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第89話 大学三年生 夏10 yui

  結衣 yui


 8月末。


 私は玲香といっしょに、彼女のお父さんの家に向かっていた。


 玲香のお父さんの居場所は、私たちの家から、そう遠くはなかった。

 在来線を乗り継いで、1時間半くらい。

 駅からさらに歩いて20分くらい。

 合計、2時間くらいで、玲香のお父さんの家までたどり着いた。


 古くも新しくもない、2階建ての木造アパートの1階だった。

 日当たりが悪いせいか、じめじめしていて、廊下はところどころ、かびが生えている。


 各部屋のドアの脇に、洗濯機が置いてある。

 どの洗濯機も砂埃にまみれていて、きれいじゃないなあと思いながら、廊下を歩いた。


 道路から入って、一番奥の部屋。

 「藤原」という表札が出ていた。

 確かに玲香のお父さんの部屋だと確信できた。


 ここだけ洗濯機がきれいだった。

 玲香もきれい好きだから、お父さんもそうなのかな。

 やっぱり親子なんだなと、まだ会ってもないのに勝手にそう思いながら、玲香の顔を覗き込むと、玲香もなぜか私の顔を覗き込んできた。


 玲香は鳩が豆鉄砲を食らったみたいな、いつもの顔で私を見上げていた。


「ん?」


 私が声をだすと、玲香がにこっと笑ってきた。


「どゆこと」

「結衣ちゃん、押して」


 玲香は私にインターホンを押せと言ってきた。


「おまえさんのお父さんの家でしょうが」


 玲香はにこにこしながら、私の顔を見てくる。


「わ」


 私は玲香の腕を掴んで、彼女の指でインターホンを押させた。


 玲香が逃げようとして、私の腕を引っ張る。

 力弱いな、こいつと思って、私は笑って引っ張り返す。


「あっ」


 悲鳴をあげる玲香を抱きかかえるようにして、逃さないようにドアの前に無理やり立たせる。

 わちゃわちゃやっていると、足音のようなものが聞こえて、ドアが開いた。


 出てきた男性と目が合った。


 親子という先入観があるせいか、玲香と雰囲気が似ているなと思った。

 男性は小綺麗だけど痩せていて、青白い顔をしていた。


 男性は私が抱きかかえている女に視線を移すと、


「玲香か?」


 と、言葉を発した。


「はい」


 玲香が短く応じた。


 玲香のお父さんは、うれしいんだか、びっくりしたんだかっていう、なんとも言えない顔をして、娘を抱きかかえている私に笑いかけてきた。


 ◇


 お父さんにどうぞと案内されて、部屋にあがる。


 玲香が私を先に行かせようとするので、背中を押して前を歩かせる。


 狭い玄関で、玲香が靴を脱いで、廊下にあがっていくのを、私も靴を脱いで追いかける。

 外の洗濯機といっしょで、お父さんの部屋はきれいだった。


 お父さんがベッドに腰かけ、玲香が壁に寄せてあるテーブルとセットの椅子になにも言わずに腰かけたので、私は椅子取りゲームの敗者になってしまった。


 居場所なく、部屋の入口に立っている私を、親子揃って無言で見つめてくる。


 私が苦笑いしていると、玲香が椅子を半分開けてきたので、肩を寄せ合ってひとつの椅子を共有することにした。

 玲香が椅子の上で私と押しあって、お父さんの顔を見ないでいると、


「お父さんのことわかる?」


 と、お父さんのほうから声をかけてきた。


 玲香は恥ずかしそうな顔で私を見てから、お父さんのほうを向いて小さく頷くと、


「なんとなく、お父さんだなってすぐわかった」


 と、小さな声で応じた。


 玲香は鞄から封書を取りだして、お父さんに渡そうとする。


 ベッドから身を乗り出して、封書を受け取ると、お父さんはすぐに意味がわかったみたいだった。


「そこに住所が書いてあったから来てみた」


 玲香が言うと、


「ああ、これね。娘くらいしか親族はいないけど、伝えてくれて構わないって言っといたからかなあ。放っておいてくれていいよ。お父さん、病気になっちゃってさ」


 お父さんはあっけらかんと、そんなことを言った。

 こういうとこ、ちょっと玲香に似てるなと私は思わされた。


「玲香が生まれる前に、うちの両親はどっちも亡くなっているから、兄弟もいないし、頼れる人もいなくてねえ」

「知らなかった」

「お母さん、なにも言ってなかった?」


 お母さんというワードに玲香がにやっとした。


「お父さんの話とか、聞いたことないよ」


 お父さんが、ははっと笑った。


「それもそうかあ」

「そうだよ」


 玲香も笑った。


「お母さん、不倫相手の男と再婚したでしょ」

「え、よく知ってるね」

「お義母さんが教えてくれたんだよ。いつでも玲香と会わせる約束だったのに、連絡がつかないからさ。実家に行ったら、そこで。お義父さんも勘当だって怒ってるから、もうあなたも来ないでほしいって言われて」

