第86話 大学三年生 夏7 yui
結衣 yui
夜の海水浴場。
コンクリートで造られた防波堤の上に、ぽつんと座り、砂浜を眺めている人影がある。
月明かりに照らされたその横顔。
「玲香」
「わ」
捕食者に見つかった小動物みたいに、びくっと反応して玲香が振り向いた。
私は思わず、声をあげて笑った。
「なんだ、結衣ちゃんか」
「なんだとはなによ。捜したんだから」
私は玲香の隣に、腰を下ろした。
なにも言わず、いっしょに海を眺めていると、玲香が口を開いた。
「旅行は?」
「抜け出してきた」
「なんで?」
「玲香に会いたかったから」
「え、なんで?」
私は隣に座る玲香の顔を覗き込む。
その気配に気づいたのか、玲香がちらっと目を動かしてこっちを見た。
「だって、連絡つかないんだもん」
私が文句を言うと、玲香はふっと笑った。
「ごめん。充電ケーブル持ってくるの忘れちゃって」
そんな理由かよと思って、私は笑うしかなかった。
昨日から、あれだけスマホにかじりついていたのは、なんだったんだと思わされる。
「結衣ちゃんが旅行している間に、ぜんぶ、済ませる予定だったんだけど」
なにを、と言いかけて、私はその言葉を飲み込んだ。
「なんか、疲れちゃった」
言葉を失うと、海岸に打ち寄せる、波の音だけが聞こえてくる。
「お金もなくなっちゃったし、なんのために、いままで生きてきたんだろうって」
波の音を聞きながら、私は慎重に言葉を選ぼうとする。
「どうして、ここにいたの?」
玲香は言葉どおり、疲れ切った様子で、月明かりに照らされた顔には、生気が感じられなかった。
ここに来た目的が、入水自殺、とかじゃなければいいんだけど。
「どんな景色だったかなって思って」
少しだけ、私はほっとした。
「海を見るの、好きだって言ってたもんね」
できるだけ、明るい話題にしようとする。
玲香の表情も、少しだけ明るくなった気がした。
「お母さんに連れられて、逃げるようにこの町に来て、新しい家族で、まだ新しい学校にも通いはじめていなかった頃にさ。たぶん、お母さんもまだ仕事をはじめていなくて、時間があったから、ここを訪れたんだと思う」
懐かしむように、玲香はそう話してくれた。
「きれいな景色だと、そう思ったんだ」
夜の闇に沈んだ、真っ黒な海を眺めながら、私は玲香の言葉を聞いていた。
なんの変哲もない、特別美しくもない、ごく普通の海水浴場にしか、見えなかった。
きれいな景色に見えたということは、新しい生活に、希望を抱いていたのかな。
「それから、すぐに学校がはじまって、2年生の秋、2学期の途中の中途半端な時期に転校してきたのもあってさ。新しい学校には全然、馴染めなかった」
私は転校というものをした経験がなかった。
自分のクラスに転校生が現れるなんて、そんな漫画に出てくるようなシチュエーションも、体験したことがなかった。
「やっぱり、緊張するもの?」
「どうだろう。覚えてないな。ただ、みんな訛ってて、なに言ってるのか、聞き取れなかったことだけは覚えてる」
「玲香は標準語だもんね」
「ちょっとイントネーションが変わるだけでね、わかんなくなるんだよ。しばらくしたら、聞き取れるようにはなったけどさ」
「友だちを作るのは難しかった?」
私が訊ねると、玲香の表情が和らいだ。
「ひとり、親切な女の子がいてさ。いつも、おろおろしている私の面倒を見てくれた」
「お、いいじゃない」
「放課後、うちに遊びに来てくれることになって。私さ、そこでとんでもないことやらかしたんだよ」
「え」
なんか、聞くのこわいな。
尻込みする私に構わず、玲香は続ける。
「私、なんかおもしろいことしなきゃって思っちゃって」
「んっふ」
私は思わず、吹き出してしまった。
この人って、最初からそういう人だったんだ。
「当時、雨漏りするぼろぼろのアパートに住んでてさ。玄関入ってすぐ横がキッチンだったんだよね」
「うん」
「遊びに来たその子に、とっさにキッチンから包丁を取り出して、『ころすぞ』って言って、こうやってやったんだよ」
玲香が片手を振りあげてみせる。
私はその女の子の気持ちになって聞いていた。
まったく、冗談になっていないなと思った。
「一瞬、時が止まって、そうっとその女の子は玄関のドアを閉めて、いなくなっちゃった」
「でしょうねえ」
「子どもながらに、これはいけなかったなと思ったけど、あとの祭りだよね。次の日から危険人物扱いで、誰も寄ってこない」
玲香は自嘲的に笑った。
「いまにして思えば、あの女の子にほんと悪いことしちゃったし、あの子、いい子だったなあ」
「それから、交流はなかったの?」
