第82話 大学三年生 夏3 yui
結衣 yui
三上玲香という人が、お母さんに怒ったりできるようになってくれたこと。
それについては、いい変化なんだと、私は捉えていた。
本来、そうあるべきだと思っているから。
感情のない人間なんて、いるはずがないと思っているから。
表に出さずに抑え込まれたそれが、どこに向かっているのかに思いを馳せれば、私はそうしてほしいし、そうするべきだと考えていた。
それにしたって、この状況は、ちょっと行き過ぎているなと思った。
私だって、人生において、こんなに感情を爆発させた経験はない。
「痛くて、腕、曲がんない」
駆け寄った私に、涙で目を真っ赤に腫らした玲香が言う。
彼女の顔を見ると、涙が出そうになって、見ていられなかった。
なんで、玲香がこんな思いをしなきゃいけないんだろう。
毎日、まじめに、一生懸命、生きているだけなのに。
私が泣くわけにはいかないと思って、彼女の腕を看ることに集中する。
「仕事できなくなっちゃう」
玲香は子どもみたいな声で、そう漏らす。
「痛い」
「あ、ごめん」
思ったよりも、怪我の程度が重そうだ。
「いったん、冷やしたほうがいいかも。こっち来て」
洗面台に水を張り、冷凍庫から持ち出した氷を乱暴に投入して、腕を突っ込むよう指示する。
「無理。冷たい」
手の先が触れただけで、あきらめようとする姿に、苛立ちを覚えながら、無慈悲に私は言う。
「文句言わないで、やんな」
「はい」
玲香はいつものように、聞き分けよく従った。
応急処置として、正しいのかどうかは、よくわからない。
ただ、やっている間に、私の気持ちが落ち着いてきたのはよかった。
患部を冷水に浸している玲香に声をかける。
「病院行ったほうがいいよ」
玲香は腕を浸したまま、泣きそうな顔で私を見てくる。
私も胸が詰まる。
「給料日まで、お金ない」
お金なら私が出すと、言いそうになった言葉をなんとか飲み込む。
この人はお母さんの反面教師をやっている。
人からお金を借りたりするのは、きっと自尊心が傷つく。
だからこそ、生活費もきっちり1円単位で折半してきたのだ。
「ちょっと、そのまま待ってて」
私は部屋に向かうと、スマホで病院を調べることにした。
スマホで調べものをしている間、洗面所から鼻をすする音が聞こえて、しんどくなってくる。
世の不条理を思い知る。
調べものを終えると、洗面所に戻り、腕を水に浸して、ぼーっとしている玲香に、私は声をかけた。
「クレジットカードあるでしょ?」
「はい」
「カード使える病院教えるから、行ってきな」
私を見つめたまま、玲香が固まる。
いつだか、残高ないのにクレカを使う心理がわからないと言っていた話を、そこで私は思い出す。
「いままで働いた分は、ちゃんと給料日に入ってくるでしょ」
「はい」
確定している権利だから、借金ではない判定と認識してくれたみたいだった。
パズルみたいでややこしいなと、私は思う。
三上玲香がややこしい性格をしているのは、いまにはじまったことではない。
それもきっと、この子のせいというわけではないのだ。
「やっぱ、私も行くわ」
鞄を持って、外に出ようとする玲香に、私は声をかけた。
「スーパーに買い物行くから、そのついでに、ね」
万が一、カード使えなかったら困るし、なんかあっても心配だし、付き添いが必要だなと思い直したのだった。
◇
結局、骨には異常ないとのことだった。
病院から帰って、ふたりでようやくお昼ご飯をいただく。
「右手だったら、箸持てないところだったね」
「そしたら、結衣ちゃんに食べさせてもらわないといけなかったなあ」
少しだけ、元気になった様子で玲香が言う。
「鳥の雛みたい」
食べながら、自分で言って、自分で笑ってる。
小柄だし、力あんまりないから、この程度で済んだのだと思う。
力いっぱい殴ったつもりなんだろうけど、座卓もへこんだりしていないし。
女の子らしい非力さで助かったな、玲香。
私だったら、あるいは、座卓がまっぷたつだったぞ。
「結衣ちゃん、なに笑ってんの」
「え、笑ってた?」
食べている間は、ほっとしたのか、玲香も元気そうだった。
食べ終わると、一気に暗い顔をした。
「洗い物、私やるよ。怪我人にやらせるわけにもいかないから」
「ごめんなさい」
「治るまでだから、ね」
「はい」
