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第62話 大学一年生 夏5 yui

  結衣 yui


 ひとまず、言われたとおり、私はシャワーを浴びようとした。


 洗面台の脇に重ねて置いてある、プラスチックのかごをひとつ取ろうとして、私は鏡に映る、自分自身と目を合わせた。


 無表情の私が、そこにいた。

 後ろに、佐倉先輩が立っていた。


 鏡の中の佐倉先輩と目が合うと、佐倉先輩は、にこっと笑った。

 慎み深いかどうかは、もはや、諸説あるけれども、いつもの整った顔をしていた。


「いっしょに入る?」


 佐倉先輩が訊ねてくるので、私はすぐさま、


「入りません」


 と、断った。


 佐倉先輩が笑った。

 やさしそうな表情ではあった。


「ですよねえ」


 と、佐倉先輩は部屋に戻っていった。


 私は、プラスチックのかごを持って、バスルームに入ると、扉を閉めた。


 空っぽの浴槽のへりに、かごを置いて、脱いだ服を入れていく。


 シャワーを浴びながら、私は考えていた。


 あの人のどんなところに惹かれて、あんなにも、胸を躍らせていたのかを。

 あの人が、私のことを、どう思っているのかを。


 このあと、私は、佐倉先輩と、愛しあえるのかどうかを。


 私は、自分の気持ちが、わからなかった。

 なんで、わからないのかも、わからなかった。


 ◇


 バスタオルを巻いて、脱いだ服が入ったかごを手に持ち、私は部屋に戻ってきた。


 佐倉先輩は、ベッドに腰かけて、スマホを見ていた。

 私に気づくと、スマホをポケットにしまって、にこっと微笑んだ。


 私はどういう表情をしていいのか、わからない。

 ガラステーブルの上に、かごを置くと、


「俺もシャワー浴びてくる」


 と、言って、佐倉先輩が部屋を出ていった。


 このまま、はじまるのかと思っていた私は、ほっと息を吐いた。


 私はベッドに近寄り、これから、生まれて初めて、男性と身体を交わらせる、その場所を確認する。

 ベッドの上に、ホテルのフロントにかける電話が置いてある。

 その横に、正方形の、可愛げなデザインのアメニティがふたつ、並んでいた。


 なんだろうと思って拾い上げると、なんのことはない、コンドームだった。


 急に現実感が押し寄せてきて、胸がどきどきしてくる。


「いいのかな」


 好きな人と、そういうことをして、なにが、いけないのかな。

 そもそも、私って、佐倉先輩のこと、好き、なのかな。


 シャワーの音と、自分の心臓が脈打つ感覚だけを感じながら、私は考えてみる。


 私は、佐倉先輩という人を、愛せる自信がなかった。

 愛情を向けられたとしても、受け入れられる、自信がなかった。


 気づけば私は、スマホを手に取り、電話をかけていた。


 家族にも、友だちにも、相談できないこの状況で、私がなにをすべきなのか、誰かに教えてほしかった。


 私は三上玲香に電話をかけた。


 玲香は、私の話を黙って聞いてくれた。


「玲香。私、どうしたらいいと思う?」


 私が最後にそう漏らすと、玲香はようやく口を開いた。


「結衣ちゃん。帰ってきな」


 その声を聞いた瞬間、涙がぼろぼろ、こぼれ落ちた。


「そんなやつ捨ててさ」


 玲香の声は、いつもより、やさしい声に感じた。


 そう感じてしまっているのが、この状況のせいだというのなら、私はここを、逃げ出さなければならない。


 スマホを鞄に突っ込み、慌てて服を着て、私はこの部屋から逃げだそうとした。


 玄関で靴を履いていると、バスルームから佐倉先輩が出てくる気配を感じた。


 話もせず、黙っていなくなろうと思った私は、外に出ようと、ドアノブに手をかけた。

 思いっきりひねったが、ドアノブは回らなかった。


 私はパニックを起こして、力づくでドアを開けようとした。

 どんなに押しても引いても、ドアはびくともしなかった。

 防火扉みたいな重たい鉄の扉が、こんな女の力で開くわけがなかった。


 閉じ込められたと思った。

 最初から、ここに閉じ込められていたんだと思った。


 バスルームから出てきた、裸の佐倉先輩と目が合った私は、せきを切ったように、わんわんと泣き出してしまった。

 小さな子どもみたいに、しゃくりあげながら、大声で泣き喚いた。


 私は、こわかったのだ。


 自分がこわいと感じている事実を、見ないふりしていたに過ぎなかったのだ。


 ◇


 私は単に、ラブホテルという施設の仕組みを知らないだけだった。


 下半身にバスタオルを巻いた状態の佐倉先輩は、私が玄関で泣くのをなだめ終わると、丁寧にその仕組みを説明してくれた。


「閉じ込めているわけじゃないから、大丈夫だよ」


 玄関の脇にある精算機で、部屋代を精算すれば開くようになっているだけらしい。


「ごめんね。泣かせるようなことをするつもりじゃなくて」


 佐倉先輩は、お金を払おうとしている私に、そう弁明していた。


「なんか、そういうことできる雰囲気かなって、俺が勘違いしただけだから」


 佐倉先輩は謝っていた。


 私にも、佐倉先輩を勘違いさせる要素が、なかったかと言えば、嘘になるのかもしれない。

 ふたりきりになりたいと、持ちかけたのは、私だったから。


 男女のそういうのに無頓着だったし、まわりが見えていなかったし、馬鹿やっただけ、みたいな、そんなみじめな気持ちになった。


 玲香が男性に襲われたりする心配はしていたくせに、自分がそうなることには、まったくの無警戒だった。


 私はしっかりしているから、大丈夫だと、そんな根拠のない自信に、満ちあふれていた。


「すいません。お金、足りませんでした」

「え、ああ、ちょっと待って」


 私は佐倉先輩と、冷静にお話しができる心境ではなかった。


 財布を持ってきた佐倉先輩が、足りない分を払ってくれる。


 私は玄関の隅で、小さくなって、佐倉先輩と身体が触れあわないように、縮こまっていた。

 廊下にあがると、佐倉先輩が言う。


「もう開くと思うよ」


 私は佐倉先輩に背を向けて、ドアノブをひねる。

 今度は回った。

 重たいドアが開いて、外の空気が入ってくる。

 私は大きく息を吸いこんで、部屋を出た。


「神山さん。今日は、ほんとうにごめんね」

「はい」


 私は短くそう言って、ホテルをあとにした。

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