「離婚調停が終わったら、あの人すぐに、三上さんのところに行ったよ」


 お父さんはそれを聞くと、悪臭に耐えられないという顔をした。

 玲香がふふっと笑うと、お父さんも笑って続ける。


「ひどい話だよねえ。お義母さんもお義母さんなんだけど。あの人たち、変わってるからさ」


 玲香はすっかり、いつもの顔で笑っていた。

 最初は緊張していたけど、言葉を交わしてリラックスできたみたいだった。


「聞くまでもない話かもしれないんだけどさ。お母さんと、どうして離婚することになったの?」

「そりゃ、不倫以外ないでしょうよ。旦那と娘を置いて、ある日突然、不倫相手のところに蒸発する人だよ?」


 玲香がうはって笑った。


「それもあるけど、借金のせいかと思ってた」

「え、借金なんてあったの?」

「あれ? 知らなかった?」

「口座にお金、全然なかったのは知ってるけど。俺、どうやってこっから生きていけばいいのって思ったもん」


 玲香が笑うと、お父さんも笑うから、私もつられて笑ってしまった。


「だから、蒸発しようとしたのかなあ」


 お父さんは腑に落ちたように言う。


「どうなんだろうね。あの人、いまでも借金あるよ。だから、ずっと忙しく働いてる。なんか、お金の管理とかできない人みたい」

「ああ。ちょっとわかるなあ。いつもお金ないって言ってたもん。親子三人暮らしで、どうやったらそんなにお金ないことになるのって、いつも思ってた」

「言ってあげてよ」


 玲香が苦笑しながら言う。


「幸せだったからねえ。家で玲香とゲームしたりして、いっしょに遊ぶだけでもさ」

「お母さんね、ギャンブル好きなんだよ」

「え、そうなの?」

「お父さんには内緒だからって言って、昼間によく私を連れて行ってた」

「なんかもう、めちゃくちゃだねえ」

「最近はやってないと思うけどね。お金ないから」


 お父さんも、笑うしかないみたいだった。


「でも、玲香がこんなに大きくなるまで育ててくれたから、母親として、やることはやってくれたのかな」


 玲香は、少し考えるように黙ってから口を開いた。


「あんまり育てられたって気はしないかな。あの人、私に興味ないっていうか、なにも言ってこないから」

「それね、あの人のポリシーなんだよ」


 お父さんは玲香の言葉に、即答した。


「ポリシー?」


 不思議そうな玲香に、お父さんは説明する。


「あの人のお母さん、玲香からしたらおばあちゃんか。おばあちゃんが厳しい人だったみたいで、なんでもかんでも口うるさく怒られて育ったから、自分の娘にはそういうことはしないようにしたいって言ってたよ。俺もあんまり娘のやることに干渉するなって怒られたことあるし」


 玲香は納得いかないような顔をしていた。

 私も、不干渉というより、あの態度はもはや無関心に見えても仕方ないなと思う。


 玲香のお母さんって、極端な人だなと思った。


「ちょっと変わってるよね」


 お父さんが言うと、玲香がふっと吹き出した。


「旦那のほうはどうだったの?」


 お父さんの質問に、玲香は呆れたような顔をした。


「あの人こそ、なにも言ってこないよ。あの人はね、私たちの家族を壊した人だから。その負い目があるんだかなんだか知らないけど、私とお母さんの会話には一切立ち入らないし、聞いてないふりするし、お母さんも意見を求めたりしないから、私についてなにか言ってるのとか聞いたことないよ」


 玲香の話を聞いて、お父さんはどういう家庭環境か察したみたいだった。


「暴力とかないし、愛想もいいから、外から見たら普通の家にしか見えないと思うけどね。私も家族なんて、こんなもんかってずっと思ってたし。どっちも働いていて忙しいから、しょうがないよなって思ってた」


