第六話
「お前さー、宰相に向いているっていうか、向いていないっていうか……」
ウルリッヒの応接室では、いつもの澄まし顔をしたフィリップがお茶を飲んでいた。向かいのソファーには、それを呆れた顔で見ているウルリッヒと、不気味そうに見ているキャサリンが座っている。
「お願いされていたシャーロット様の婚約の件、綺麗にまとまりましたわ」
キャサリンが言うと、フィリップは深く頭を下げた。
「向こうの公爵家もラング侯爵家の方々も、随分喜んでいらっしゃいましたよ。もちろん、シャーロット様も」
それを聞いたフィリップが、満足そうにお茶を飲んだ。外遊先の国の公爵家が、嫡男に婚約者を探している……フィリップはなぜかその情報を掴んでいたのだ。そんなフィリップに、ウルリッヒは寒気を覚えて震える。
「お前のシャーロット嬢への対応と、いつの間にか仕込んでいた『条項』の賜物だな」
フィリップは何も言わずに、出された茶菓子に手を伸ばす。香ばしい隣国の焼き菓子を味わいながら、フィリップはあの日のことを思い出していた。
あの日、胸ポケットから出した書類。それは、フィリップが作った憲法の写しだった。
「……それがどうした?」
訝しがるフリッツは、その書類をフィリップから取り上げて目を通した。
アンドレアスとロルフも、後ろからそれを覗き込む。
一度目を通したフリッツとアンドレアス、ロルフは、もう一度初めからじっくりと書類に目を通す。そして、三人は無言で見つめ合った。
「憲法39条第1項、高位貴族は婚姻に際し、家格・身分・後継問題を十分に考慮すること」
フリッツが第1項目から順に読み上げる。
「第2項、婚約の解消に際し、有責者側がはっきりしている場合は相当の慰謝料を支払うこととする……うん、確かに」
「第3項、有責の有無に争いが生じた場合、速やかに裁判所へ裁定を申し立てる……法らしいですな」
「第4項、慰謝料の額は社会通念上、相当な額とする。但し、悪質と判断された場合は増額を認める……フィリップは本当に十八歳なのか?」
感想を述べつつ、三人は読み上げた。何ひとつ、おかしい点はない。だからこそ、フィリップが婚約を断る根拠がない。
首を傾げていた三人の声は、最後の第8項で一度止まった。ニヤリとするフィリップを、フリッツは見つめていたが、やがて掠れた声で第8項を読み上げた。
「……第8項、婚約は、当人同士の意思を尊重する」
フリッツの声が止まった。
これか……三人は天を仰いだ。こんな、抜け道を作っていたとは。現役から退いた三人は、知らなかったことだった。
「お前、この婚約を予想して、この条項を加えたのか?」
アンドレアスが問うと、フィリップは涼しい顔で首を横に振った。
「いいえ。実家の為だからと、かなり年上の相手に嫁がされたり、身売りに近い婚姻が少なくないのも事実です。本人が望めば仕方のないことですが、救済の道を作るのも私どもの役目かと」
三人は無言でフィリップを見た。その視線には、呆れと感心が半分ずつ混じっていた。
「もちろん、私の場合は身売りとは違います。しかし、当人の意思と言う点に疑問が残る」
あくまで、条項に対して疑問があるから婚約は受け入れられない、フィリップはそう主張したいのだろう。
こうして、フィリップの婚約は、無理に結ばれることはなかった。フィリップが水面下で動いたため、シャーロットにより良い条件の婚約話が舞い込んだせいもあったのだが……。
「やり方はともかく、これでフィリップも、その想い合う女性と一緒になれるだろう」
ウルリッヒの言葉に、フィリップはキョトンとした。
「まだ、相手が私をどう思っているのかは知りません。考えたくないですが、仲の良い男性もいるようですし」
それを聞いて、今度はウルリッヒがキョトンとする。隣では、キャサリンと侍女が「ヒッ」と小さく悲鳴を上げた。
「私、なんだか眩暈がしてきましたわ。少し、外の空気を吸ってきます」
青い顔をしたキャサリンが、同じく青い顔をした侍女を連れて部屋から出ていった。残されたウルリッヒは、得体の知れないモノを見る目で、ただフィリップを見続けていた。
「ところで、殿下。ご公務はいかがでしたか?」
フィリップが話題を変えると、ウルリッヒの表情がパッと明るくなった。
「聞いてくれるか、フィリップ! 最終日の晩餐会で、私たちはあの国の伝統衣装を着たんだよ」
「あの国は、女性はエプロンやスカートを重ねたワンピースに木靴、男性はゆったりしたスラックスが特徴的ですね」
うんうんと嬉しそうに頷いたウルリッヒは、ふと周りを見渡した。そして、内緒だぞと言わんばかりにフィリップに顔を近づける。嫌だったが、フィリップもウルリッヒに耳を近づけた。
「キャサリンの……くるぶしが見えた」
フィリップは、いやらしい笑みを浮かべたウルリッヒから思わず距離をとった。
「なんて破廉恥な! くるぶしだなんて、あんた……!」
珍しく取り乱すフィリップを、こちらも珍しく余裕の態度を崩さないウルリッヒが嗜める。
「まあまあ、落ち着きたまえよ、フィリップ君。私もどうかと思ったが文化交流の一環だ、致し方ない」
わざとらしく大きなため息をついたウルリッヒは、何を思い出しているのかニヤニヤする。
「相手国の貴婦人はもちろん、うちの侍女たちも出していたんだよ、くるぶし。でもなぁ、思い出されるのはキャサリンのくるぶしだけなんだ」
ウルリッヒは恥ずかしげもなく言い切った。
かつて女性騎士を目指していたキャサリンを、そんな不埒な目で見るなんて……フィリップは軽蔑の目をウルリッヒに向けた。
「くるぶしなど、誰にでもある部位でしょうに」
「お前、私のくるぶしを見てみるか? きっと、想いを寄せる人とのくるぶしとは違って見えるぞ」
そう言うと靴を脱ぎ出したウルリッヒから逃げるように、フィリップは応接室を後にした。
その背中に向かって、ウルリッヒがご機嫌な声を投げかける。
「自分だけのくるぶしっていいぞー」




