第81話 大学三年生 夏2 reika
玲香 reika
いつもの詐欺師だろうと思った。
クリーム色のスマホケースに赤い猫のステッカー。
結衣ちゃんから譲ってもらった、私のスマホを鞄から引っ張り出す。
お母さんだった。
発信元を見ただけで、鳥肌が立った。
出たくなかった。
鳴り止まない様子に気づいたのか、結衣ちゃんがキッチンからこっちを見ている気配がした。
余計な気を遣わせたくないと思って、私は電話に出た。
「お母さん?」
いつもはすぐに用件だけを話すお母さんが、黙っていた。
「え、なに?」
お母さんの言葉は返ってこなかった。
代わりに、すすり泣く声が聞こえた。
いたたまれなくなってくる。
この人が、泣いている姿なんて、私は知らない。
「泣いてるの?」
なにかの間違いだと思いたくて、そう訊ねた。
私は緊張しながら、お母さんの泣き声が止むのを待った。
やがて、お母さんの鼻声が聞こえてきた。
「あの人と喧嘩して、家、出てきた」
私はなにも言えなかった。
お母さんと三上さんが喧嘩している姿は、見たことがなかった。
ちょっとした意見の違い、みたいなものを、すり合わせているところは、見たことがある。
大きな喧嘩とかはない。
お母さんも、お父さんと暮らしていたときみたいに、いきなり出て行ったりしないから、あのふたりは気が合うんだと思っていた。
お互い、どこがいいのかは、知らないけれども。
「なんで、そんなことになるの」
わからなすぎて、私は訊ねるしかなかった。
聞いてほしそうでもあった。
たぶん、お母さんって、三上さんくらいしか、この地球上に味方がいない人だから。
「あの人も無職だし。もうお金、全然、ないからさ。水槽の水代とか、電気代とか、馬鹿にならないから、なにがおもしろいのかもわからないし、気色悪いだけなんだから、もうそれやめろって言ってさ」
三上さんが水槽を眺めている光景が脳裏に浮かんでくる。
私の心象風景として、刻まれている場面のひとつだ。
「言うこと聞かないから、あの人が出かけている間に、水槽の水、ぜんぶ、捨ててやったんだよね」
「え、魚、かわいそう」
私は思わず、そう漏らした。
なんの思い入れも、愛着もないけれど、生き物だし、あまりにもひどい。
それは、喧嘩になるというか、もはや、喧嘩売ってるよね。
お母さんって、どうかしてる。
お母さんは、怒りが蘇ってきたのか、興奮した様子で続ける。
「言い合いになるのは、百も承知なんだよ。だけど、考えればわかるでしょ。引き落としできなくなって、電気もガスも水道も止まって、生活できなくなるのと、どっちがいいんだって話なんだから。その魚のために死ねるのかよって」
それを言われた三上さんは、どんな心境だったのかな。
責め立てる側のお母さんの心理は、もう理解不能だとしても。
お母さんは、たぶん、ノイローゼなんだよ。
私も、お金のことで頭がいっぱいだから、そうなる理由については、わからないでもない。
言い合いになるのを承知で、いきなり人が大切にしている水槽の水を捨てて、魚を殺すという対処法は、意味不明だけども。
「もう明日にも、借金取りが来るかもしれないんだから」
お母さんはそう漏らすと、悲鳴のような声をあげて、また泣きはじめた。
三上さんと喧嘩して、家を出てきてしまって、メンタルに相当きていることはわかった。
お母さんは、たまに「借金取り」って言う。
だから、調べてみたことがある。
まともな相手から借りていたら、いまどき、そんなのは来ない。
法律で禁止されているから。
ただ、お母さんが、まともな相手からお金を借りているという保証はまったくなかった。
それだけに、気味が悪かった。
お母さんの話す状況も。
お母さんという人間も。
気分が悪くなってくる。
泣いて感情が収まってきたお母さんが、口を開く。
