妖精㉘
これは夢なのだと認識できることがある。
なぜなら累の視線の先に立つフィズは怒りに紅潮した顔でこちらを睨みつけているのだ。
今まで一度だって彼女がそんな瞳を向けたことはない。
だからこれは夢なのだろう。
そんなフィズに向かって自分も何かを口走っているのだが、累にはその言葉が聞こえない。
だがフィズにはしっかりと聞こえたようで、その言葉に反応し顔色を変え、そして――
「累さーん。起きてくださーい。あっさでっすよー」
「んん……」
明るいフィズの声にカーテンが引かれる音。
また新しい朝が来たのだとぼんやり理解するが、顔をそむけたくなるほどの日光の眩しさに累はうめき声をあげて抵抗して見せる。
薄く瞼を開ければ至近距離でフィズがじっとこちらを見つめていた。
夢の中の彼女と違ってだらしない笑みを浮かべたいつものフィズだ。
「おはようございます。朝ですよ」
「ん」
カザリが見たら意外だと驚くかもしれないが、フィズは必ず早起きをして朝食の準備をするのだ。
累のための着替えなども用意し、準備を終えるとこうして起こしに来るのだが、最近になって変わったことがひとつある。
「パン焼きますけど店長とフィズ先輩はジャムとマーガリンどっちっすか?」
下の階から朝食の付け合わせと思われるスープのいい匂いとともに、快活な女性の声が響いた。
「累さんは両方で私はマーガリンだけですよ。次から覚えてくださいね」
「了解っす!」
「フィズもハクも朝早いね」
「いろいろと今教え込んでるところですからね。筋は悪くないですよ」
そう言いながらフィズは累を風呂場へと連れていき、手慣れた様子で下着を脱がすと自分も服を脱いで一緒にシャワーを浴び始めた。
熱すぎないちょうどいい暖かさの温水で、フィズが丁寧に累の髪を洗う様は熟練の美容師のようにも見える。
累の脳内が徐々に覚醒し始めたところでシャワーは終了だ。
体が冷えないようにとバスタオルで累の体をよく拭き、ドライヤーで艶のある美しい髪へと仕立てる。
そして下着を履かせ、服を着せ、これで新しい一日の始まりである。
「完璧です」
星が煌めきそうなほどの仕上がりにフィズは満足げに頷くと、累を連れて階下へと降りて行った。
そこにはバーカウンターから顔をのぞかせたハクと、テーブル席にはグラスに注がれたミルクと朝食が用意されている。
メニューはほうれん草のバターソテーにベーコンエッグとトマトのミネストローネ。
そしてハクがちょうどウェイトレスのように持ってきたトーストだ。
「おはようございます店長」
「おはよう」
バーの客が増えたとはいえバーカウンターで収まりきる程度の人数なので、このテーブル席を使うのはほとんど累とフィズだけだ。
そして少し前からここにハクも加わっている。
「はいトーストっす。店長はジャムとマーガリンでフィズ先輩はマーガリンだけっすよね。自分はハチミツっと」
ハクが各々のトーストを皿へと配り、累とフィズの前の席へと座る。
朝食の準備が整ったのを見届け、累は二人と声をそろえた。
「「「いただきます」」」」
もくもくとトーストを齧りながら、ハクも随分この生活に慣れたなと累は感心していた。
彼女がここにきたのは今から一週間ほど前のことだ。
カザリとギブソンが協会へいろいろと説明や報告を行い、妖精の夜会の危険性や予想外の魔女の登場に加えて、吸血鬼に魔剣にハクのことなど内部では大変な騒ぎだったらしい。
上層部で何度も会議が行われ、しばらくたってカザリが亡者のようにふらつきながら結果を報告しに来たのだが、その内容に累は正直驚いたものだ。
まず協会と累たちの関係性はこれまで通り維持ということで決まったらしいが、依頼通り働いたのだからこれは当然だろう。
しかし狩人を救ったことと魔剣を依頼通り手に入れたという点が大きく評価されたようで、協会から感謝の言葉が届いたのだ。
それも日本協会トップの人間からである。
『優秀な狩人を救ってくれたことに心から感謝している。そして感謝を示すために、私が日本協会本部長でいる限り、手に入れた魔剣は使い手が現れたとしても決して君たちや今回協力してくれた瀲の魔女に振るわないと誓おう。君たち二人とはグリムと人間という垣根を超え、これからも手を取り合っていきたい』
という狩人とは思えない実に好意的な言葉だった。
無論『トップにいる間』という条件は付いているし、そもそも協会は先に別の魔女を狩ろうとすることが予想されるため、この言葉自体にさほど強い力はない。
いざとなれば本部長を入れ替えて累とフィズを狩ろうとすることだって十分あり得るが、それでも協会のトップがこうして礼を表したというのはしばらくの安全を担保してくれるものだ。
カザリの話ではギブソンがずいぶんとフォローしてくれたようで、幹部の中での累とフィズの評価が一部を除いてかなり好印象らしい。
もっともギブソンがフォローした理由はそれだけではなかった、というのはこの後のカザリの話でわかるのだが。
