第34話 高校卒業後 田舎町8 yui
結衣 yui
「そろそろ、帰ろうか」
玲香が切り出したので、私たちは彼女が務めていたコンビニをあとにした。
幹線道路から脇道に入り、街灯もあまりない真っ暗な道をふたりで歩く。
やがて、玲香の住む公営住宅にたどり着いた。
玲香が玄関の鍵を開け、中に入っていく。
「お邪魔します」
小さくそう言って、私は緊張しながら、彼女の家に入る。
廊下の奥にあるリビングの明かりがついていて、テレビの音が聞こえてくる。
ご両親が帰ってきているみたいだ。
玲香の後ろに隠れるようにして、リビングに近づいていく。
霧がかかっているように見えて、気のせいかなと思ったが、理由は臭いですぐにわかった。
たばこを吸っているみたいだった。
リビングに入ると、たばこの臭いに混じって、アルコールの臭いもする。
正面に、たばこを咥えたお母さんらしき人が見えた。
目が合ったのに、にこりともしない。
私は思わず、顔がひきつってしまう。
テレビからバラエティ番組の笑い声の効果音が聞こえてくる。
「お母さん」
玲香が声をかけると、彼女のお母さんは、たばこを灰皿に置き、
「え、なに、誰」
と困惑したように言った。
私はなんて声を出したらいいのかわからなくなって、会釈で応じた。
「ああ、どうも」
条件反射のように、ほんの少し明るくなった顔で、やっと言葉をもらえて、少しだけほっとする。
「で、誰?」
玲香が言われて、後ろに立つ私に緊張が走る。
「えっとね。春から、この子といっしょに東京で住むから。この子がお母さんにぜひ挨拶したいってさ」
玲香が振り向き、彼女のお母さんがこっちを見る。
いきなりすぎるんだよ、玲香。
そういうサプライズ、いらないから。
それって、いまはじめて、説明したやつだよね。
抗議したいけど、ここでそんなことしたら、すごい空気になると思って言葉を呑む。
ふたりの顔、あんまり似てないな。
なんか、左側。
昼間、水槽があったあたりに、もうひとり、人の気配を感じるのだけど、目を逸らしている場合ではないと思って、私は頭を下げた。
「神山結衣と申します。玲香さんには、仲良くしていただいています。春から、いっしょに住まわせていただくことにもなりましたので、どうぞよろしくお願いいたします」
顔をあげると、お母さんは、ほんのり笑顔になった。
あまり表情のない人だ。
「わざわざ、すいませんね」
「いえ」
なんかいい感じかも、と思っていると、お母さんが玲香の顔を見て、
「それだけ?」と訊ねる。
「それだけ」と玲香も応じる。
なにこのやりとり、と思っていると、お母さんがたばこを灰皿から持ち上げて咥える。
白い息を吐いてから言う。
「別にいいのに」
玲香のお母さんは、悪気がある感じとかは全然なくて、単純に、私にまったく興味がなさそうだった。
そして、ひどく疲れてそうだった。
玲香は、ほんとうにまったく、事前には話していなかったみたいだから、急に私が現れて、内心戸惑っていたのかもしれない。
好意的に解釈するなら、だけれども。
私は、もうひとりの気配が気になって、目だけ左に向ける。
こたつの上に、一升瓶が置いてある。
お酒の入ったコップを握りしめている。
アルコール臭かった理由は、この人のせいか。
下半身はこたつに入ったまま、上半身だけをひねって、水槽に顔を近づけ、魚を見ている。
こっちに背中を向けている。
男性だ。
お父さんかな。
そういえば、玲香の口から、お父さんって言葉、出たことあったっけ。
玲香とお母さんが、なにか日常会話のようなものをしゃべっているけど、頭に入ってこない。
まるで、私にしかこの人が見えていないかのように、ふたりは振る舞っている。
この人も、まるで私たちが存在していないかのように、振る舞っている。
確実に、私たちのやりとりが、聞こえているはずだと思うんだけど。
男は水槽を見た状態のまま、一瞥もくれずに、コップの酒を口に運ぶ。
まず、誰なのか。
私は大いに困惑した。
「挨拶もできたし、部屋に戻ろうか」
玲香が部屋に行こうと振り返った。
いや、いっしょに暮らしているんだから、誰であったとしても、挨拶はしないと。
泊めさせてもらうわけだし。
男性を無視して、玲香は部屋に戻ろうとする。
お母さんは、うつむき加減で、灰皿にたばこの灰を落としている。
テレビから、大きな笑い声が響き渡る。
玲香とお母さんが、音に反応して、テレビのほうを向いた。
テレビの中では、芸人さんが雛壇の上で、得意の芸を披露している。
ぶーんという水槽の音と、ふーっと、たばこの煙を吐く音だけが、この部屋から鳴っている。
その男は、酒を飲みながら、赤ら顔で、水槽を見つめている。
なんか、声かけなきゃ、まずいよね。
でも、玲香はなにも言わないし。
お母さんも、この男のほうを見もしないし。
いないものとして扱って、いいの?
いや、無視はさすがに角が立たないか。
無視された側は、間違いなく、傷つくだろうし。
無視した人、みたいに思われたりしても、困る。
常識と非常識の狭間に立ち、私はたじろいだ。
「チッチッチッチッ」
男が舌を鳴らしはじめた。
不快な音に、玲香とお母さんが、ようやく男のほうを向く。
男は舌を鳴らして、魚にかまってもらいたがっている。
犬や猫を呼ぶみたいに。
魚って、そういうのわかるのかな。
というか、水の中にいて、音なんか届かないと思うんだけど。
トントントン。
男が水槽を人差し指の爪で軽く叩いている。
びっくりした魚が逃げていく。
「はは」
男が笑った。
ほかには、誰も笑わない。
みんな、男を黙って見つめている。
沈黙を切り裂くように、バラエティ番組の笑い声が響く。
不協和音のような心地悪さが、私を襲う。
コップを口に運ぶと、中身が空だったのか、男はすぐに口からコップを離して、上半身を戻すと、こたつの上の一升瓶を掴もうとした。
振り返った男と目が合った。
私は、高速で頭を回す。
無言はいちばんだめだ。
なんか言わなきゃ。
同居の話はやめとこう。
もういっかい、自己紹介するのも変だ。
聞いてたはずなんだから。
それじゃ、話を聞いてない人だと、私が思ってることになる。
無難なことを、なにか言わないと。
「今日は玲香さんのお部屋に泊まらせていただきます」
私はお泊まりに対して発言することで、この難局を乗り切ろうとした。
「ああ、どうぞ。泊まっていってください」
男は異常なほど愛想よく、大きな声で応じてきた。
顔だけ満面の笑みで、目の奥はまったく笑っていない。
営業スマイルみたいだった。
ゆでだこみたいに、顔は真っ赤だけど。
そこがまた、私の目には奇妙に映って、それ以上、なにも言葉を発せられなかった。
私は会釈を返して、玲香といっしょに、逃げるように彼女の部屋へと向かった。