「ねえ、あんたさ」
なにを言いだすのかは、わかってた。
嫌だ、嫌だという気持ちだけがあふれてくる。
その先を、聞きたくない。
「お金貸してくんない?」
私はいったん、黙る。
汚い言葉が出そうになるから。
お母さんは黙っている。
私がお母さんを裏切る側の人間かどうか、値踏みされているように感じる。
私は深呼吸して、冷静に口を開く。
「こっちもお金ない。だって、私、大学生だよ」
お母さんは黙っている。
なにか言えよと、言いたくなる。
気持ちを落ち着けるよう、自分に言い聞かせながら、私は続ける。
「学校行きながら、バイトしてんの、私」
「いくらなら払える?」
かぶせるように、お母さんがそう言う。
話聞いてないのかなと、私は思う。
言い値で払わされる予感がして、答えたくない。
私は計算する。
後期の授業料は、夏休みに死ぬ気で働けば、なんとかなるかな。
それこそ、学費って、引き落としできなかったら、どうなるんだろう。
その時点で、大学にはいられなくなるのかな。
少しは、待ってもらえたり、するのかな。
その前に、結衣ちゃんと折半している、ここの生活費を払えなくなっちゃう。
それだけは、絶対にだめなんだ。
お母さんじゃないんだから、お金のことで、誰にも迷惑かけたくない。
突然のことで、頭が回らなくて、計算ができない。
大学卒業までここにいるのは、もう無理だな。
私はあきらめた。
この夏、乗り切れるかどうかで、終わりだ。
「いくらあればいいの?」
どうしようもなくて、私は訊ねる。
「100は必要」
「ない」
かぶせるように、私は即答した。
ないものは、払えるわけないから。
「あんたさ。友だちといっしょに住んでたよね?」
動悸がしてくる。
畳の上に、崩して座った足が、貧乏ゆすりをはじめる。
「その子から借りられない?」
脳の血管がちぎれたと思った。
頭が熱くなって、言葉にならないような罵声を浴びせた。
自分でも、なにを言っているのか、わからないほどだった。
呂律が回らなくなって、舌を噛みそうになる。
心臓が痛いくらい脈打っていて、私は気分が悪すぎて、いったん、怒鳴るのをやめざるを得なくなった。
涙がぼろぼろ出ていた。
お母さんは、黙ってた。
それさえも、許せなくなって、私はまた口を開いた。
「子どもにそんなことを言う親が、どこにいるの」
なんとか、落ち着いて言葉にしようとした。
我慢できなくて、また大声をあげた。
「娘じゃなくて、自分の親でもお姉さんでも、ほかの人を頼ればいいでしょ!」
「お母さんは」
「私に言ってこないで!」
お母さんがなにか言おうとしたけど、私はそこで電話を切った。
言いかけた言葉を飲み込むしかなかった、泣いているお母さんのイメージが脳裏に浮かんできて、罪悪感が襲ってくる。
お葬式で、誰からも声をかけられず、誰も近寄ってこなくて、孤独だったお母さんの姿を思い出す。
涙がぼろぼろ出てくる。
私は怒っているのか、悲しんでいるのか、哀れんでいるのか、自分の感情がわからなかった。
ネットバンキングの画面を開く。
もうどうでもいいやと思って、お金を振り込む。
「あっ」
残高を見た瞬間、急に冷静になった。
生活費を残しておかないと、給料日までお金ない。
お母さんにも、自分にも、嫌気が差して、私は怒りに任せて、また左手に握ったスマホを破壊しようとした。
座卓に思いっきり打ちつけようとして、拳を振り下ろした瞬間、結衣ちゃんにもらった大事なスマホだったと気づいて、とっさにスマホをかばおうと、私は手首をひねった。
家中に座卓を殴りつける、どんって音が響き渡った。
手の中から飛んでいったスマホが、畳の上に転がった。
慌てて拾い上げると、どうやら無事みたいだった。
ほっとした瞬間、左手の手首に経験したことのない強い痛みが走って、私はうめき声をあげた。




