もういいかい
レトロチックな景観整備の施された道。
左手の運河の対岸には、大正を思わせるレンガ造りの倉庫群が並ぶ。
小樽運河散策路。運河に沿って整備された遊歩道だ。
僕らのいる中央橋を挟んで、左右それぞれに伸びている。
坂を下りきった、横断歩道を渡ってすぐ右にあるスロープと、夏那さんが指さした階段は、どうやら繋がっているようだ。
全力疾走後の息切れと、空のベロ責めで気がつかなかった。
「消えてしまったのではないのなら……此処だと思うのだけれど、どうかしら?」
「……そうか!階段を下りて、隠れたんだ!」
「お姉さんとは少し距離があったから、消えてしまったように感じても不思議じゃないわよね」
階段を下りながら、夏那さんは岩壁をざらりと撫でる。
なるほど、散策路は道路よりも2メートルほど高低差がある。岩壁から身を乗り出して覗き込まない限りは、人が隠れていることに気がつけないだろう。
「でも……誰も、いませんよ」
300メートル程続く散策路の先を見据える。小樽を代表するランドマークの一つ。日が高くなれば多くの人で賑わう場所なのだろうが、まだこの時間では誰もいない。
隠れられるような場所は……道路側に設置されている公衆トイレと、同じく道路側にある、ベンチを置くための壁の窪みくらいだ。
窪みと言っても、壁にべったりとくっついて身をかがめれば、まあ隠れられるだろう程度の空間。相当焦っていない限りは、身を潜める場所として選ばれないだろう。
隠れることを諦めて、再び逃げる選択をしたとしても、この長い一本道を走り抜けるだけの時間は無かったはず。
つまり、都合よく追跡者に気がつかれず身を潜められたとしても、見つかるのは時間の問題だということを、承知で隠れ続けているということだ。
────恭奈は、僕らのすぐ近くに居る。
此処から道の終わりまで、隠れられそうな場所を探せば見つかるはず。
夏那さんも同じことを考えているらしい。
無言で頷きあって、散策路を進み始める。
先ずは、公衆トイレ。
よく公園に設置されているような、こじんまりとした作りで、景観に合わせた石造りのデザインだ。入り口は男女で分かれて2か所。
見張りを空に任せて、僕と夏那さんでそれぞれの入口から薄暗い室内へ。
白いタイルの壁に囲まれた、それほど広くない空間に人の気配はない。
個室の扉を開いてみても、虫の死骸がいくつか落ちているだけで、やっぱり誰もいない。
扉を戻して、ほんの小さな落胆の混じったため息をつく。
そうして、またしても肩透かしを食らった事に、落胆と同じくらいの苛立ちを覚える。
こちらが油断すると現れて、探せば会えないなんて、意地悪をされている気分だ。
外に出ようと振り返ると、手洗い場の壁につけられた少し汚れた鏡に映った自分と目が合う。
白いくすみの向こうで、しょぼくれた表情の僕が立ち尽くしている。
見ていると、恭奈への思いがふつふつと込み上げてくる。
やっぱり、恭奈に拒絶されたのがショックみたいだ。一人になってじわじわと自覚する。
どうして、逃げ出したんだ。
離れ離れになって、心細くはなかったのか?
僕に、会いたくはなかったのか?
じわじわと、じわじわと。自覚した瞬間、黒いなにかが体の真ん中から染み出してくるような気がする。支配されそうで、怖い。
この程度の不安なんて、いつもだったら恭奈があっけらかんとした声で吹き飛ばしてくれるのに。
一人の方がずっと生きやすいだなんて思ってしまったけれど、それは結局、他者との関り合いに限ったことだった。
恭奈がいないと、自分自身の心の安寧を保つ事も出来ないのか。
誰かに傍にいてほしい。安心したい。
やっぱり、一人は駄目だ。狭くて暗い場所ではとくに。
トイレのすえた臭いもあの場所に似ていて、余計に9年前のあの事を思い出す。
…………駄目だ。こんなこと、考えてる暇なんてない。
未練たらしく姉への不満を募らせるくらいなら、どうすれば取り戻せるのかを考えるべきだ。
うじうじしていたら、また夏那さんに眉間を突かれてしまう。
”語って肉づける”という行為が、今の恭奈にも影響するかは分からないけれど、最後のあがきで試してみてもいいだろう。
そうであっていて欲しいと願望を込めて、呟く。
「僕は、恭奈が大事だよ。恭奈も、僕が大事だ」
泣いた後みたいな、かすれた声だった。




