蛍の光
何処へ繋がっているのかも分からないまま、ただただ廃線路の上を歩く。
繋いだままの手にはお互いの汗が滲んでいるけれど、気にしないようにする。汗よりも手を放してしまう方が嫌だから。
じゃあ、2回目に逃げたのはなんで?
そう聞きたいのをずっと我慢している。言葉にしようと口を開いて、思いとどまって飲み込んで。それをもう何度繰り返しただろうか。
聞けたとしても、きっとはぐらかして答えてくれないと思う。近づくのすら恐れているのだから、仕方がない。
それに、別に今日じゃなくたっていい。いつか聞ければいい。僕たちは明日からも、一緒のはずなのだから。
「お蕎麦、美味しかった」
唐突に、恭奈がぽつりと呟いた。
「天ぷらも美味しかった」
「うん、そうだね」
「ほんとうに、美味しかったなぁ……」
初めて飴玉を舌の上で転がした時のような、そんな表情で続けて呟く。
どうやら僕に話しかけているわけではなく、遅めの昼食に対しての独り言らしい。
確かに美味しかったけれど、独り言が漏れてしまうほどだろうか。
「風が冷たくて気持ちいい」
「え?……ああ、うん。ここ、日陰になってるし夕方になって涼しくなったね」
「暑くって、たくさん汗かいた」
「……うん、たくさん走ったしね」
「太陽が眩しかった」
「…………?」
どうも要領を得ない。
全部独り言なのだろうけれど、それにしても内容に纏まりがない。
もしかしたら僕と同じように恭奈にも、何か言いたいことだとか、聞きたいことがあるのかもしれない。でも口に出せなくて、とりあえず思いつく事を話しているんじゃないだろうか。
僕の相槌はいらないらしく、恭奈は線路の向こう側を見つめながら独り言を続ける。
「遠くに見える海が奇麗だった」
「走ったら疲れて心臓が痛かった」
「怪我をして痛かった」
「布団が柔らかかった」
「畳がいい匂いだった」
────違う。
「知らない街でわくわくした」
「体を動かすのが気持ちよかった」
「包帯を巻いてもらって嬉しかった」
「一人は寂しかった」
「どうしたらいいか分からなくて不安だった」
────────違う。
違う。違う。違う。違うじゃないか。
適当に話しているんじゃないだろ。
少し考えれば分かるだろ。なんで恭奈の立場になって考えてやれないんだ。
恭奈はずっと僕がどうしたらいいか考えてくれていたじゃないか。どうして僕はそれをしてやらないんだ。
恭奈は────────
「ぜんぶね、ぜんぶ初めてだったよ」
目を開くのも、匂いを感じ取るのも、自分の口で話すもの、歩くのも、食べるのも、眠るのも、僕以外の人間に会うのも、すべてが。
世界に触れるのは初めてじゃないか。
僕と同じだけの知識を持っていても、触れるものすべてが初めてで。経験する事すべてが初めてで。
すべてが刺激的で輝いて見えて、それと同じくらい、不安で怖かったはずだ。
そんな恭奈にどうしていなくなったんだとか、戻ってきてほしいだとか身勝手な事ばかり思っていた自分が酷く無責任に感じる。
「私、人に成れてよかった」
「…………っ!」
僕にだけ聞こえる"声"。それが恭奈の正体。
本当はもっと別の存在なのかもしれないけれど、知る必要なんてない。恭奈が恭奈であれば、それでいいのだから。
そう思っていた彼女が、『人に成れてよかった』と。そう言っている。
「ありがとう、私を人にしてくれて」
恭奈が、繋いだ手に力を籠める。
「柳介のおねえちゃんにしてくれて、ありがとう」
何も応えられなかった。
話そうとすれば、泣いてしまいそうで。
ただただ、漏れ出してしまいそうな声と涙を抑えながら恭奈の声を聴いていた。
そして気がつく。自分の考える事は、恭奈に伝わるのだと。
脳内で答える。「僕こそ、ありがとう。僕と一緒にいてくれて、ありがとう」と。
「いてくれたんじゃなくて、柳介が私をいさせてくれてたんでしょ」
