第七話
「くるぶし、くるぶしって……」
執務室に戻る途中の廊下で、フィリップはウルリッヒの言葉を思い返していた。自分が婚約問題で頭を抱えていた時、ウルリッヒはくるぶしで浮かれていたのだ。フィリップは怒りを覚えた。
ふと、フィリップは孤児院への支援が進んでいないことを思い出した。
婚約などに現を抜かしている場合ではない。今は孤児たちが飢えないことが最優先だ……フィリップは歩を早めた。
通常の仕事に加え、孤児院を支援している貴族への聞き取りや、各地の現状を調査した。寝る間を惜しんで仕事に没頭するフィリップは、多忙を極めた。
ウルリッヒとキャサリンの婚礼の日が決まった頃、ようやく「孤児への救済に係る法」草案がまとまった。
フィリップが最後に孤児院を訪れてから、ふた月が過ぎようとしていた。
「久しぶりだな、フィリップ!」
少し日に焼けたマックスが、フィリップを出迎えた。
「……フィリップ様な。お前は物覚えが悪すぎるし、物忘れも激しいな」
きつい言葉とは反対に、フィリップはマックスに菓子とパンを渡す。マックスが目を輝かせて、奥に走っていく。
フィリップは久々に訪れた孤児院を見渡す。変わった様子はない。修繕された壁の穴を観察していると、笑顔のラウラが現れた。
「お久しぶりです、フィリップ様。いつも、たくさんのお土産をありがとうございます」
ラウラの笑顔も変わりはない。フィリップにも、自然と笑みが浮かぶ。ラウラは、フィリップが壁を観察していることに気づいた。
「あれほど修繕に来てくれなかった業者が、フィリップ様の一声ですぐに来てくれたんですよ」
叩いて出た埃をネチネチと責め、フィリップは半ば脅すように業者を動かしていた。しかし、これはラウラには秘密だ。
「ちょうど暇だったらしいですよ、あの業者。ところで、もう夕方ですがハンス先生は?」
仕事を終えて馬車に飛び乗った時は、もう夕方近く。せっかくラウラに会えるのに、あのハンスが帰っていると残念に思っていたフィリップは、ハンスがいないことに気がついた。
「今日は少し遠くまで呼ばれていて。最近、川が氾濫したでしょう? 橋の修復のお手伝いに」
最近降った大雨で、確か橋の一部が川に浸かってしまったのは知っている。やはり、男手が必要なのだろう。
ラウラが心配そうに窓の外を見る。先ほどまで晴れていたのに、いつの間にか空には黒い雲が掛かり始めた。
フィリップもラウラの隣に立って外を見る。
「まずいな……」
思わず声が出る。すでに、ポツリポツリと雨粒が窓を叩き始めた。急な天候の変化に、橋の修復現場は混乱しているだろう。下手すると、今夜は帰ってこれないかもしれない。
フィリップはハンスのことなどどうでも良かったが、一緒に手伝いに行っている少年たちのことが心配で仕方がなかった。
土砂降りの雨の中。
いつもより、から元気な声で子どもたちのおかわりを勧めるラウラを片目に、フィリップも相伴に預かったスープを頂いていた。
やはり、ハンスたちは帰って来ない。不安そうなラウラの隣にいてやりたいと思ったフィリップは、馬車の御者に、子どもたちの就寝時間に合わせて来るように指示して馬車を帰らせた。
そのことを伝えた時のラウラの安堵した表情を、フィリップは忘れることがないだろう。
「フィリップ様のパン、とっても柔らかくておいしいよ!」
フィリップの隣に座る女児が、パンを頬張りにっこりと笑いかけてきた。その姿に、フィリップはなぜか胸が詰まる。
「きちんとスープの野菜も食べられたら、私のパンもあげよう」
フィリップがおどけて見せると、女児はいつもは残す人参を頬張った。
『孤児院のお世話って大変でね。金銭的な管理や募金活動よりも、子どもたちとの関わり合いが大切なの』
以前聞いた、キャサリンの言葉が蘇る。フィリップは、自分のパンを欲しがる子どもたちに分け与えた。
食事が終わる頃には、雨足もだいぶ収まったようだ。フィリップは食器を片付けるラウラを手伝った。
言葉は少ないが、穏やかで静かな時間が流れる。
――私の残りの人生が、こんな時間だけだったらいいのに
フィリップは生まれて初めて、何かに追われない時間を過ごしていた。
しかし、その時間は意外な人物の声によって壊された。
「ラウラ先生!」
厨房に、モニーを抱いたマックスが飛び込んで来た。慌ててモニーを抱き止めたラウラの表情が一瞬で曇る。
「今、チビたちと一緒にモニーも寝かせようとしたんだけど……モニーが、モニーの呼吸がおかしくって!」
いつもは生意気なことばかり言っているマックスの目から、涙が溢れた。フィリップは固まって動けなかった。
モニーの額に手を当てていたラウラが、すがるような目でフィリップを見た。その瞬間、固まっていたフィリップが、何かに突き動かされた。
「すぐに、医者に来てもらおう」
「孤児院まで往診して下さるお医者様なんていません……」
小さな声で抵抗するラウラは、いつもとは違いとても小さく見える。フィリップは胸ポケットから懐中時計を出す。馬車が戻るまでまだ時間がある……。
「やだよ! 死ぬなよ、モニー! 父さんと母さんみたいじゃいかっ」
迷うフィリップの耳に、マックスの悲痛な叫び声が聞こえた。
『何年か前の疫病のせいで、孤児が増えたのです。マックスとモニーの両親もその時に亡くなりました』
ラウラの声が蘇る。その瞬間、フィリップは冷静にラウラに話し掛けた。
「……案内してくれ、ラウラさん。一刻を争う。モニーは私が抱いて行く」
ラウラがハッとする。戸惑う様子を見せたが、これが最善だと考えたのだろう。
「が、外套を持ってきます!」
ラウラがモニーをマックスに預けて厨房を飛び出して行く。モニーを抱き、声を殺して泣き続けるマックスに、フィリップは膝を折り視線を合わせた。
「よく聞け、マックス」
マックスはしゃくりあげながらも、フィリップを見た。フィリップは力強く頷いた。
「お前たちのご両親の時とは違う。モニーは私が助ける」
マックスは涙を流し続けた。フィリップは、マックスが声を殺して泣き続ける姿に胸が締め付けられた。
「大丈夫だ。でも、お前が泣いていたら、小さな子どもたちが不安になる。わかるな?」
グッと涙を飲み込み、マックスが頷いた。
「医者に行っている間、この孤児院の責任者はマックス、お前だ。私は、お前を信じているよ。きちんと皆を寝かしつけられるね。だから、お前も信じて欲しい。私が、モニーを助けるから」
マックスは、腕で涙を拭った。
フィリップは胸が痛んだ。十歳の子どもが負わされるべき責任ではない。しかも、その両親の死因となった病気に妹が冒されているのかわからないのだ。
――こんな世の中を、正しいと言えるものか!
奥歯を噛み締めるフィリップに、マックスが力強く声を掛けた。
「モニーをお願い。フィリップ様!」
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
フィリップ様……




