人魚⑭
今回は中止となってしまったが、本来であれば今日はダイビングの予定だったのだ。
事前にダイビングを予約した際、ダイビングサイトにサンプルとして挙げられていた写真や動画には、酸素ボンベを背負った観光客たちが海中で近寄ってくる魚たちと戯れていたり、どこまでも見渡せるように透き通った海の中で楽し気に泳ぐ姿があった。
しかしながらこうして人魚となって海中に潜ってみればそのサンプル写真とは全く違う。
「おっとととと」
気を抜けば体が波に持っていかれそうだ。
海中は陸上から見たよりも荒れており、たとえ人魚といえども波に抗う様に泳がなければあっという間に流されてしまう。
現にそばを泳いでいた魚たちは波に抗えず、瞬く間に海の彼方に消えて行ってしまった。
おまけに海水が大きく動くせいで海底から砂が巻き上がり視界も悪い。
累が予想していた海の世界とは全く異なっていた。
「大荒れですね」
「ダイビングが中止になるわけだ」
「それでアウラの言ってた無人島ってどこなんですかね」
「北にまっすぐって言ってたけど……」
はて今はどこにいるのだろうか。
ぐるぐると波に揉まれていると上下の感覚も次第におかしくなってくるというのにこの広大な海の中で自分らがどのあたりにいるかなどわかるわけがない。
ためしに海面に顔を出してみるが、沖縄本島はすでに見えない。
そして当然のように目的地である無人島の姿も見えない。
完全に迷子だ。
「スマホを持ってくるべきでしたね」
海で落としたら絶対に見つからないなと思って置いてきたのだが、現代人からすると道に迷ったときにはスマートフォンが必須だ。
あれば海のど真ん中でもある程度位置が分かっただろうに。
「とにかく北はわかるからそっちに向かって……なんだろ、あれ」
強い風雨で視界が極端に悪いのだが、その中で光るものがある。
「近づいてみましょうか」
水族館で見たチョウチンアンコウの光に誘われるように二人は近づいていく。
もしかしていきなりぱくっと襲われたりしないよね、と少し警戒しつつも次第にその光の姿が判明すると警戒心が困惑に変わった。
なにせ光源は船舶のライトであり、その船に乗っているのはどう見ても狩人たちだからだ。
「え、なんで狩人?」
「こんな大嵐の中、何しに来たんですかね?」
初体験とはいえ人魚になった状態でも海中を泳ぐのは大変だったのだから、この悪天候の中を船で進むというのはさらに大変に違いない。
波が寄せるたびに船が大きく傾き、時には船が垂直近くになるほど持ち上がって波を乗り越え、そのたびに甲板には大量の海水が流れ込んでくる。
そこに立っている狩人たちは当然と言えば当然だが誰も彼もが不安に満ちた顔をしていた。
しかし累たちと違って目的地ははっきりとしているようで、船はこの荒波の中でも迷いなく暗い海を突き進んでいく。
「スロージアに聞いたんだけど、人魚の女王って嵐を呼べるんだって」
「あれ、そうすると今のこの大嵐って女王が?」
「多分」
アウラの話からすると浜辺で別れてからしばらくして襲われたということなので、昨日の雨が降り出した時に襲撃されたのかもしれない。
そして今まで人魚の女王が嵐を呼び続けている。
とすると狩人の目的はその人魚の女王だろうか。
「嵐を止めるために狩りに来たとかかな」
「ほかにこんな嵐の中で狩人が船に乗ってる理由が見つかりませんね」
「よし、ついていこう」
間違って攻撃されるのも困るので累たちは船から少し離れつつ後を追う。
もし女王やそのしもべである人魚や魚人が現れたとしても、先に襲われるのはおそらくあの船に違いない。
彼らには悪いが案内人兼おとりのようなものだ。
「嵐が止まないってことは女王とアウラの人魚たちがまだ戦ってるんですかね」
「そうかも」
「しかし狩人もよくこんなところまでやってきますね。人魚に沈められた船なんて山ほどあるのに」
普通に考えると自殺行為に思える。
それでもやってくるのは彼らがおそらく協会の狩人だからだろう。
この大嵐が続けば当然人々にも被害が出るだろうし、それを止めるためには危険を覚悟で海に出るしかなかったということかもしれない。
人々の安全を守るという協会の狩人らしい考えだ。
「気合い入れれ! 奴らに負けるわけにはいかん!」
甲板に立った一人がそう気合いを入れた。
どうやら地元の人間のようで訛りが混じっている。