(そんなことない。でも、恭奈がいるのが当たり前だった。恭奈がいるから僕は僕だったんだよ)
「……そうなのかな、逆なんじゃないかな」
(両方なんだよ。僕と恭奈、二人で一人の人間、だったんだ…………)
「二人の人間になっちゃったね」
(……………………)
夏那さんに言われた"半端"だとか"壊れてしまう"という話は恭奈には伝えていない。
伝わってしまっているのかは、分からない。
壊れてしまっていいと思う。恭奈が望むのなら、このまま二人の人間でいよう。いずれ壊れてしまうのなら、それも一緒がいい。
「ふふ、逆になっちゃったね」
恭奈が笑いながら言う。
「今は私にだけ柳介の声が聞こえてる。変なの」
(……たしかに、そうだね。言われてみたらちょっと可笑しいや)
「あははっ」
(逆になっても、変わらないよ)
「……そうだね。変わらないよね。そうだよね」
自分自身に言い聞かせるように恭奈が肯定する。
その後の会話は続かない。
恭奈は何か思案してるような表情で黙っている。
僕の涙はなんとか引っ込んでいた。
さて、竜宮城へ戻ったら夏那さんに相談しなくては。どうにかして、僕と恭奈が二人の人間として生きていく術を教えてもらおう。
夏那さんは恭奈を僕に戻したがっていたけれど、きっと僕らの気持ちを分かってくれるはずだ。
……前途多難だな。一人だった人間が、どうやって二人になって帰られるんだろう。
ホテルと同様、飛行機も予約は一人分。なんとか乗れたとしても、帰ってどう父さんに説明する?そもそも、説明できるのか?
僕の脳みその中にだけいた姉が、肉体を得て人間になったんだ!などという説明をする僕を想像して、頭が痛くなる。
「あのね、柳介」
「うん?」
考え事が終わったのか、また恭奈から会話を始めた。今度は脳内じゃなく、言葉で応える。
「私ね、柳介の頭に戻るね」
「……………………え?」
「もう決めたの。いいよね」
「は?なんで?……だって、人間に成れて……嬉しいんじゃないの!?」
「嬉しくはなかったかな」
「え…………」
思わず歩みを止め、手を繋いだまま恭奈と向き合う。
嬉しくは、なかった?戻る?僕に?……どうして?
「楽しかったよ。ぜんぶキラキラして見えたし、感じた。このキラキラたちを柳介と二人で観られたらって、思ったよ」
「じゃあなんで……?」
「怖いんだもん!!」
「!?」
「ぜんぶぜんぶ、知ってるけど知らないんだもん!どうしたらいいか分からないんだもん!……柳介にだって、分かるでしょ!?」
「…………っ!!」
「信号機の見方は分かるよ。でも本当に今渡っていいのかなって、怖い。お箸の持ち方は知ってるよ。でも本当にこれで合ってるのかなって、笑われないかなって、怖い。声の出し方は知ってるよ。でも、私の声って変じゃないかなって、そう思われないかなって、怖い。ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ……怖いよぉ…………」
目の前の恭奈が肩を震わせながら、幼い子供みたいに嗚咽を漏らす。
続けて何かを話そうとしているようだけれど、喉が詰まり声になっていない。
────────嗚呼、分かってしまった。理解してしまった。
これが、違和感の正体だ。
恭奈そのものが、違和感だったんだ。
恭奈は怖がらない。恭奈は人の目なんて気にしない。恭奈は泣いたりしない。
目の前にいる姉は、恭奈だけれど、恭奈じゃない。
偽物。……では、ない。でも本物でもない。
僕の頭の中に存在していた恭奈はそこから抜け出て、肉体を得た。本来であれば、それだけの事だったはずだ。でも僕達は、その恭奈の存在を強めようと言葉で彼女をさらに肉付けた。
夏那さんは、今の僕をパーツが足りない状態だと例えた。つまるところ、恭奈は抜け落ちたパーツだ。
本来であればそのパーツを、また同じように僕に組み込めばいいだけの話だった。でも、そのパーツは加工されてしまった。
