ロビンソン
薄暗い室内で錦鯉が泳ぐ。数は全部で5匹。
白い体に赤い模様の紅白が1匹。白い体に赤黒模様の大正三色が1匹。黒い体に白い模様の白写りが2匹。黒い体に黄色の模様の黄写りが1匹。
名称は昨日の夜、紅葉さんに教えてもらった。
本人曰く聞きかじった中途半端な蘊蓄らしいが、そういった知識を得てから観る鯉達は一層優美に感じる。能書きを読み込んでから飲む薬の方が良く効く気がするのと同じだろうか。
「……自由だなあ」
襖の前で胡坐を組みながら、ぽつりと呟く。
襖4枚分の世界でしか存在できない鯉達が、空の色も、水の冷たさも知らない彼らだが、一切のしがらみもなく悠然に泳ぐ彼らは、ある意味で誰よりも自由に見えた。
昨日、竜宮城へ帰ってきてから随分長い時間が流れたように感じる。実際は一晩しか経っていないのだけれど。
帰ってからの皆は、優しかった。恭奈が居ないことには誰も何も言わななかったけれど。ただただ、『おかえり』と言ってくれたことが嬉しかった。僕と恭奈二人に向けた言葉だと分かるから。此処へ帰ってきてもいいと言ってくれているように思えて、嬉しかった。
恭奈は消えた。元に戻った。僕の頭の中へ還った。
元の僕に戻った、それだけ。たったそれだけの話。
「ああ、ここに居たのね」
廊下側から声をかけられる。
振り向くと、夏那さんが廊下から僕の居る座敷へと顔を覗かせ手招きをしていた。
朝食後、ずっと襖絵の前で胡坐をかいて呆けて過ごしていた僕を呼びに来てくれたらしい。
「そろそろ出ないと。ホテルのチェックアウトに間に合わないわ」
「はい、丁度恭奈にも怒られてたところです」
苦笑しながら言うと、つられてか夏那さんも僕と同じように眉を下げて微笑んだ。
*
濃い霧で視界の悪い石浜に4人と1匹の足音。
竜宮城の出入り口である洞穴へと向かう石浜。もう何度歩いただろう。
「いやあ~寂しくなるねえ」
「しつこいぞ、紅葉。何度同じことを言うんだ」
「いーん!あおくんがいーじーめーるー」
「煩いぞ」
大げさに狐耳を項垂れさせる紅葉さんを、隣を歩く青葉さんが肘でつつく。昨日の夜から何度も繰り返されるやり取り。
別れを惜しんでくれるのは嬉しいが、たしかにこう何度も言われると有難みが薄れるというか……まあ、このしつこさも彼の憎めない所なのだなと思う。
二人のやり取りも、これで見納めになるのか。
「お嬢だって寂しいでしょ~?」
前方から問いかけられる夏那さんを横目でちらりと見やる。何と答えてくれるのか、ドキリと胸が鳴った。
夏那さんはこちらを見ずに答える。
「そうね、賑やかだったのは久しぶりだし……寂しいわね」
「そうでしょ~?」
「まあ確かに、お嬢も楽しそうにしてましたね。なあ、空?」
「ワフ!」
「……からかっているの?」
言われて何故か、若干不機嫌になった夏那さんが眉間に皺をよせ、頬を膨らませながら「むう」と唸る。
可愛らしい反応にニマつく口元を隠そうと、反射で手で口を覆う。
こんな表情を見られたら何と言われるか……。
「りゅーちゃんも笑ってるじゃーん!」
「な!?」
「……ふ~ん?山雀くんも……?」
「な!や!違くて……!僕も、たのし……かったから……です…………」
気の利いた言い訳が思いつかず尻すぼみする。
余計な事を。と思いながら紅葉さんへ視線を移すと、細い目をさらに細めながら悪戯好きの子供みたいに笑っている。若干苛ついてしまったが、青葉さんに頬を引っ張られかなり痛そうにしていたので、許すことにしよう。
…………楽しい時間も、これでお終い。
僕らの怪我を癒してくれた花枯さんにもお別れを言いたかったけれど、昨日帰ってきてから姿を見ることは無かった。
青葉さん曰く、"そういう奴"らしい。少し残念だったけれど、例によってこれも"そういうもの"だと納得するしかないだろう。
2日間の間で見慣れた洞穴の前にたどり着く。暗闇で揺れる白い暖簾は、やっぱりまだ不気味だ。
「俺たちの見送りはここまでだな」
「ここから先はお嬢とお空でよろしくー!」
……ここで、お別れ。
「……お世話になりました。本当に。……恭奈も、そう言ってます」
「うむ」
「りゅーちゃん、やっちゃん!達者でねー!」
優しい笑顔で見送ってくれる二人に手を振り、暗い洞窟へと入っていく。