「そうだ! うちなーの海は俺らが守るんだ!」
「何が人魚だ! 俺らは海人だ! 負けるわけねぇ!」
「うちなーの狩人の強さを本部の連中に教えてやっどー!」
不安に満ちていた狩人たちが続くように声を上げ始める。
話を聞く限り協会の狩人であることは確かなようで、やはりこの嵐を止めるためにやってきたらしい。
「勝手なことを言いやがる東京もんにも横から依頼を奪うグリムどもにも負けんぞ!」
「……ん?」
「何が魔女だ! 狩人の真似事しやがって!」
「それを認めてる本部の腰抜けどもに俺らの強さをわからせてやっどー!」
思わず累とフィズは顔を見合わせてしまう。
なんだか想像していたような雰囲気ではなく、話を聞いてみればかなり個人的な理由でここまで来ているように思える。
そういえばカザリが「支部の人間がよく思わないかも」とか言っていたがなるほどその通りだと身をもって理解した。
「どうします?」
「いやどうもこうも」
とにかく見つかってもいいことはないので静かに海中に身を潜める。
悲壮な覚悟で人魚を狩りに行くのかと思いきやまさか協会本部と魔女への対抗心でこんな海に出てくるとは、少しがっかりしたが逆にその対抗心でここまで来られる神経はすごいと累は素直に感心した。
美しい沖縄の海を守るためにも彼らには無事生きて帰ってほしいところである。
そうして甲板で熱烈に意気込む狩人兼海人たちを見守りながらしばらく泳ぎ続けていると、ようやく前方に島の面影が見えてきた。
「あれが目当ての無人島みたいですね」
「うん。となるとそろそろ人魚たちが――」
そう言いかけたところで前方を進んでいた船がガンっという音と共に冗談のように吹き飛んだ。
大きく宙を舞い、そして盛大に水しぶきを上げて再び海の上へと戻る。
甲板にいた狩人たちは衝撃で海に放り投げられているものの、幸い全員無事のようだ。
さすが海人である。
「何ですか今の?」
それを確かめるために累は海中へと潜る。
そして「うそぉ」と思わず声が出た。
そこにいたのは控えめに言えば巨大なイカだ。
ルシアンが水族館で見ていたダイオウイカを思わせるフォルムだが、とにかく大きい。
海底からこちらを見上げるようにしてぽっかりと開いた口はヤツメウナギを思わせるいくつもの鋭い牙がぎっしりと並び、しかもその牙一つ一つが人間よりも遥かに巨大だ。
口元を覆うようにして生えている触腕は海底から海面へと届くほどに長く太くこれが先ほど狩人の乗った船を吹き飛ばしたのだろう。
そしてその触腕と口を備えた巨大な胴体はイカのようなフォルムではあるが色合いは沼や苔を思わせる濁った緑色であり、その体が暗い海底の先まで伸びていてどれほどの大きさなのかわからない。
「でっかいですね……」
「クラーケンだ」
古くから船乗りたちに恐れられていた海の怪物。
こんな怪物が海にいると知られれば世界中のビーチから人間がいなくなるに違いない。
ダイビングする人間だって二度と現れないだろう。
人魚の姿を借りて海を自在に泳げる累であっても、これほどに巨大な怪物を見れば海とは不気味な場所だと背筋が少し寒くなるのだから。
そしてそんなクラーケンの陰から現れたのは二人の魚人だ。
彼らが互いに争わないということは、あの魚人もそしてクラーケンすらも一つのまとまりということになる。
「アウラの相手はずいぶんな化け物だったみたいですね」
「そうだね」
フィズがどうしますか、と視線を向けてくる。
目的は女王の討伐だ。
それだけを考えるならばクラーケンを無視して女王を狙うのがいいように思えるが、あとから挟み撃ちになるようなことは避けたい。
「フィズは女王をお願い。ここは私が何とかするから」
「斧だけで大丈夫ですか? あの大きさなら私が残ったほうが……」
「いや、フィズだと上の海人たちがさ」
確かにフィズならクラーケン相手でも安心なのだが、それだけの力を使えば上の海人もとい狩人たちは正気でいられないだろう。
そんなことになればただでさえ悪印象を持っている沖縄の狩人がさらに敵対的になりかねない。
沖縄にはまた旅行に来たいと累は思っているので現地の狩人の評価は良くしておきたいのだ。
「ほんとに足手まといですね。何しに来たんですかあいつら」
「いやクラーケンは相手が悪すぎるって」
海中のグリムというのはただでさえ厄介なのにクラーケンともなれば普通の狩人ではまず討伐は不可能だろう。