熔解され別の形へ成型されたわけではないから、同じパーツであることには変わりないけれど、それではもう元の場所には組み込めない。
機械が自ら、部品をそうしてしまった。一番大事なものを、変えてしまった。
「戻りたいよぉ……柳介の中に、帰りたい……」
嫌なくらい、すすり泣く声が頭に響く。内側から殴られているみたいだ。
「また、あんな怖い思いをしたくない……守ってよ……今度は柳介が私を守ってよ……」
恭奈は、そんなことは言わないよ。
恭奈は、恭奈は────────僕を守ってくれる、おねえちゃんなんだから。
涙で濡れた恭奈の頬が、ひび割れる。
まるでメッキが剥がれ、錆びて朽ちるように、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
首も、胴も、腕も、脚も。あちこちが虫食いみたいに穴が開いていく。穴の向こうは、真っ暗な空洞。空っぽだ。
何よりも大切な姉が形を失っていくことが、正しいことに思えた。
無理だって、本当は分かってたんだ。恭奈が人のまま生きていくのが不可能だって、分かっていた。
一つの身体。二つの思考。これが、僕たちの正しい形。
「……ごめん。ごめん恭奈」
恭奈は崩れながら泣き続ける。
「求めたり、否定したり、僕の勝手で傷つけた」
許すとは、言ってくれない。
口元が崩れてしまったから、なにも言えない。
「ごめん」
目の前には、もう何もない。
ただ、足元に元が何だったのかもわからない土塊が山になっていた。
恭奈と繋いでいたはずの右手には足元と同じ土塊と、とんぼ玉があるだけ。
「……ごめん、恭奈」
また廃線路の上を歩き出す。
もう隣を歩いてくれる相手は居ない。
「……いや、お前がいたね」
「ワフ!」
足元に愛おしい毛玉。
ずっと僕らを後ろから見守ってくれていた式神の空が、僕の横に並ぶ。
一人と一匹で歩きながら、昨日からの事を思い出す。たった一日程度の出来事。
なんて濃密で、あっという間だったんだろう。今までのどんな一日よりも……充実していた。と、思う。
意味の分からない出来事ばかりだったし、恐ろしい経験もして、思い出したくない記憶も開かれてしまった。それでも、出会った人達と過ごした一日がどんなに心を満たすものだったか。どんなに手放したくない、享受し続けたいと願うものだったか。
ずっと此処に居たいけれど……今の僕には、その資格はないだろう。
自分の意思で踏み出すことを決めた一歩だと思っていたけれど、違った。結局は誰かに導かれ受動的に動いていただけだ。
恭奈の事だって、彼女が戻りたいという彼女の願いを受け入れたと言えば聞こえが良いだけ。実際は、人として存在する彼女を、僕は否定して肉を剥ぎ取った。
そんな独りよがりで自分勝手な自分が、安寧ない場所を願う事は自分自身が許せない。許しては、いけない。
……この廃線路はどこまで続くのだろう。
これも勝手だけれど、自分の未来と線路を重ねて、何処までも続いていて欲しいと思った。
「思ったん、だけどなあ……」
果たして廃線路は、崖で途切れていた。
崖と言っても、2、3メートルほどの急斜面といった感じだ。
未来を乗せた線路が5分程度で終わってしまったことに、思わす失笑してしまった。
どうしてこんな途切れ方をしているのだろうか。
崖を下った歩道と道路を挟んだ向こう側に、同じような斜面があるから、もしかしたらそこへ繋がる橋が架かっていたのかもしれない。
「さて、どうしようか……」
呟いて、ぼうっと向こう側を眺める。
崖を下りて、先に線路が続いているかを確かめてみるのもいいかもしれない。
それか、このまま立ち止まってもうしばらく物思いに更けるでもいいか。
「…………うん。…………そうだね」
踵を返して、辿ってきた廃線路を戻る。
進むのも、立ち止まるのも選ばない。自分では、選べなかった。
頭の中に響いた『帰ろう』という声に、従うことにした。




