第59話 大学一年生 夏2 yui
結衣 yui
「大学の物理って、むずいんだよ」
「高校の物理は、暗記みたいなもんですからねえ」
「言うねえ」
中学生みたいなふたりが、教科書とノートに向かいながら、応酬している。
私は、畳の上に正座して、ふたりの様子を見守っている。
「なんかね、ベクトルが入ってくると、途端にわからなくなるんだよねえ」
「ただの勉強不足じゃないです? それか、基礎がなってないだけだと思いますけど?」
玲香が、おとんくんのノートに、らくがきをはじめる。
「パワハラはやめてください」
おとんくんが、眼鏡をくいっとあげて、抗議している。
私は不本意ながら、ふふっと笑ってしまった。
玲香が私の顔を見て、にこっと笑う。
「結衣ちゃん、ベクトルわかる?」
「ん。考えたくもない」
私が首を振って応じると、ふたりが笑った。
「必修なんだよねえ」
玲香がため息混じりにつぶやく。
私は数学が大の苦手なのだ。
受験勉強してた頃は、よく、レイくんに教えてもらったっけ。
目の前の三上玲香という女を見ながら、そんなことを思う。
玲香はこの男の子が、「信じられないくらい勉強できるやつ」だから、家庭教師として、ここに連れてきたらしい。
同じクラスではあるけれど、友だちでもなんでもないのだとか。
彼はクラスのみんなから、勉強のことで頼られていて、面倒見のよさと、お人好しぶりから、いつしか「パパ」とか「おとん」とか呼ばれるようになったという。
「結衣ちゃんみたいな、爆イケ女子大生が現れて、緊張してるでしょ。おとんくん、童貞こじらせてるから」
「こじらせてはいませんよ。大切に守っているだけです。僕は人生設計がしっかりしていますから。いまは、女性にうつつを抜かすフェーズではないのです」
変わった子だなと思った。
玲香も変わっているけど、そういう、変わった人が集まる大学なのかな。
「僕は自分の欲望は、自分でしっかり制御できますから」
眼鏡をくいっとあげて、おとんくんはきっぱりと言う。
「え、それ下ネタ? やめてよね。結衣ちゃんの前でそういうの」
「僕を民事上の犯罪者にしようとしないでください」
私が笑うと、ふたりも笑う。
「ほんとは緊張しているくせに」
「緊張はしていません。女性に興味などありませんから。ただ……」
おとんくんに注目が集まる。
眼鏡をくいっとあげて言う。
「いい匂いがしますね」
私はこんなやつ置いて、晩御飯の仕度をすることにした。
玲香も、黙ってノートに向かう。
おとんくんも、静かに勉強の姿勢に戻った。
「そういうとこだよ」
玲香がつぶやくと、おとんくんは、
「ふひひ」
と、鳴き声をあげた。
◇
晩御飯の仕度をしながら、ふたりの様子をうかがっていると、まじめに勉強しているだけみたいだった。
浮ついた話は、まったく聞こえてこない。
ふと、玲香がトイレに立ったので、私はおとんくんに近づいて言う。
「連絡先、交換しておこうよ。念のため」
おとんくんは、この爆イケ女子大生を目の前にそう言われても、まったく浮ついた様子を見せず、怪訝な顔をしていた。
この男は玲香の近くに置いておいても、大丈夫そうだなと思った。
急に欲望に目覚めて襲ったりとか、しなさそうだ。
力、弱そうだし、そんなことしたら、返り討ちにあう可能性も否定できないけど、それもまた、都合がいい。
玲香って、小柄でかわいくて、人見知りしないから、なんか見ていて、危なっかしいときあるんだよね。
いつも、鳩が豆鉄砲を食らったみたいな、隙だらけの顔してるし。
大学に入ってから、3か月ほど。
噂レベルでは男女のトラブルも聞くことあるから、心配なんだよね。
「玲香さ。あんまりスマホ見ないし、充電切れてるときもあって、連絡つきにくいことあるから、いざってときのための連絡用に」
「ああ。そういうことでしたか。僕の貞操が狙われているのかと」
「んなわけ、あるかい」
「ふひひ」