 そこまで話して、玲香は椅子をシェアしている私の顔を見てきた。


「結衣ちゃんの家族を見てたら、だんだん、うちの家族っておかしかったなって思えてきたんだよ」


 私はそんなことより、顔が近いなと思っていた。

 そして、玲香の体温が高すぎて、身体の半分が熱いなと思いはじめていた。

 玲香は興奮したのか汗ばんでいて、私まで身体の半分に汗をかいてきていた。


 私は立ちあがって、お行儀悪くテーブルに少しだけお尻を預けてもたれかかる。

 玲香が椅子を独り占めして、私のふとももをぽんぽんと叩く。


「この子、結衣ちゃんね。言い忘れてたけど。私、東京でこの子とふたり暮らししてるんだ」


 そこで、私はまだ自己紹介もしていなかったことに気づかされた。


 ◇


 私にはわからない親子の思い出話が続いて、やがてお父さんの離婚してからの人生の話がはじまった。


 娘がいるのに、新しい家族を作ろうという気にもなれず、会社員として働いていたけれど、どうにも体調が悪いことが続いて、検査してみたら病気がわかったということらしい。


「玲香も、ちゃんと健康診断とか受けるんだよ」


 そんなことを言いながら、お父さんは笑っていた。


 もう日が暮れはじめていた。


「そろそろ、帰ろうか、結衣ちゃん」


 玲香がそう切り出した。


「もうこんな時間か。あっという間だねえ」


 お父さんも、ベッドの上の時計を見て言う。


「ねえ、お父さん。ひとつだけ聞いてもいい?」


 お父さんが頷くと、玲香が訊ねる。


「お父さんはさ。私を引き取ろうと思わなかったの?」

「ああ」


 お父さんは思い出すように言う。


「お父さんさ。親がいなかったでしょ。死んじゃってて。お金もなかったしさ。お母さんが使っちゃってたから。仮に玲香を引き取ったとしても、仕事でほとんど家を空けないといけないから、現実的に面倒を見れないと思ったんだよ」

「そっか」


 玲香は納得している様子ではあった。


「不倫はともかく、母親としてはそれなりにやってくれてたと思っていたから。それに、お母さんの実家はさ、資産家だし、裕福だから。親なんだし、いざとなったら娘と孫を助けるだろうって思って。だから、経済的な心配もしなくていいし、お母さんが働いたとしても、おじいちゃん、おばあちゃんが面倒見てくれるだろうから、玲香にとっても、そのほうが幸せかなって思ったんだよ」


 玲香は唇を尖らせながら、聞いていた。

 なにか言いたそうだった。

 お父さんが話し終わるのを待って、玲香は口を開いた。


「お母さん、私を引き取りたくなかったって言ってた」

「そんなこと言うの。信じられないねえ」


 お父さんは、眉をひそめながら言う。

 玲香は、にやっとしていた。


「確かに嫌がってはいたよ。いまにして思えば、不倫相手のところに身軽な状態で行きたかったんだろうね」


 玲香はああっと声をもらして、腑に落ちた様子をみせた。


「嫌だって言うなら、俺が引き取るから、その代わり慰謝料を払ってくれって言ったら、引き取りますって態度を豹変させたんだよ。離婚調停でやってたのはそういうこと。調停の内容を書いた文書。俺、いまでも持ってるよ」


 玲香は声を出して笑いながら言う。


「別に見なくてもいいかな、それは。生々しいし」


 それから、少しだけ、玲香とお父さんは見つめ合っていた。

 やがて、玲香が口を開いた。


「お父さん。私さ、それでも、お父さんといっしょがよかったかも」


 お父さんは目に涙を浮かべていた。


「親権、争ったらよかったかなあ」


 私はそのときのお父さんの心情に思いを馳せていた。

 そうは言っても、難しかったのかなと思えた。

 すべての結末を知った上でなら、引き取ってあげてほしかったなと言えるけれども。


「お父さん、連絡先教えてよ。たまにLIMEで女子大生の日常生活、共有してあげる。LIMEとかやってる?」

「やってるよ。お父さんそういうのはじめるの、早かったんだよねえ。オタクだったからさ」


 ふたりが連絡先を交換する様子を、私は微笑ましい気持ちで眺めていた。


「私、大学卒業できるかわかんないんだけどさ。そのうち、時間ができたらいっしょにゲームとかしようよ」


 玲香がそう誘うと、お父さんは笑いながら、


「『ほぼ、逝きかけ』みたいなもんだからさあ。生きてるかわかんないよ」


 と、ブラックジョークを飛ばしてきた。


 ふたりは、げらげら笑っていたけど、私は不謹慎すぎて笑えなかった。


 そういうところも、玲香とよく似ているなと、私は思った。

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