「いつの間にか、この町から引っ越して、いなくなってた」
「そっか」
「あ、それは私のせいじゃないよ、たぶんね」
どうなんだろうか。
親に話したら、危ないから転校させようって、なった可能性もあるような気がするなあ。
「たぶん、情緒おかしかったんだよ、あの頃の私」
両親が離婚して、知らない町で、新しい家族と暮らしはじめたばかりの玲香ちゃんか。
「3年生にあがるときにね」
地元に帰って、思い出したことがたくさんあるのか、玲香は思い出話を矢継ぎ早に話してくる。
私はそれを興味深く聞き入る。
「朝、学校に行く前にお母さんに声をかけられてさ。『今日からあんた、三上玲香になるから』って言われて」
「え、そんな急に?」
「そ。それまで『藤原玲香』を名乗っていたのに。うちのお母さんっていつもそうなんだよ」
名前を変えた経験なんてないから、そんなとき、どうしたらいいのか想像もつかない。
「そんなの、みんなに聞かれたらなんて言えばいいのって言ったらさ。『お父さんの養子になったって言えばいいよ』って言われて。結衣ちゃんだったらどう思う?」
うーんと、うなりながら、私は考えてみる。
「ちょっとよくわかんないかも」
「でしょ。ちょっとよくわかんないんだよ」
生まれたばかりの三上玲香ちゃんに共感できたみたいで、なんかうれしくて笑ってしまった。
玲香も顔が笑っていた。
「大人になって、自分のスマホを持つようになってからさ、私と三上さんの関係ってなんなんだろうって調べてみたら、どうやら私って、三上さんの養子に当たるらしいんだよね。私にとって、三上さんは養父ってことになるらしい。そんなの、8歳に言われたってわかんないよ」
私もいま、はじめて知った。
身近にそういう人がいなかったし、話題として出ることもない話だから。
「学校のみんなに説明するの、大変だったでしょ」
「それが、そうでもないんだよ」
玲香がこれからすごいこと言うぞって顔で、私を見てきた。
「そこは誰も聞いてこないの。しれっと名簿上で、私の名前が三上玲香に変わっているのに。2年の頃に同じクラスだった女の子も、まるで前からそうだったみたいに、『藤原さん』から『三上さん』に呼び方が変わったんだよ。小学生って、空気読めるし、頭いいよね。こっちは、三上さんって呼ばれることに、まったく慣れていなくて、違和感しかないっていうのに」
藤原玲香だったことを知らない、新しいクラスメイトもいただろうから、そういう子が三上さんって呼ぶのに合わせていったのかな。
私は当時の玲香ちゃんと、自分が同じクラスに居合わせた場合を想像して聞いていた。
「ただ、ひとりだけ意地悪な男の子がいたんだよ」
「いそう」
私も、小学生の頃、男の子に意地悪された経験はある。
中高一貫の女子校に行きたかったのも、ママのすすめもあったけど、男の子を迷惑な存在と認識していたことも、理由としてあった。
「『お前の親、離婚したんだろ』とか大声で言ってきてさ。事実だから『そうだよ』って言ってやったら、私の上履きに書かれた『ふじわら』って名前を見て、『お前、人の上履き盗んで履くなよ』って言って、上履き盗られて隠されたりしてさ」
「許せない」
「しばらく、上履き片方だけで生活してたら、先生が見つけて返してくれた」
傷ついただろうな、玲香ちゃん。
「いまにして思えば、ほとんどいじめだったなあ。ほかにも嫌がらせ、いっぱいあったし」
そのときは、いじめだとは感じていなかったのかな。
「男の子たちが意地悪するから、女の子たちもこわがって、私に近寄ってこなかったし、いつもひとりだった」
「学校、嫌いになっちゃうね」
「なんかね。情緒がおかしくて、たまに給食中にひとりで泣き出したりしてた。みんな、無視だけどね、私が泣いてても。私もなんで自分が泣いているのか、わかんなかったし。先生に理由を聞かれても、『わかんない』としか言いようがなかった」
たぶん、それは、なにかを感じているあなたと、それを見ないふりしているあなたがいたんだと、私は思うよ、玲香。
藤原玲香と、三上玲香を、別の人と考えて、この感情は自分のものじゃないって、処理していたんだと思うよ。
あなた自身の、心を守るために。
「ずっと忘れていたなあ。そんなこともあったってこと」
「地元に帰ってきて、思い出したんだ」
「ん。というより、結衣ちゃんと話してたら思い出したわ」
玲香が私の顔を見て、微笑んだ。
力のない笑顔だった。
「中学校にあがったらさ。私が藤原玲香だったことを知らない人ばっかりになったから、親のこととか、私の名前のこととか、自然と言われなくなったけどね。まわりが大人になってきたってのもあるのかな」
