第87話 大学三年生 夏8 reika
玲香 reika
神山結衣という女の子が、私のことを愛してくれていると、そのとき、私は疑うことができなかった。
結衣ちゃんという人は、お花に水をあげるように、長い時間をかけて、小さな愛情をずっと私に注ぎ続けてくれていたのだと、そのとき、気がついたから。
毎朝の「おはよう」や、帰ってきたときの「おかえり」、寝る前の「おやすみ」の挨拶も、いつも作ってくれたおいしいお料理も、毎日ふたりで囲んだ食卓も、寝る前のおしゃべりも、ぜんぶ、結衣ちゃんから私への愛だったんだ。
きっと、いきなり大きな愛情をぶつけられていたら、私は逃げ出していたと思う。
神山結衣という人は、そうやって私が怯えてしまわないように、やさしく、そっと私に寄り添って、ゆっくりと愛情を注いでくれていた、そんな女の子だったように思う。
少しずつ注いでくれていた愛情は、私の心をいつの間にかいっぱいに満たしていて、疑いようのないくらい大きな愛情として、私を包みこんでいた。
結衣ちゃんの腕に抱かれながら、私は見ないふりしていたその事実を、ようやく受け入れることができた。
受け入れなければおかしいと思えるほど、その事実が、厳然と私の前に立ちふさがっているのを感じた。
結衣ちゃんの愛情を受け入れたら、涙がどんどんあふれてきて、私は小さな子どもみたいに、わんわん泣き出してしまった。
いままで見ないふりしてきた、感情がいっせいに押し寄せてきたみたいで、心の中がぐちゃぐちゃになった。
結衣ちゃんはそんな私を、ぎゅうっと力いっぱい抱きしめてくれた。
結衣ちゃんの匂い。
結衣ちゃんの体温。
結衣ちゃんの柔らかさ。
結衣ちゃんの力強さ。
ぜんぶが、私を安心させてくれた。
ぐちゃぐちゃだった心が溶かされて、再構築されていくみたいだった。
いつの間にか、私も結衣ちゃんを精いっぱいの力で抱きしめていた。
結衣ちゃんと、このままくっついて、ひとつになりたい気持ちだった。
この人のことが、心から大好きだったと気づいたから。
◇
どのくらいの時間、抱き合っていたのか。
私が泣き止むまで、結衣ちゃんは私の背中をゆっくりとさすってくれていた。
ようやく気持ちが落ち着いた私が腕の力を緩めると、結衣ちゃんも腕の力を緩めて、私たちは、またふたつの生命体の姿に戻った。
結衣ちゃんの上着が、私の涙と鼻水でびっしゃびしゃになっていて、私はそれを指さして笑った。
「着替え、駅に置いてきちゃったよ」
結衣ちゃんも、そう言いながら、笑っていた。
◇
「私さ、高校時代のバイト先に行くために、この町に帰ってきたんだよね」
「どうしてまた?」
「店長に会いたくてさ。相談したいことがあったから」
スマホを破壊してしまったせいで、店長の連絡先がわからなくなってしまっていた。
知っていたとしても、連絡なんてできずに、結局、直接会いに行った気もするけれども。
「私じゃだめなんだ」
結衣ちゃんが、不満顔で言う。
私は慌てて否定しようとする。
「私の家のことで、結衣ちゃんに迷惑かけたくないと思って。店長なら、なにかいいアドバイスがいただけるような気もしたし。私は社会で生きていくために必要なことを、ぜんぶ、あの人から教わってきたから」
結衣ちゃんは納得していない表情で、私の顔を覗き込んでくる。
「だけど、よりによって、家族旅行とかで、店長いなかったんだよね」
たぶん、奥さんとよりを戻したのかな。
あるいは、息子さんとの旅行を許してもらえたのかな。
あの人のことだから、別の家庭を築いたとかではないと思うし。
養育費を払い続けてくれる男のかっこよさに、奥さんが気づいてくれたのかもしれないな。
「じゃあ、私に相談してよ」
私がひとりでにやにやしていると、結衣ちゃんが腕を掴んでゆすってきた。
「はい」
私がそう返事をすると、結衣ちゃんが手を離してくれた。
私は自分の鞄から、一通の封書を取りだしてみせる。
「手紙、ではないね」
封書を受け取った結衣ちゃんが、物珍しそうに見ながら言う。
「お父さんの居場所が書いてある。読んでもいいよ」
結衣ちゃんが、封書の中身を取りだして読みはじめる。
「生活保護……」
結衣ちゃんがつぶやくと、私は自分で調べたことを説明する。
「扶養照会通知っていうんだって。お父さんが生活保護を申請したから、扶養する意思があるのかどうか、親族に確認するための書面みたい」
結衣ちゃんは、書類を封筒に戻してから私の顔を見て言う。
「お父さんに会いに行くべきかどうか、相談しようと思ったってことだよね」
「さすが、結衣ちゃんだね」
私が言うと、結衣ちゃんは苦笑いのような顔を浮かべてみせた。
私は結衣ちゃんから封書を受け取り、大きく息を吸い込みながら、鞄にしまう。
ふうっと息を吐くと、結衣ちゃんがまじめな顔をして、私に言う。
「玲香はどう思っているの?」
「ん。放っておこうかなって」
「え」
結衣ちゃんは、信じられないという顔をしていた。
「いまさら会ったところで、がっかりするだけなのかなって。お父さんが、私のことを大切に思っているなら、いまのいままで、連絡のひとつも寄越さなかったのは、変な話だから。向こうも忘れているのかもしれないし。忘れたいのかもしれないし。どんな生活しているのかもわからないし。会っても迷惑かなって」
離婚したあとも、養育費を支払いながら、別れた奥さんと決めたルールに従って、子どもと面会していた店長とは違うんだ。
そんなことを思いながら、静かに海を眺めていると、結衣ちゃんが私の手を握った。
結衣ちゃんの手は、柔らかくて、ひんやりしていた。
「自分の娘のこと、忘れるってないと思うよ」
私は結衣ちゃんの真剣な顔を覗き込む。
「玲香だって、まだ小さかったのに、憶えているでしょう?」
「憶えているのは名前と、ぼんやりしたイメージだけだよ。いっしょにゲームを遊んだ記憶もあるけどね」
「それを人は『憶えている』って言うんだよ」
「はい」
私の反応がおもしろかったのか、結衣ちゃんが、ふふっと笑った。
さすがに、8年間もいっしょに暮らしていて、憶えてないってことはないか。
忘れていると、憶えているは、微妙に違う気もするけれども。
「私といっしょに会いに行こうよ、玲香」
想像していなかった提案に、私は面食らった。
「ひとりじゃ、不安なのかなって」
「不安ってわけじゃないんだけど」
「じゃないけど?」
私はその質問の答えが自分でもわからなかった。
否定しておいて、自分の気持ちが、よくわからなかった。
私は冷静に考えてみた。
そして、ひとつの結論を見出して、結衣ちゃんに伝えた。
「結衣ちゃんとなら、いい思い出のひとつにはなりそうかな」
それを聞いて、結衣ちゃんは、にこっと笑った。
かわいい笑顔だなと、私は思った。