変わってるけど、しっかりした子みたいだし、頼りにはなりそうかな。
玲香の交友関係って、謎めいているから、ひとりでも彼女を知っている人と連絡がつくのは助かる。
「眼鏡のアイコンなんだ」
「僕のトレードマークですから」
交換したおとんくんのSNSアカウントは、勉強のことばっかり発信していて、誰がこれ見るんだって感じの、マニアックな投稿にあふれていた。
彼の人柄を象徴しているみたいだった。
アカウント名は、「ガリ勉くそ眼鏡」だった。
◇
「味見だけで、僕は満足ですから」
せっかくだから、家庭教師代金にと、晩御飯をご馳走してもよかったのだけど、おとんくんは、
「僕はそんなに、礼儀知らずではありませんので」
とか言って、帰ると譲らなかった。
なにか用事でも、あるのかなと解釈した。
やりたい勉強とか。
玲香に促されて、味見だけしていた。
そこは断らないのかよと、私は思った。
「どんな味だった? せっかくだから、感想残して帰りなよ」
おとんくんが、玄関を出たところで、玲香が訊ねた。
おとんくんは、天を仰いで、その味を反芻してから、
「女子大生の味、ですかね」
と言った。
「そういうとこだぞ」
と言って、玲香はドアを閉めた。
「ふひ」
という鳴き声がして、玄関のドアが閉まった。
◇
「あいつ、変態だからさあ」
玲香がハンバーグをもぐもぐやりながら、言う。
「だいぶ、こじらせてたねえ」
私も、お野菜をいただきながら、応じる。
私たちは、いつものように、賑やかな食卓を囲む。
「試験のおかげで、玲香といっしょに過ごす時間が、いつもより長くてうれしい」
私は、にやけながらも、玲香の表情を観察する。
玲香は表情を変えずに、もぐもぐやっている。
「結衣ちゃんは、試験とか大丈夫なの?」
話題を変えられてしまった。
注目してほしいのは、そこ、じゃないのに、ずらされた。
「授業の空き時間に、みんなで対策したりしてるよ。サークルの先輩から過去問もらったりとか」
「そんな勉強法も、あるんだねえ」
玲香は、私のぶつける感情を、決して受け取ろうとしない。
その理由がどこにあるのか、私にはわからなかった。
毎日楽しくおしゃべりできているし、嫌われたりはしていないと思うのだけど。
だからこそ、わからなくもあった。
同居をはじめてから、4か月目になる。
そのことが、最近、はっきりと認識できてきた。
なんか、さみしいなって思わされることが多いと、ふとしたときに気がついたから。
大学の女たちとの会話は、むしろ、共感の嵐みたいなものだから、玲香との対話は異質だった。
玲香と共有できる感情は、唯一、笑いくらいだ。
喜怒哀楽というけれど、そういった感情の揺れ動きを、ほとんど見せない人だ。
そう考えると、ふざけて笑ったりするのだって、どちらかと言えば、私を楽しませようとしてやっているだけのようにも思えてくる。
私の感情にはとても敏感に反応する人だから。
怒ったりしないし、泣いたりしないし、ネガティブな感情を見せることがないから、付き合いやすくはあるけれども、それと同じくらい、ポジティブな感情も見せてはくれない。
好きとか嫌いとか、全然教えてくれないんだ。
玲香は、得意不得意はあっても、好き嫌いはないって言うけれど、そんなはずは絶対にないと、私は思う。
私は、三上玲香という人と、感情を共有したかった。
私の気持ちを受け取ってほしかったし、彼女の気持ちを受け取りたかった。
いつしか私は、小さな感情のボールを投げて、反応を見るということをするようになっていた。
「ハンバーグ好き」って、言ってくれたときのうれしさが、心に強く残っていたから。
そういう気持ちのやりとりができる関係に、なりたかったのだと思う。
この日も、私はいつものように、空振りだった。
いつまで、私がこの気持ちを我慢していられるのか。
私たちは、この時期、そういう段階にあったのかもしれなかった。