後ろ髪を引かれるって、こういう事だったんだなあ。なんて考えているうちに、分かれの声と波の音は遠くなって、磯の香りも感じなくなって、ただただ、顔にかかる暖簾の感触と、暗闇に響く足音だけになる。
「…………」
僕も夏那さんも、無言のまま進む。
……僕が彼女に感じる感情は、結局のところなんなんだろうか。
惹かれているのは確かだ。僕は夏那さんの事が好きだ。その"好き"が、どんな意味合いでの"好き"なのかは分からなくなってしまった。
はじめは一人の女性として惹かれているのだと思っていた。それが実際は母親や姉を求めるような、甘ったれた、子供じみたものだと気づいてからは、彼女に感じる高鳴りを素直に受け止められていない。
母親として甘えたい気持ちも、姉として頼りたい気持ちもどちらもある。ただ……これが所謂、恋などという淡い感情だと今も言えるかは微妙だ。
いずれにしても、これらの感情もあと少しで、お別れだ。
ガララと、建付けの悪い戸が開く。途端に容赦なく身体を襲う蒸し返すような熱気に、刺すような日差し。
ああ、今って、夏なんだっけ。
「あら、今日は特に暑いのね」
言いながら、夏那さんはシャツの袖を丁寧に折り返す。
足元の空の呼吸も、若干早いようだ。早く日陰になるアーケード街まで移動してしまった方がいいだろう。
東京の気温に比べればずっと過ごしやすいと感じていたが、言われてみれば確かに昨日や一昨日と比べて暑い気がする。
この夏とも、今日でお別れ。
*
時刻は午前9時30過ぎ。
ホテルでのチェックアウトを済ませ、小樽駅のホームで列車を待つ。
ホテル ニューみなと。結局、僕があのホテルに泊まることは無かった。一泊したはずの恭奈曰く『覚えていない』とのことなので、ホテルの室内がどうなっているのかも分からない。帰ってから父に旅の思い出を聞かれた時は……当たり障りのない回答をしておこう。
そもそも、観光自体が出来ていないのだから、詳細を聞かれるとかなり困るのだが。まあ、街中を歩く……もとい、走り回った時の記憶を掘り起こしてどうにか父を納得させるしかないか。
アイスコーヒーを飲んだレトロな喫茶店だとか、小樽駅から伸びる坂の先の風景だとか、小樽運河の遊歩道だとか……思い出したくない記憶が、増えた場所でもあるけれど。
ボォォォォォ――――ッ
突如、低く思い汽笛の音が響く。
もうもうと吹き出る黒煙を纏った黒い巨体が、僕らの居るホームとは逆側に現れた。
「────ッ!わ……SL……?」
目に飛び込む、C62 3の文字。SLだ。5両編成の、大型の蒸気機関車。
こんな間近で稼働しているのを見るのは初めてだ。迫力に思わず感嘆の声が漏れる。
「あらら、丁度運行日だったのね……!すすがつくから、少し避けた方がいいわ」
言われてホームの奥へと避難する。
引いて見ると、こちら側のホームでも、対面側のホームでもSLを撮影する人が大勢いるのが見えた。
足元に座っていた空も立ち上がり、少し興奮した様子だ。
「びっくりしました、こんな近くて、動いてるとこ初めてで……」
「まあ、そうよね。でもラッキーよ山雀君」
「ラッキー?」
「ええ。今は臨時で数日しか運行していないのよ」
「へえ!」
そう聞かされて、改めて黒い巨体へ視線を移す。
驚いたけれど、その迫力と存在感に素直に感動した。良かった、これで一つ、土産話を増やすことが出来た。
「でも、どうして臨時なんですか?」
「C62ニセコ号。今年で運行が終了してしまうんですって」
「そうなんですか……」
「彼にとって、今年が最後の夏なのね」
「最後の……」
なるほど、だから多くの人が最後の姿を収めようと、カメラを向けているのだろう。
こんなに大きな存在感を纏う物が終わってしまうなんて、時が止まってしまうなんて、初めて見た物なのに、少し悲しく感じた。
「……みんな、別れを惜しんでるんですね」
「そうね、貴方たちと一緒ね」
「!……そんな風に、言ってもらえて……」
「本当にそう思っているのよ。貴方みたいに関わる人もそれなりに居るのだけれど……どうしてかしらね、なんだか放っておけなかったのよね」
「不思議ね」と言いながら、夏那さんが僕をみて微笑む。
……やっぱり、奇麗だ。奇麗で、強い女性。
