四重奏①
いつもと変わらぬ暗闇の中、涼やかな風にまぎれた夏の匂いが季節の移り変わりを教えてくれる。
そろそろ心地の良い季節が去って寝苦しい猛暑が訪れるのだろうと思えばうんざりするが、それでもこの周辺の夏は涼しい気候だ。
ここよりも暑いといわれる都会の住人はどう過ごしているのだろうと彼女が考えていると、小屋の扉を誰かが強く叩いた。
相手は彼女がまだ寝ていると思っているのかずいぶんと強く叩いているが、彼女はこの日を待ちわびていたのでいつもよりも早く起きている。
ちょっとしたいたずら心を胸に秘め、彼女はいかにも今目を覚めましたよといった風に応えた。
「あーはいはいちょっと待ってなよ」
声に反応してドアを叩く音が途絶え、彼女はその長身を寝かせていたベッドからのそりと起き上がらせる。
たとえ視界が暗闇ばかりでも人間よりもずっと鋭い彼女の鋭敏な感覚と人間にはない感覚器官のおかげで体をどこかにぶつけるということもなく、手慣れた様子でポットのコーヒーをカップに注ぎ目覚めの一杯をまずは楽しむ。
ドアの向こうの訪問者は待たされた形になるが、これくらいで怒るような人物ではない。
軽く一息をついてからドアを開けば予想通りの人物が立っていた。
「ほら入りなよ」
「まずはおはようだろう。時間的にはこんにちはだがな」
「ああ、おはよう。じいさん」
彼女の眼には何も見えていない。
しかし目の前の老人が渋面を作ったことはわかった。
「服を着ろ。まるで痴女だぞ」
「じいさん以外こないだろ? まぁ座ってくつろぎなよ」
寝るときは下着だけだったので当然今も下着姿だ。
別に老人に見られたところで恥ずかしくもないし恥ずかしい体をしているとも思っていないが、老人が嫌がるのならば服を着なければならない。
これが別の人間であれば知ったことでもないのだが、老人には何かと世話になっているので邪険にはできないのだ。
「一週間分の食料と頼まれていた消耗品だ」
「助かるぜ。いつもありがとな」
老人が背負っていたバックパックをどさりとテーブルの上へと置く。
小さな小屋の中にあるのはテーブルとベッド、そして大量に山積みになった本だ。
それと台所周辺だけは調味料が豊富だったり包丁が何種類かあったりと彩が豊かである。
「その本は全部読んだのか。相変わらずどうやって読んでるのかわからんな」
「あー読むって言っていいのかな? いやアタシの一部だから読んだことになるのか? まぁいいや。最近はこっちで読むほうがほとんどだけどな。じいさんが持ってきてくれたこれ、すごい便利だぜ。映画も見れるし」
「タブレットか。電子書籍やらサブスクやら全部それ一つで済むからな。便利になったもんだ」
「さぶすく? よくわかんねぇけど便利ならいいことじゃんか。こんなとこにいると暇で暇で。こいつのおかげで人生にだいぶ色が付いたぜ。バラエティー番組なんかも面白くってさ~あとは旅番組とかもよく見るな」
服を上下着て老人を見れば、何やら沈んだ顔をしている。
もちろん見えないのでそういう顔をしているのだろうという感覚があるだけだが間違いではないだろう。
老人は躊躇いがちに口を開いた。
「そんなに外に興味があるならここを出てもいいんじゃないか?」
「おーいおいおいおいおい。またその話?」
テーブルを挟んで老人の前へとどかりと座る。
乗っていたバックパックが邪魔なので床へと下ろし、見えてはいないが老人の瞳をまっすぐ見つめる。
「アタシだってさぁ、別にここにずっといたいわけじゃないんだぜ? でもだからってここ以外に落ち着けるとこなんかないだろって話さ」
「……私の家に来れば」
「おいおいその話も散々したじゃんか。じいさんには感謝してるからもう十分だって。もしじいさんの家に転がり込めばもっと迷惑を掛けちまう。そっちのほうがアタシは困るんだよ。まぁ毎回ここまで来てもらってるのも十分迷惑かけてるとは思うんだけどさ」
「それは好きでやってることだ。気にすることじゃない。だが私もいい歳だ。ここに来られなくなったらどうする? 私が死ぬまでにはお前がこの先も無事に生きていけるっていう道筋を立てておきたいんだよ」
「それは……」
言葉に詰まり、彼女は寝起きだというのに寝ぐせ一つない艶やかな緑髪を困ったように掻き毟る。
「そんなに心配すんなって。生きてくだけなら自給自足でもなんでもすりゃいいし。ほらこの森ならなんかとれるだろ。適当にキノコかなんか生えてんじゃねぇか? 熊もいるって話だし、なんか食えるだろ」
「ルシアン……」
「とにかくアタシなら大丈夫だって。そういや腹減ったな。寝起きで何も食べてなかったから何か作るか。じいさんも食べるだろ?」
