柳の木が揺れていた
「ぅっ……あああああああああ゛あ゛!!!!」
目前の腕は、咥内を目指していると分かっているのに、愚直に大口を開き絶叫してしまう。
さらけ出された舌をめがけ、腕の伸びる速度が加速する。
腕が近づくごとに脳内に響く音が強くなり、重なる音が、なけなしの思考を邪魔をする。
もう、駄目だ。どうしようもできない。
そもそも元から無力なのだ。
ずっと恭奈の声に従って生きてきたのだから。
恭奈が僕から離れてからの思考だって、夏那さんを追いかけようと、縋ろうとするための真似事に過ぎなかったのかもしれない。
一人では、何も出来ない。
つまるところ、僕はもう、おわり────────
「おまたせ」
凛、と。
今度は本当に、風鈴の音が聴こえた。
「────なつ、な、さん……?」
「集中して!」
「ッ!」
いつの間に追いついたのか。夏那さんが隣に立ち、僕の両手に自身の白く細い両手を重ねていた。
そうして窓の決壊した箇所、両の親指を内側へ押し込む。
冷え切っていた指先と密着した右腕に、熱いくらいの体温が移る。
「窓を戻して!」
「……は……はい!!」
痺れた唇と指先で応える。
こじ開けた穴を塞がれようとしていることに動揺したのか、目前まで迫っていた腕はシュルシュルと縮み、先程まで僕の甲を撫でていた腕達と合流し、親指を押し返そうと抵抗を始める。
しかし、腕に大した腕力は無い。抵抗空しく窓は順調に元の円形を取り戻していく。
そうして一本、また一本と黒い腕が窓の外側へと退いていき、最後に2本だけが残った。
2本の腕それぞれが僕と両親指を鷲掴み、扉をこじ開けるように力を籠める。小さな手の平なのに、先程までとは比べ物にならないくらいの力だ。
「く……っ!もう少し、頑張って……!」
夏那さんも、僕の両手の上から相当の力を加えているのが分かる。
それでも、黒い腕を押し返すことが出来ない。
あと数ミリが、閉じない。
リリリリリリリリリリリリッリリリリリリッ────────!!!!
脳内で響く音が、苛ついているような、駄々をこねるような響きに変化した。
窓の中の目は目尻を吊り上げ、僕と夏那さんを交互に睨みつける。
剥き出しの眼球の方は、窓の縁に沿って、ぐるぐるとミキサーの中身みたいに忙しなく走り回る。
二人の手が、ブルブルと震える。
閉じろ。閉じろ。閉じてくれ……!早く……!!
もう、限界だ……!!
────────ブツンッ
ゴムを千切るみたいに、僕の両親指が黒い手の平を貫いた。
同時に、バランスを崩して前方へ身体が傾く。
何が起こったのか、一瞬理解できなかった。
視界に入るのは、僕の両手首を掴む手。深緑色の髪に、その隙間から覗く白いスカーフ。
「────閉じたッ!!」
その一瞬と同じく、夏那さんが小さく叫ぶ。
何処から取り出したのか、僕から離した右手には20cm程の、細長い鉄の棒が握られていた。
先端は細く尖り、逆側の先端には白い結い紐が巻き付けられていて、房がひとつ、揺れている。
夏那さんはそれを、窓の中の目の間、顔で言うところの眉間に、躊躇なく突き刺した。
缶の炭酸飲料を開けた時のような音を立て、黒い液体が噴き出す。
苦しんでいるのか、脳内の音はぐちゃぐちゃに重なり、耳障りな不協和音となって響く。
窓の中の顔は、夏那さんの拳に隠れ、その奥でどんな表情を作り出しているのかは分からなかった。
一瞬が終わって、僕は身体を支えられずそのまま前方へ倒れる。
それでも、窓は崩さない。
「ぐう゛ぅっ……!」
受け身が取れず、窓を作ったままの両手と肘からアスファルトに飛び込む。
皮と肉が擦れ剥け、肉が削られる感覚、鈍い痛みに声が漏れた。
受け身が取れなかった理由は、僕の両手首を掴む手だ。
全体重で引っ張られたのである。
両手を封じられている僕はその場で踏ん張ることも、抗うことも出来ずに倒れこむしかなかったのだ。
カラン、と。倒れこんだ僕の耳元で金属が跳ねるような音。
身をよじりながら上半身を起こし、座ったまま手元を見ると、先程、夏那さんが突き刺した鉄の棒が窓の傍に転がっていた。
もう、窓の中には何もない。夏の日差しで熱されたアスファルトが見えるだけだ。
窓から漏れ出た液体も、脳内の音も、何事も無かったかのように全てが消えている。
唯一、鉄の棒についた白い房が真っ黒に染まっている事だけが、得体の知れないナニカが存在していた証明として残っていた。
「もう、窓を崩してもいいわ」
傍に立っているらしい夏那さんが、頭上から告げた。
それ以外は何も言わずに、気を遣うように数歩、気配が後ろに下がる。
聞いて、恐る恐る強張った両手を離し、窓を崩す。
そうして、僕の手首を掴む手を見る。
細くて、白い腕。小さく震えている。もしかしたら、震えているのは僕の方かもしれない。もしくは、両方か。
そのまま腕に沿って、視線を上げていく。
僕と同じく肘を擦り剝いているようで、痛々しく血が滲んでいる。
さらに上へ。
肩を超えて、顎、口、鼻、そして、右目の、泣きぼくろ。
「………………」
両手を自分の方へ引くと、手首を掴む手が離れる。
すかさず、今度はそれを僕が掴む。強く、掴む。
「………………捕まえた」
小さく呟く。
「もう、何処にも……いかないでよ……」
鼻の奥がツンとして、痛い。
「僕を、置いていかないでよ……」
目頭が熱くなって、視界が揺らぐ。
歪んで見えないけれど、きっと目の前の僕と同じ顔も、同じ表情をしているんだと思う。
だって僕たちは、同じなんだろう?
言葉にしなくたって、わかるんだろう?僕の想うことが。
繋がって、いるんだろう。離れていたって。
「そうだろ?……恭奈」
「ぅ……ぅう……あ…………」
耐えようとしているのか、恭奈の口から切れ切れに声が漏れる。
座ったまま、恭奈の肩を抱き寄せる。もう絶対に、離れないと心で伝えながら。
小さな肩が、僕の腕にすっぽり収まる。初めて感じる、恭奈の体温。恭奈の存在。
「……うわああああああん!!」
決壊したように、恭奈が声を上げて泣き始める。
僕も、同じように泣いた。
想いを、体温を、身体の傷の痛みを共有しながら、二人で同じだけの涙を流した。
ひとしきり泣いて後ろを振り向いたら、今までで一番優しい表情をした夏那さんがいて、その奥で柳の木が揺れていた。
そしてやっぱり、お母さんを思い出した。