私、洗い物、嫌いなんだよね。
全人類、嫌いな作業だとは思っているけど。
いつも、玲香がやってくれて助かってた。
そうじゃなきゃ、洗い物が面倒になるようなお料理は、作る気が失せてくるから。
「手首、固定されちゃったけど、指は動くから、仕事はできるかなあ」
玲香はそんなことを言いながら、自転車に乗れず、歩いてバイト先に向かっていった。
私は、圭太くんに電話をして、同居人が怪我をしているから、今日は遊びに行けないと伝えた。
お母さんと電話をしていたときの玲香の様子が気になって、私は頭がいっぱいで、とても遊ぶような気持ちにはなれなかった。
電話の向こうの圭太くんが、機嫌を悪くしているのがわかった。
険悪な状態のまま、グループ旅行に入ってしまうのは嫌だなと思った。
「いつもの同居人ね。わかった」
そう言って、圭太くんから電話を切ってきた。
同居人の話をすると、喧嘩になると思って、あきらめている様子だった。
グループ旅行まで、一週間を切っていた。
◇
バイトから帰ってきた玲香と、晩御飯をいただく。
「なんか、パーティみたいだね、今日」
「たまにはいいでしょ」
結局、できるだけ洗い物を少なくしたいから、ぜんぶ大皿に盛ってシェアする方式にした。
手抜きがバレるかと思ったら、パーティみたいと言ってもらえて、なんかうれしかった。
「これ何個ずつだ?」
「どうだったかな。食べたかったら食べていいよ」
「結衣ちゃん、何個食べた?」
「ん。わかんない」
「え、胃袋に聞いてみて」
「私の胃袋が、それ玲香の分だって言ってる」
「はい」
はい、なのかな、そこ。
私が笑っていると、玲香はふふっと笑って、最後にひとつ残ったおかずを拾い上げていた。
食事中は笑顔も見せてくれた玲香だったけど、晩御飯を終えると、また一気に暗い顔になった。
私は、少なめに済ませた洗い物をはじめる。
玲香は、和室の布団の上に腰を下ろして、スマホとにらめっこしていた。
あんまりスマホを見ない人なのに、最近よくそうしている。
なにか打ち込んでいるときもあって、まさか男じゃないよねって、気になってはいた。
洗い物が済んで、玲香の部屋に腰を下ろすと、スマホを見ていた玲香が目に涙を浮かべながら、私に話しかけてきた。
「結衣ちゃん。給料日まで、生活費の支払い。待ってもらってもいい?」
いったい、お母さんにいくら振り込んだんだろう。
いま、いくら持っているんだろう。
聞きたいことは、山ほどある。
興味本位で聞いたところで、彼女を苦しめるだけなので黙っておく。
「大丈夫だよ。立て替えられるから」
玲香は落ち込んだ顔をしていた。
お母さんの反面教師で、お金の管理をしっかりやってきただろうから、これを言いだすのはつらかったんだろうなと、私にもわかる。
私が親のすねかじりではなく、大富豪だったら、いますぐ玲香のパトロンになるんだけど、そんなのは妄想に過ぎない。
経済的な事情は、私に太刀打ちできる話ではなかった。
せめて、彼女の心に寄り添う方法だけを考えようと思った。
「シャワー浴びてきたら?」
玲香がスマホを置いて、手首を固定された左手を見ている。
「なんなら、シャワー、私が手伝おうか?」
顔をあげた玲香は、にやついていた。
私はほっとした。
「結衣ちゃん、えっちだからなあ」
「おい」
ははっと笑って、玲香が立ちあがった。
「ひとりで浴びる」
少しだけ、残念に思う私がいた。
玲香がシャワーを浴びている間、私は自分の部屋のベッドに横たわる。
旅行なんて、行ってる場合なのかなと思いながら、スマホを見る。
LIMEの通知が、山ほど入っている。
大学の友だち同士のLIMEグループ上で、差し迫った旅行の話題が繰り広げられていた。
みんな、楽しみにしているのがわかる。
断れる空気じゃない。
私だって、行きたい気持ちは、もちろんある。
このタイミングで旅行をやめたって言ったら、どう考えても玲香のことが気になってやめたのが、丸わかりかな。
そうなったら、彼女のメンタルが持ち直すのにも、悪影響かな。
それから、グループ旅行までの数日間。
玲香はバイト先と家をいつものように往復していた。
腕も治ってきているみたいだし、数日ばかり家をあけても、大丈夫そうかなと思った。
旅行中も、こまめに連絡をとることにして、私は旅立っていった。