「……お前の作った食事はうまいからな」
「他にすることないからな。最近じゃタブレットで動画見てるおかげでさらにうまくなってるんだぜ?」
今のはその眼でどうやって動画を見てるんだ、という突っ込み待ちだったのだが老人はそこまでのってはくれないようだ。
とはいえ老人が今回は諦めてくれたことを感じ取り、彼女――ルシアンはばれないようにほっと息を吐く。
別に老人と暮らすのが嫌なわけではない。
むしろ一緒に暮らせたとしたらそれは楽しい毎日だろう。
しかしそれはただの人間である老人をグリムと狩人の危険な世界に巻き込むことでもある。
「さてと、何を作るかな」
半ば話を切り上げるためだったので料理はノープランだ。
ひとまず何が残っていたかと台所を漁ってみればパスタが一袋分残っている。
これでいいかとパスタにすることは決定したが、味付けはどうするか。
「にんにくか」
これならペペロンチーノでいいか、とメニューは決定した。
老人とは今更にんにく臭いなどと気にする間柄でもないので問題はない。
相変わらず暗闇ばかりの世界だが、パスタを茹で始めるのと同時にニンニクを手早くみじん切りにする様は眼が見えているようにしか見えないだろう。
実際老人には何度も見えているのではと疑われている。
「眼が見えてるのか?」
「はは、もうそれお決まりだな」
今でも疑うのか、と苦笑しながらフライパンにオリーブオイルとニンニクに唐辛子を入れて炒め、ゆであがったパスタを混ぜて皿へと盛り付けパセリを散らす。
さほど時間をかけずにあっという間に完成だ。
テーブルへと置けば老人がフォークと飲み物を用意してくれていたようだ。
「ではいただこう」
「ボナペティ」
老人とともにペペロンチーノを口へと頬張れば、にんにくの香ばしい風味と強めの辛さが食欲をそそる。
ここに吸血鬼がいれば裸足で逃げだすような匂いがしたかもしれないが、ここにはそんなことを気にするグリムはいないため、二人がパスタを頬張る音が静かに響くだけだ。
「静かだなここは」
「森の中だからな。夏場になると虫の声とかがうるさいんだけど、今くらいの季節なら鳥の声がするくらいで居心地は悪くないぜ」
「そうだな。空気もいい」
「でもここ自殺が多いんだろ? タブレットで見たぜ」
「……まぁ、そういう噂はあるな。実際のところは知らんが」
「ふーん」
別に気にしないが人間からすると不気味な場所なのだろう。
そんなところに毎回来てくれる老人にも感謝しなくてはいけない。
「あのさ、さっきの話はもう少し真面目に考えてみるからさ。もうちょっと待ってくれるか? じいさんの言いたいこともわかるけど、アタシみたいなグリムが人間の世界で生きるってのは想像以上に難しいもんだからさ。ここから離れるにしてもいろいろ考えないとな」
「そうか。そういう気になってくれただけでも前進だな。ただ、決断はなるべく早くしてくれるか?」
「なんでだよ? 爺さんまだまだ元気だろ?」
「当たり前だ。まだ死なん」
はぁっと老人がにんにく臭いため息をついて見せる。
死なないなら問題ないじゃないか、と思ったのだがどうやら老人が抱える問題は大きいものらしい。
「またお前のことを探し始めた。場所はわかってないみたいだが、狩人に依頼して情報を集めている。いや正確にはお前というわけではないんだろうが……」
「同種族を探してるってことか」
こくりと老人が頷く。
予想していなかったわけではないので驚かないが、人間はしつこいなと感じずにはいられない。
むしろそれほどに欲望が強いと感嘆するべきなのだろうか。
「わかった。今度じいさんがくるまでには考えておくさ」
「そうか。じゃあまたな。何かあればそのタブレットで連絡をよこせ。いつでも出られるようにしておく。あと私からの連絡もそれでするからちゃんと出るんだぞ」
「はいはい。けどアタシはじいさんよりこれに詳しくないんだからすぐに出なくても文句言うなよな」
老人が躊躇いがちに扉を開き、そして樹海の中へと消えていった。
本来であればこうして老人と会うことすら止めたほうがいいのだろうが、この小さな小屋にたった一人とり残されるというのは寂しいものだ。
ならばいっそ老人の言う通り一緒に暮らしてみても、と思うがそれを彼女は頭を振って外へと追いやる。
狩人の話を聞いたならばなおさらのこと、老人と暮らすわけにはいかない。
「はぁ、グリムってのは生きづらいもんだ」
空を見上げても彼女の瞳には暗闇しか映らないが、その広大な空に憧れるような彼女の声は樹海のざわめきに消えていった。
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