必然邂逅
時間が止まっている。
竜宮城のように、景色がモノクロになった気がする。
目の前で風に揺られる肩にかかるほどの、僕と同じ深緑色の髪だけが妙に輝いて見えた。
息や心臓が、止まるんじゃないかと思っていた。
昨日、ホテルのフロントで呼び出そうとしたときには、あんなにも息苦しくて、あんなにも心臓が走ったのだから、きっと対面を果たした時には、映画のように、とんでもない感動が待っているのだろうと。
そう、思っていたのに。実際の僕は至って冷静だった。
血の気が引いたとか、驚いて固まってしまったとか、そういうわけでは無くて。ただただ、凪のように。
通学路の脇に咲いた花を見つけた時だとか。空に浮かんだ雲が、動物に見える気がした時だとか。鏡を見て、ちょっと前髪が伸びてきたなと思う時だとか。
まるで『何でもない日常と遭遇した』だけ。
離れてからあんなにも不安で、恋しかった姉との初めての対面なのに、それくらい僕の心は静かだった。
今までずっと、9年間、声だけだった姉。
姿を想像した事なんて無かった。最初からそうだったのだから、それが当たり前だった。
昨日、4人で恭奈の話をした。想像だけれど。
どんな容姿だと思うか、と聞かれて僕は、双子みたいにそっくりだったら面白いな。なんて言ったっけ。
それと、自分と同じものがあると嬉しいとも。
……本当に、そっくりになっていた。右目にある泣きぼくろまで。
恰好はデニムのミニスカートに、白いキャミソールとスカーフ。まるで僕が女ものの服を着ているみたいで、ちょっと変な気分だ。
ああ、でも、サンダルのヒール分を抜いても、僕よりも身長が少し低いみたいだ。身体つきも男の僕に比べたら華奢だし、まつ毛が少し長い気がするなあ。
などと考えながらどのくらいの時間がたっただろう。多分、数十秒だと思うけれど。随分と長く、見つめあった気がする。
見つめあっているだけで、僕の気持ちが恭奈に伝わった気がした。
僕の考えていることなら、ずっと僕の頭の中にいた恭奈にはお見通しなんじゃないか?
帰ろう、恭奈。帰ってきてほしい。
──────────寂しいよ。
そう、心で思った瞬間、警戒した野良猫のような表情だった恭奈の眉が吊り上がった。
言葉はないけれど、明らかに、怒っている。
「…………恭奈?」
「─────ッ!」
小さく呼びかけた瞬間、恭奈の身体が跳ね上がって─────走り出した。
「………………え?」
踵を返して走り出した恭奈の背中が、みるみるうちに小さくなっていく。
逃げた?全速力で逃げられている?何故?
なんで、逃げるんだよ?
予想外だった。
あんなに想像したのに、どんな見た目だとか、どんな性格だとか、それが恭奈を肉づける事になるからと。
こんな風に拒否されるなんて、考えていなかったのに。
恭奈は、僕と同じ気持ちじゃなかったのか?
僕と離れ離れになって、不安じゃなかった?
「追いかけて!!」
「っ!」
後方からの鋭い声で、反射的に僕は走り出した。
夏那さんと空も、同じく走って僕を追いかけているみたいだ。
そうだ、呆けている場合などではない。追いかけなければ。兎にも角にも、だ。
そうしなければ始まらない。むしろ、終わってしまうかもしれないのだから。
*
果たして僕たちは、恭奈を見失ってしまった。
「ハァッ……ハァッ……ゲホッ…………」
「……真っすぐ下って行ったはずだけれど……見失ってしまったわね」
下り坂とは言え、かなりの距離を走ったというのに、夏那さんは余裕そうに髪を整えながらあたりを見回す。
対する僕は膝に手をつき、肩で息をするのに精一杯で相槌を打つ余裕もない。
早く、早く息を整えなければ。早く恭奈を探さなければ。
必死に酸素を取り込もうとしても、焦っているからなのかゼエゼエと荒い息遣いになるばかりで、上手く呼吸ができない。
帰宅部でほぼ運動なんてしない生活を、こんな所で後悔することになるなんて。まあ、元々身体を動かすこと自体が好きじゃないし、極力、人との関りを自ら避けていたのだから自業自得か。
「ワウッ」
不意に、空が一つ小さく吠えて、僕の膝に前足を乗せ立ち上がり、ベロリと、顎から鼻先を舐め上げた。
「うああぁ……」
舌の生暖かさと、ぺっとりと顔に残るヨダレの感触に情けのない声が出る。
通常であればこれも微笑ましい行動に感じるのかもしれないが、申し訳ないけれど現状では不快さが勝っている……。
僕の情けない悲鳴などお構いなしに、ベロベロと空は鼻先を舐め続ける。
「うん……うん……もういいよ空、十分だから……介抱ありがとな……」
言いながら片手で首を撫でてやると、ようやくベロ責めから解放された。
膝から降りた空は、尻尾をゆらゆらと揺らしながらニコニコ顔でこちらを見上げている。
……犬って、愛嬌だけで何でも許されてズルくないか?
まあおかげで、少し冷静になって、呼吸が整いつつあった。
「……おかしいわよね」
「逃げたことがですか?」
ぽつりと呟いた夏那さんに、シャツの裾で汗とヨダレをぬぐいながら、酸素不足の脳で答える。
「違うわ。見失ってしまったのが変なのよ」
「……?」
「私たち、中央通りを真っすぐ下ってきたでしょう。お姉さんが運河に突き当たって、左右どちらかに曲がったとしても、見失うのは変だわ」
言われて、眼前の水路がテレビや雑誌で見た、あの小樽運河だということに気が付いた。
穏やかな水面に、周りの石造りの建物が映りゆらゆらと揺れている。足元の石畳と、運河に沿って並ぶガス灯が創り出すノスタルジックな景色が、此処が情緒あふれる北の街だと言うことを思いださせる。
そうして、夏那さんの言うおかしさに気が付く。
ここは長い坂道の終わりの交差点。運河を跨ぐ橋と交わって十字路になっていて、いずれの方向も見渡しがよく奥まで続く道が見える。
恭奈が運河を突っ切って直進したとしても、運河に沿って左右へ曲がったとしても、前を走る背中をすぐに見失ってしまうことはないだろう。
まあ実際、見失ってしまっているのだが。
「消えちゃった、とか……?」
霧のように、跡形もなく。
霧散して、僕たちの目には見えなくなってしまったんじゃ?
「いえ、それはないと思う。あなたも私も空も、お姉さんを見た。認識した。」
夏那さんが凛とした声で否定する。
「完全……といえるほど肉体を得ていたわ。簡単に消えてしまうような不安定な存在じゃなかったと思う」
「……消えたんじゃないなら、何処に?」
「隠れたのよ」
「それこそ、何処に……」
答える代わりに、夏那さんが運河の岩壁を指さす。
「多分、此処ね」
意味が分からなかったが、聞くよりも自分で確かめるのが早いだろう。
彼女の指し示す方へ向かってみる。
「…………あ!」
なるほどと、納得の声が漏れる。
階段があるのだ。橋から伸びる石造りの昇降口。
そこを降りた先に、御影石を敷き詰めた、まるで別の時代へ繋がっているような道が、運河の真横に伸びていた。