「平和になったってことね」
「まあね。でも、私は大丈夫だったんだよ。家に帰れば、お父さんの置いていったレトロゲームがあったから。ゲームしてれば、なにも考えなくていいからね」
「レトロゲーム好きだって、言ってたもんね」
「家に帰っても誰もいないしさ。やることそれしかないからね」
そう言って、玲香は笑った。
私は玲香ちゃんを思い浮かべて、悲しい気持ちになった。
「ゲーム好きじゃなかったら、結衣ちゃんには出会えなかったと思う」
そう言って、玲香がにこっと笑いかけてきた。
「玲香のお父さんに感謝しなくちゃ」
私もそう言って、微笑み返した。
「結衣ちゃんと知り合った頃、いっしょにバイトしてたあの女の子。いまにして思えば、いい子だったなあ。どうして、あんなふうにお別れしちゃったんだろう」
「好きだったの? その子のこと」
「ん。そんなことはないかな」
「え、どゆこと」
私は思わず、笑ってしまった。
「好きになってくれた、かな。私のこと」
「ああ。そういうことね」
玲香が人を好きになったことがある話かと思って、どぎまぎしちゃった。
「きれいな子だった」
「へー」
「性格悪いし、口悪いけどね」
「ふふ」
「いい子だった」
性格も口も悪いけど、いい子って、どんな人なんだ。
私には想像がつかなかった。
「彼氏に浮気されてたけどね」
私は声を出して笑ってしまった。
夜の波打ち際に、私の笑い声が反響していた。
玲香の交友関係、はじめてまともなの聞いた気がするな。
「私と友だちになりたいと、思ってくれていたみたいだった。その気持ちを見ないふりしてしまった」
その女の子はきっと、さみしかっただろうな。
「人の好意や愛情を受け取ることは、許されないことだと思ってた」
「8歳で亡くなった藤原玲香ちゃんと、そう約束したから?」
玲香は驚いた表情で、私の顔を覗き込んだ。
家族旅行に行った、一年前のあの夜のこと、覚えていないのかな。
お酒を飲んで、げろげろになって、ひどく泣いていたから、自分がどんなことを話したか、わからなくなっちゃったのかな。
「この町に来るとき、お母さんが、私に言ったの。『お父さんも、お母さんも、あんたを引き取りたくなかった』って」
私は、玲香のお母さんという人のことが、まったくわからない。
「藤原玲香という女の子は、そのときに死んで、代わりに私が生まれた」
心に深い傷を負った瞬間だったのかなと、私は思いを馳せる。
「藤原玲香は、いらない子どもで、誰からも必要とされない存在だったんだ。いまさら私が、誰かに必要とされてしまったら、あの子をひとりにしてしまうから」
三上玲香は、誰にも必要とされなかった藤原玲香に寄り添うために生み出されたイメージなんだろうと思う。
受け取りたくない感情を引き受けて、藤原玲香のものではないとして、彼女の心を守ってあげている。
その三上玲香が、誰かのものになってしまったら、藤原玲香のそばには、誰もいなくなってしまうと、考えているのかな。
それとも、好意や愛情のような、ほんとうは欲しい感情だけ、都合よく受け取ってしまったら、見ないふりしていた、悲しみやさみしさまで、自分のものとして受け取らないといけなくなることを、恐れているのかな。
「玲香。私はそれは、さみしいと思う」
「さみしい?」
私は玲香の目をしっかり見据えて話をする。
玲香はいつもの独特の真顔で、私を見つめていた。
「あなたは愛されるに値する人なんだよ」
玲香は目を泳がせた。
動揺しているのがはっきりとわかる。
「私にそんな価値ない」
首を横に振って、玲香は自分を否定しようとする。
「藤原玲香も、三上玲香も、どっちも同じ、あなたはあなたでしょ」
玲香はなにも言えないでいる。
怯えた顔をしている。
私はそんな玲香を抱きしめてやる。
玲香は震えていた。
私の気持ちを受け入れることを、恐れているのだと感じた。
「私が信じられない?」
玲香が鼻をすする音が聞こえる。
私は力いっぱい、彼女を抱きしめる。
三上玲香の中にいる、藤原玲香ごと、強く抱きしめてやる。
「私があなたを愛していること、わからない?」
そう伝えると、玲香は私の背中に腕を回して、力いっぱい、私に抱きついてきた。
私は三上玲香の中にいる、藤原玲香に語りかける。
「ひとりでさみしかったし、つらかったよね。それでも一生懸命、生きてきて、えらかったね。あなたは、強かったんだよ、玲香」
私はこの人に、報われてほしかった。
幸せになってほしかった。
この人が孤独と向き合い続けた結果が、さみしいものや、悲しいものであってほしくなかった。
この人のことを、心から大好きだと思っていたから。




