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もういいよ

 蒸し暑い淀んだ空気から逃げるように外へ戻る。

 夏那さんはとっくに探索を終えて、僕を待っていた。

 やっぱり、待っていてくれた。

 琥珀の瞳を見るだけで、凪ぐような清涼が心を撫でる。さっきまでの黒い何かが、消え去るような気がする。

 僕に空みたいな尻尾がついていたのなら、千切れんばかりの勢いで超回転していると思う。

 

「遅かったわね?」

「すみません、ちょっと、考え事しちゃってて」

「そう、それじゃあそっちにも居なかったのね」

「てことは、夏那さんのほうも」

「ええ、ここに隠れたわけじゃないみたい」

「それじゃあ、この奥…?」


 散策路の壁の窪み。

 かくれんぼみたいに、そこにずっとしゃがみ込んでるなんてこと……あるだろうか?


「もう見たけど、居なかったわ」

「……っえぇ!?見たって、いつの間に!?」

「私じゃなくて、空がね」

「空が?」


 ちらりと、足元の空へ視線を移す。

 利口な顔つきで主人の足元に座っている空が、舌を出して二カッと笑う。

 愛くるしい笑顔に、僕も口角を上げて応えた。


「端までひとっ走りして来てもらったの。この散策路にはお姉さんは居なかった……ますますおかしいわ」


 顎に手を当て、夏那さんはムムムと唸る。

 でもさっき彼女は、恭奈は簡単に消えるような不安定な存在ではないと言っていた。

 だから僕らは、この散策路のどこかに恭奈が隠れていると確信したんだ。が、探索を終えてその確信が揺らいでしまった。

 こうなるといよいよ、消えたとしか考えられなくなるんじゃ?

 僕も夏那さんに倣って、眉間にしわを寄せながら恭奈の行方を考えてみる。

 きっと夏那さんには、僕には思いもつかないような考えがいくつも浮かんでいるのだろうが、僕には見当もつかない。

 

「バシュンッ」


 不意に、足元から間抜けな爆発音。

 大きな毛玉がばるばると身震いしている。

 どうやら、暇になった空が植木鉢の花にいたずらをして、くしゃみをしたらしい。

 まだ気になるのか、植木鉢に鼻を突っ込んでスンスンと点検作業中だ。

 その姿を見て、思いつく。


「そうだ、空に頼めないんですか?」


 ぬん?と、名前を呼ばれた空の鼻先がこちらを向く。


「頼むって、なにを?」

「ほら、恭奈の匂いを辿る……とか」


 犬といえば、人間の何倍も優れた嗅覚だろう。

 それに空は式神なのだし。式神というのが、どういったものなのかは僕にはイマイチ分からないけれど、きっと普通の犬よりも秀でた能力があるんじゃないだろうか?

 そんな期待を込めて、提案をしてみる。


「無理ね」


 ズバッと、秒で却下されてしまった。


「空は警察犬みたいな訓練を受けていないもの。匂いを辿るとか、そういった能力は普通の飼い犬と変わらないわよ。確かに嗅覚は優れているけれど、そもそも、お姉さんの匂いが分かるものってあるのかしら?」

「…………あ」

「追うべき匂いが分からないなら、試すことも出来ないわね」


 ……秀でた能力が、あるわけでは無いのか。

 備えあれば患いなしとは言うけれど、見た目や性格だけじゃなく、体臭なんかも肉付けに関係するなんて想定できない。

 

「条件……痕跡が見つかれば出来るのだけれど」

「条件?」

「物事や事象には、必ず”きっかけ”と”始まり”があるでしょう。もしくは”終わり”。それらの余韻、爪痕、残影、残香、残穢……えにし。そういったものがあれば良いのだけれど」


 えにし。つまりえん、か。

 縁っていうのは、血縁とか、巡り合わせとか、そういったものの事だよな?


「僕と恭奈の縁……じゃ、駄目なんですか?」

「貴方達は……その、血の繋がった姉弟とは言えないでしょう。繋がりの形が曖昧で、私には難しいわ」

「私にはって事は、夏那さん以外で出来る人がいるんですか?」

「……まあ、知ってはいるわね」


 その知っている相手の顔を思い出したのか、夏那さんは苛立ったように微かに顔をしかめた。

 あまり好ましく思う人物ではないらしい。

 

「こういったことを専門にしているとは言ったけれど、万能なわけではないのよ。私達にできる方法で探すしかないの」


 夏那さんの言う”私達”の中に、僕が含まれているのかは分からないけれど、僕と恭奈の為に動いてくれることが嬉しい。

 胸の奥がジワリと温かくなって、少しくすぐったい。


 ジワリと……ジワリと、全身の毛穴から汗が滲む。

 指先が麻痺したように、ピリピリと痺れる。

 視界が歪んで焦点が合わない、音が遠のいていく。 


 ────────なん、だ?


 眩暈と金縛りに同時に襲われるような、一瞬の身体の緊張。

 その一瞬の緊張の直後、僕らの頭上の空間が、何かを()()()()()

 咀嚼したガムだとか、果物の種だとか、そういった残りカスみたいに、汚らしく吐き出されたそれは重力に逆らえず、敷き詰められた御影石の上に叩きつけられる。

 何か液体を纏っていたようで、ぐちゃりと嫌な音が鳴り、黒い玉虫色の光沢のある液体がねっとりと辺りに飛び散った。

 飛び散った液体は、フツフツと沸騰したように泡立ちながら、蒸発して消えていく。

 その周辺に、魚のような生臭い悪臭が広がった。

 ぐえっ。と、潰れた短い悲鳴を上げたそれは、衝撃に悶えながら、その場で身をよじらせている。

 

 自由になった目が、異様な光景に釘付けになる。

 耳が、微かな呻き声を拾う。

 鼻が、広がる悪臭を吸い込む。

 口が、目の前でうずくまるものの名前を呟く。


 僕は、吐き出されたそれの名前を知っている。


「──────────恭奈」

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