拒絶と拒絶
「……くっ……うぅ…………」
苦悶の声を上げながら、恭奈は地面に両手を付き、身体を起こそうとしている。
黒い液体は全て蒸発しきったようで、恭奈に付着していた液体も、シミも残らず消えていた。
今この瞬間だけを切り取れば、ただ派手に転んでしまった、程度の出来事に見えるだろう。
漂う悪臭だけが、目の前で起きた怪奇の余韻として残っている。
「な……何が、なんで……?」
理解が出来ず、意味のない問が口から漏れる。
こんなの、分かるはずがない。
立ち尽くす僕と横たわる恭奈の間に、夏那さんと空が僕を庇うように並んだ。
どちらも警戒しているのが背中と、逆立つ毛で分かる。
そして、緩慢な動作で恭奈が顔を上げる。
垂れた前髪の隙間から覗く、碁石みたいに真っ黒な目は焦点が合わずに小刻みに揺れていた。だが、程なくしてついに、こちらを捉える。
恐怖。絶望。或いは悲嘆。
見開かれた目に、シワのよった眉間、わなわなと痙攣する口────恭奈から読み取れる感情は、その類だ。
ホテル前で見つめ合った時の彼女からは考えられない、人相が変わったと思ってしまうほどの、引き攣った表情だった。
直ぐに駆け寄って、抱きしめられたらどんなに良いか。
そうしたいのに、出来ない。
足を地面に縫い付けられたように、動かない。
重なった視線を通じて、恭奈の目の黒が、僕の目に染み込んでくるような気がする。
繋がっているのに、通じているのに。
────────怖い。
────────恭奈が、怖い。
頭の中で聞こえる声はいつだって明るかった。僕を引っ張ってくれる、自信に溢れた真っすぐな声だった。
だからこんなに怯えた、負の感情で煮詰まったような表情の恭奈は、考えていない。想像していない。知らない。
知らないから、怖い。
これもきっと、恭奈に伝わったのだろう。伝わって、しまったのだろう。
恭奈は何かを言いたそうに一瞬口を開いたが、直ぐに歯を食いしばるように閉じる。
そうして僕を見つめながらふらふらと立ち上がり、またしても、踵を返して走り出した。
「っ!……やす、な!」
ふり絞るように、引き止めようと名前を呼ぶが、恭奈は止まらない。
僕の足はまだ、動かない。伸ばした手は当然届くはずもなく、虚空を掴んだだけ。
そうしている間に、恭奈は散策路から抜け出し、見えなくなった。
「……大丈夫、大丈夫よ」
目前の夏那さんがなだめるような声で言いながら、恭奈が倒れていた場所へと近づき、その場にしゃがみ込む。
それから地面をざらりと撫で、確かめるように指の腹を見る。
「追えるわ。これなら追える。……条件が、痕跡がある」
先ほどの異様な現象に遭遇した後でも、夏那さんの声は凛としている。
至って冷静な態度で、淡々と状況を分析しているようで、恭奈が逃げ出したことにも動揺していない。
「残穢を追える。出来るわね、空」
「ワウッ」
言われた空が耳をピンと立ながら返事をして、待ってましたと言わんばかりに駆け出す。
恭奈が走っていった方向、散策路の端へ。
いつの間にか恭奈は見えなくなっている。
「あなたも走って!」
鶴の一声で、動かなかった僕の足は蹴られたボールのように跳ねた。
何もかも意味が分からないけれど、理解するために問答をしている場合ではない。説明不足なのはもう慣れている。
そのまま夏那さんの背中を追い越し、走り抜ける。
顔は見えなかったけれど、きっと変わらず涼しい顔をしているのだろう。
良かった。夏那さんが冷静でいてくれて。
おかげで、恭奈への恐怖を抱えたままだけれど、走り出すことが出来た。




