、子どもたちが歌う声が聞こえてくる。
「あ、あの」
やがて、戸惑った様子でハンスが口を開いた。
「俺、結婚するんです」




