オカエ・リ
大型犬と人では、走る速度に差があり過ぎる。
ましてやあちらは式神で、こちらは運動不足の帰宅部。追いつくので精一杯だ。
また直ぐに先を行かれてまた追い付いて。それをもう3度ほど繰り返しただろうか。
まあ、正しく言うと僕の頑張りで追い付いているのではなく、空の気遣いで僕が追いつくまで待ってもらっているだけなのだが。
つまるところ、僕が足を引っ張っているのである。
空がこちらを気にかけることなく、真っすぐに恭奈を追っていれば、とっくに捕らえることが出来ているんじゃないかと思う。
「はぁっ……はぁっ…………!」
息が切れて立ち止まる僕を、60メートルほど先で空が待っている。
こうやってお互いを見失わない距離を保ってくれているのだが、たとえ追いついても呼びかけられないのが、若干気まずい。
例によって、空は僕以外には視認することが出来ないからだ。
小声で感謝の言葉を伝えても、息切れしながら走り立ち止まり、急にぼそぼそと独り言を呟いているように見えるだけ。傍から見れば不審者になってしまう。
実際、朝は寂しかった周辺にはまばらに人がいて、一人でふらふらと走る僕を横目で怪訝そうに見る人が数人いる。
ぽたぽたと顎から汗粒を落としながら空の元へ追い付く。
アイコンタクトで”大丈夫だ”と伝えると、空は立派な尻尾を揺らしながら走り出す。
チャカチャカと爪がアスファルトを蹴る音が聞こえなくなる前に、僕も行かなければ。
先を走る空が左に曲がる。その直後「ワウッ」と短い鳴き声が聞こえた。
(どうしたんだ?)
急ぎ空の元へ駆け寄ると、どうも様子が忙しない。
ギリシャ建築を想わせる柱の付いた建物の前に止まり、僕と道の先を交互に見ながら、ワウワウと何かを訴えかけている。
「もしかして────見つけたのか?」
「ウォン!」
思わず声が出てしまったが、そうとなれば人目など気にしている場合ではない。
空の様子からして、本当に恭奈の姿を捉えたらしい。
完全に見失ってしまったと思っていたが、向こうにも体力の限界があるのだろう。じわじわと距離が縮まっていたようだ。
だが、今僕らの視界に恭奈はいない。
「どこにいったんだ?!」
問われた空は、返事の代わりに恭奈が向かったのであろう方へ再度駆け出す。それを追いかけ
て直進し、木骨石造の古めかしい建物を通り過ぎる。
そのすぐ横に流れる小川に架かる橋の前に立ったところで、膝に手を突き、肩で息をする小さな背中が映った。
反射で名前を叫びそうになるが、運河での光景が脳裏を過り喉が固くなる。
理解不能な現象。
恭奈を拒絶した僕と、僕を拒絶した恭奈。
またあの目で見られるのが、怖い。
無意識に、右手の親指と人差し指で円を作っていた。
狐の窓。夏那さんに教わった、人ならざるものを見破る、おまじない。
目を閉じて、窓を顔の前へ構える。
知らないから、怖いんだ。知ろうとしないから、拒絶されるんだ。
人でも、そうでなくても、どちらでもいいんだ。僕は、恭奈がいてくれればそれでいいんだよ。それでいいはずなんだ。
受け入れるために、また僕に帰ってきてもらうために、恭奈を、教えてほしい。
そっと目を開き窓を覗き込む。
牛の眼球の解剖の授業を思い出した。
机に置かれた、人の何倍もの大きさのある眼球。グロテスクで気持ち悪いと思った。なによりも、光を失いただのモノになり果てたそれが、生々しく目前に存在している事が不快だった。
何故、今そんな事を思い出したのか。
同じような構図が、目前にあるからだ。
僕の右手の窓の向こう側から、一つの眼球がこちらを覗いている。
顔のパーツとしての”目”ではなく、人体の部位としての剝き出しの”眼球”が窓いっぱいに張り付き、ギョロギョロと緩慢に揺れている。
白目は充血していて、虹彩は角度によって黒にも、茶にも、青にも緑にも赤にも見えた。
「────────え?」
言葉にも、脳内にも、疑問符が浮かぶ。
視覚から得られる情報は『自分の指で作った直径8cm程の円いっぱいに、大きな眼球が張り付いている』である。
どうすればこれを"理解"することが出来るのか。
唯一分かる事は『絶対に窓を壊してはならない』だ。
どうして壊してはいけないのかの説明は出来ない。本能なのか、漠然とそう感じた。
────────リ……リ……
(…………音?)
思考を放棄した脳の代わりに、鋭敏になった五感の一つ、聴覚が微かに音を拾う。
その音は遠くで、不規則に、同じ音を繰り返す。
…………リリ……リ……
(…………風鈴?)
ガラスどうしが触れ合うような高い音。
嗚呼、確か、小樽は硝子の街と呼ばれていたか。店先に吊るされた風鈴が、風に揺れ音を奏でているのか。
……いや、風鈴なんて近くにあっただろうか?
ガラス細工を扱う店が近くにあるとしても、まだ開店するには早いだろう。
……リリリ……リ…………リリ……
(………………嘘だ)
ぼうっと、わざとピントを外していた手元に、意識を集中する。
そして直ぐに、そうした事を後悔した。
さっきまで焦点が合わずに揺れていた瞳孔が、真っすぐに、僕を凝視しているのを見てしまった。
その途端に、不明瞭だった音がはっきりと聞こえ出す。
いや、聞こえるんじゃない。いいや違う……聞こえてはいるのだ。
だが、耳が空気の振動を捉え、電気信号に変換され大脳が音として認識しているのでなく、只々、届いているのだ。僕の脳に。
この音が言葉なのか、意味のない発音なのか分からないが。窓の中の眼球の発する音が、僕の脳に響いている。
まるで、恭奈の声が聞こえていた時のように。
……リ………!
リリリリリリリリリリリ?!
……リリ……リリリ……!!
リリ……リ…………リ………………
…………リ!
…………リ!
リリリ・リ!




