第90話 軽くならないもの
記名制度は、すぐには広がらなかった。
当然だ。
名前を書くということは、
逃げ場を消すということだから。
「……記入が遅れています」
若手事務官が報告する。
「決定自体はされているのですが」
「分かっている」
レインは、淡々と答える。
判断はできる。
だが、名前は書きたくない。
それが現実だ。
午後。
現場からの報告。
> 医療配分決定者:ルカ・フェル
> 理由:目の前にいたため
短い。
だが、十分だった。
「……理由としては曖昧すぎます」
若手が言う。
「曖昧だな」
レインは頷く。
「だが、嘘ではない」
それ以上は求めない。
夜。
別の報告が届く。
> 医療配分決定者:――――
> (未記入)
空白。
判断はされている。
だが、誰が決めたかがない。
「……これでは制度になりません」
若手が言う。
「そうだな」
レインは、その紙を静かに置く。
「未記入は、差し戻す」
短い決断。
逃げは許さない。
その日から、
報告は少し遅くなる。
だが、名前は埋まり始める。
埋まるたびに、
空気が重くなる。
夕方。
ルカが、ふと呟く。
「名前を書くと、
手が止まるな」
「止まるだろう」
「現場では止まれない」
「中央では止まれる」
短い会話。
だが、意味は深い。
止まる時間がある場所では、
人は考える。
考えるほど、
重くなる。
夜。
レインが、静かに言う。
「基準は、人を軽くした」
「そうだ」
「記名は、人を重くする」
「そうだな」
彼は、少しだけ笑う。
「どちらも必要ですか」
「どちらも必要だ」
軽すぎれば、逃げる。
重すぎれば、動けない。
その間に、
制度はある。
帳簿には、
数字と、
名前が並ぶ。
どちらも、消せない。
成り上がりは、
軽くなる物語ではない。
**軽くならないものを、
抱えたまま進む物語だ。**
窓の外は静かだ。
制度の中で、
人は初めて、
自分の重さを知り始めていた。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