そんな彼女と向き合うのが急に恥ずかしくなって、顔をそらす。
「……僕はあんな風に、大きな存在にはなれないです。」
「え?」
「僕と恭奈が望んだ結果だけれど、結局元に戻ったんです。もしかしたら別の僕に変われるのかもと思ったけど……」
「…………」
「結局、僕は僕のままだ。変われなかった。弱いまま。惜しんで貰えるほど、大層な人間じゃないんです」
また大きな汽笛の音が響いた。
SLが次の駅へと向かい、蒸気の音を重ねながら去っていく。変われなかった僕を置いて、進んでいく。
「弱くなんかないわ」
「……え?」
「確かに、変わることは強いことかもしれない。でも、変わらないことは弱さじゃないと思う」
続きを聞くために、そらした顔を戻す。
琥珀色の瞳に、僕が映る。前見た時と同じ、小さな子供みたいだ。ほら、やっぱり弱い存在じゃないか。
「……弱さじゃないなら、なんなんですか?」
「変わらない事は、きっと美しいことだわ」
凛とした声で、真っすぐに伝えられる。
風が吹く。目の前の彼女の長髪が揺れ、きらきらと輝いて見えた。
「貴方たちは、美しいわ」
琥珀色の目の中の僕が、輝いてみえた。
涙が出てきて何も応えられなかったけれど、夏那さんは僕の涙が収まるまで、ずっと待ってくれていた。
「……ありがとう、ございます」
「うん」
「ずっと、僕を待ってくれてて、ありがとうございます」
「うん」
「僕、ここに来て良かったです。夏那さんに逢えて良かった」
「……そう」
「夏那さんは、僕の憧れの人です」
「!………………ありがとう」
少し、掠れた声だった。
憧れ。そうだ、憧れだ。僕が夏那さんに抱く感情の正体。最初は違った形だったかもしれないけれど。今ならはっきり言える。いろいろな形で僕は薄縹夏那に、憧れているんだ。
「私の方こそ、そんな風に言ってもらえるなんて……嬉しいわ」
そう言って夏那さんは僕へ向かって右手を差し出す。
「私も貴方に逢えて良かったわ。ありがとう、山雀くん」
僕の方から握手を求められればかっこ良かったのに。なんて思いながら、差し出された手を握る。柔らかくて、温かな手。もう一度、繋ぎたかった手。離したくないと願う、大切な手。
今度は僕らの立つホームに、電車が到着する。
僕が帰るための、空港へと向かう直通列車。扉が開くと、僕らと同じく列車を待っていた人々が乗り込んでいく。
「もう本当に、さよならなんですね」
惜しむ気持ちを気取られないように、そっと手を離す。
「それじゃあ……」
「そうね」
「空も、ありがとうな」
「ワフ!」
空の尻尾の挨拶を受けながら、列車に乗り込んだ。
もう間もなく、扉が閉まる。
「……また、会えますか?」
「…………そうね。縁が出来たから。また巡り合うかも」
夏那さんが微笑む。
そうして列車の扉が閉まり始まる。
「したっけね、山雀君。元気で!」
列車が走り出す。
窓の外で手を振る夏那さんの笑顔を、僕は忘れないと思う。
(忘れられない、経験だったよなあ……)
何もかもが理解出来ない、怪奇に溢れた2日間だった。
そう、たった2日の出来事だ。なんて衝撃的で、温かくて、濃密だっただろう。
夢だったんじゃないだろうかとも思えるけれど、渡された海色のとんぼ玉が、きっと現実だったと証明してくれる。
……恭奈が僕から離れたことも、運河での出来事も、黒い顔も。"そういうもの"で納得できる域を超えている。それでも、無理やりそう思うしかない。
恭奈は戻ったのだから。いいだろう、それで。それだけで、僕は救われたのだから。
(それで、いいよね……)
駅を経由しながら、列車は僕の帰路を進む。飛行機で海を超えれば、もう簡単には戻れない距離。
また会えるかもしれないと、夏那さんは言った。それはいつの事になるだろう。遠くない未来だといいなと思う。
会えなくても、手紙でも出せればいいのに。竜宮城の住所なんて、電話帳に載っているわけがないけれど。
もし手紙を書くとしたら、どんな書き出しにしようか。誰かに手紙を書いたことなんて無いから分からないけれど、堅苦しくなり過ぎない方がいい。
そうだな……あの映画の真似をして『お元気ですか?僕は元気です』なんて、どうだろう。
頭の中で、恭奈が笑った。
ロビンソン / スピッツ