たとえ沖縄の海を知り尽くした海人であっても、その気合は認めるがさすがに相手が悪すぎる。
「せ、船長! し、し、下に化け物が!!」
「まずい! 船に上がれぇ!」
「あんなの見たことないぞ! どうするんだ!? 船も動かん!」
「落ち着けぇ! 海人魂を見せろ! なんくるないさぁ!」
「……なんくるなる状態じゃないでしょうに」
「そもそもなんくるないさってどういう意味?」
「なんとかなる、ですね」
「じゃあ確かになんくるならないね」
海面に浮かんだ海人たちもどうやらクラーケンに気が付いたらしいが、フィズの言う通りどう頑張ってもなんくるなる状態ではない。
その証拠に触腕の一つが船を掴み始めれば船体はミシミシと悲鳴を上げ、狩人たちも同様に悲鳴とも絶叫とも雄たけびともいえない声を上げてパニックになっている。
斧や槍などで触腕を攻撃するがクラーケンにとっては蚊に刺されたようなものなのか怯みすらせず、仕方ないと累は海中から船を掴んでいる触腕へ手斧を思い切り振りきった。
「でかすぎ」
部分的に切断はできたが一太刀で両断は到底不可能だ。
それでもパニック状態の狩人たちに比べればはるかにダメージを与えたようで、クラーケンの触腕が嫌がるように船を手放し海底へと沈んでいく。
だがその一撃で敵認定されたのか、薄暗い海底で淡く光るクラーケンの瞳がこちらを向いたように思えた。
「フィズ、手を」
「?」
不思議そうにしながら手を差し出したフィズの腕に、累はアウラと同じように爪を突き立てた。
「ああん!」
アウラと違ってフィズは嬌声を上げて体をくねらせ喜んでいるが、本当に時と場所をわきまえてほしいところである。
しかし目当てのオドは腕に格納できたのでさっさと手を離し、こちらを見上げるクラーケンとそばに侍る魚人たちに向かって累は斧を構えた。
「フィズは女王を狩ってきて」
「え、でももうちょっとオドを吸い取ってくれてもいいんですよ? ちょっと物足りないですし」
「そういう場合じゃ――うわ!」
触腕がその巨大さとは裏腹にとてつもないスピードで累を掴もうと迫ってきた。
海水の抵抗などまるでないかのような速さに累は驚きの声を上げながらフィズを引っ張って咄嗟に回避する。
しかしクラーケンの触腕は一つではない。
四方八方三百六十度どこからでも襲い掛かる触腕に捕まれまいと累は全速力で海中を泳ぎ回った。
「ほらもう余裕ないから行って!」
「おのれクラーケン……わかりました。行ってきます!」
累とフィズが二手に分かれ、クラーケンはどちらを掴むべきか悩んだようだがすぐさまターゲットを累に絞ったようだ。
「それはそれで構わないけど」
おかげでフィズはクラーケンの脅威からは逃れられるだろう。
ただ魚人はフィズを追って行ってしまった。
「心配しないでくださーい!」
追いかけられながらも海の彼方にそう言って消えていくフィズを見れば心配することはなさそうだ。
そうして累は改めてクラーケンの巨体を見下ろす。
本当にとてつもないほどの巨体であり、水族館で見たジンベイザメのインパクトが薄れるほどだ。
怪獣映画でもないのにこんな巨体の怪物とたった一人で戦わなければならないとは、冷静に考えてみても意味が分からない。
「旅行に来たんだよね」
口に出して本来沖縄に来た目的を思い出すが、クラーケンにかき消されてしまっているのかなんだか旅行の記憶がおぼろげだ。
どうしてこんな目にあっているのだと文句を言いたいが誰に言えばいいのかもわからず、ひとまず累はこの苛立ちをクラーケンに向けると決めた。
「さっさと倒して、今度こそ仕事を終わらせて、最終日は絶対に旅行を楽しむ」
累はフィズから吸い取ったオドを武器へと付与する。
これを普段使うのは気が引けるが、今回ばかりは仕方がない。
なにせ三泊四日の旅行もいつのまにやら明日で最後であり、特に楽しみにしていた三日目のダイビングは中止になってしまった。
今更すべてを取り戻せるとは思えないが、せめて最終日はエンジョイしたい。
そしてそのためならばどんな手だって使う覚悟だ。
それがフィズのオドを使うことだとしても、その被害にカザリが白目を剥いたとしても、旅行を楽しむためには全てが許されるのだ。
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