『ハクは協会の狩人から除名された。狩人とはいえグリムを協会に置くことはできないという意見が強くてね。幹部の中にはハクを引き留めようとしてくれる人もいたんだが、とある幹部がハクが吸血鬼になったことを協会内に広めてね……。おかげで幹部よりもその他の狩人の拒否感が強いんだ。むしろハクの身が危ないと思えるほどだったから、ギブソンとも相談して協会からは離れることにしたってわけさ。というわけで君らのとこで預かってくれるかい。ギブソンが君らの評判がよくなるよう普段じゃありえないくらいに喋ってたんだからさ。頼むよ』
そうカザリに頼まれ、翌日には例の巨大なくまを背負ったハクが店の前に立っていたというわけである。
フィズも最初は嫌がっていたものの、ハクに雑事を仕込めばより累のそばにいれる時間が増えると考えたのか、途中から率先してハクにあれやこれやと教え始めたのだ。
次第にハクもフィズを先輩と呼ぶようになり、料理洗濯掃除などを学ぶならばともかく、三日も経つ頃には『店長はフィズ先輩の言う通り何を着ても似合うっすね~』とか『フィズ先輩の撮った写真だとこれが一番店長が盛れてるっす』とか、だんだんとフィズと感性が近くなっているように思えてならない。
魅了はされていないが洗脳はされているのではないだろうか、と累は次にギブソンと会う時が少し怖かった。
責任をとれ、と斬りかかられても困る。
「店長がトーストを齧る姿はリスがもくもく食べてるみたいで可愛いっすね」
「ハクもだんだんと目が肥えてきましたね。累さんはどこを切り取っても胸にきゅんとくるお人ですが、それに気づけるとはなかなかです。とはいえ累さんと私の間に入ってきたら処刑ですけど」
「大丈夫っす。自分は推しに直接触れるのはNGな人間……人間でなくて吸血鬼っすけど、とにかく分はわきまえてるっす」
「ならいいです」
「……いいのかな」
累の疑問に二人は何も言ってくれない。
別に嫌なわけではないが、このハクを見たときのギブソンが怖いなと思う。
カザリには事前に報告したほうがいいかな、と考えながら話を変えようと累は口を開いた。
「寝心地はどう。部屋は慣れた?」
「全然大丈夫っす。むしろ協会の寮より部屋が広くて居心地がいいくらいっすね」
「協会って寮があるんですね」
「三等狩人は無料で入れるっすよ。二等狩人から有料になるので寮を出る人が多いっす」
「会社みたい」
実際協会は普通の会社に偽装して運営されているので違いはないのかもしれない。
この建物は一階がバーで二階は累とフィズのプライベートフロアだ。
地下にも部屋がいくつかあるが、武器庫や酒を置いたりとほとんど倉庫みたいになっていたので、その一部屋を空けてハクに入ってもらっている。
吸血鬼だから日の当たらない部屋のほうがいいだろうし丁度いいか、と思ったもののハクは日光に弱くないということが分かったのでその点はあまり意味がなかった。
とはいえ本人が気に入っているようなのでいいだろう。
朝食を食べ終えると累とフィズは買い出しだ。
ハクは店内の掃除を行い、累とフィズが戻ってくると夜の営業に向けての準備を行う。
新米店員のハクはバーテンダーしては当然まだ働けないので、食器洗いや累とフィズのまかない作りがメインだ。
とはいえ三人でばたばたと働くほどの客の量ではないので結構暇しており、ハクはその時間を使ってカクテルの勉強などをしているようだった。
ちなみに狩りに行かないのか、といえばあの依頼から行っていない。
これは累がしばらく店の営業を優先したいと思っているためと、前回の依頼がハードだったのでしばらく休みたいというのが全員の共通した思いだったからだ。
「……久しぶり」
「久しぶり」
終電も近づき店内に客がいなくなったころ、店の扉を開いたのはスロージアだった。
妖精の夜会前は頻繁に来ていたというのに、夜会後に来るのは今日が初めてである。
「来てくれないのかと思った」
「戦利品の整理とか、ほかにもちょっとやらないといけないことがあってね。別にばつが悪くて顔を出しにくかったとか、そんなんじゃないから」
「ほんとだよ? 早くいかないと累が寂しがるかもってスロちゃん心配してたくらいだから」
「それは言わなくていいのよ!」
はぁっとため息をついてスロージアはバーカウンターへと座った。
二人に出すカクテルは決まっているのでいつものように何も言われずともスロージン・フィズを差し出す。
スロージアもプラムも最初に店を訪れたときからのお気に入りのようで、必ず一杯目はこれなのだ。
「結局あんたもここで働くことになったのね」
「あー、はい。その節はどうもっす」
「ハクは協会をクビになったので、普段は店で働いて狩りの時は累さんのお手伝いです。今は新米店員として私がビシバシ指導しているんですよ」
「クビ……まぁ、そうなんすけども」
ハクはクビという言葉に少し落ち込んでいるようだが、グリムなのに物理的に首を斬られなかったことを喜ぶべきだ。
まだそのあたりの感覚が人間よりなのは仕方ないとはいえ、グリムとなった以上は人間との距離感を間違えると危険なことになりかねない。
そのあたりも累とフィズならばフォローできると考えてカザリはここにハクを預けることにしたのだろう。
「思ったより三人でうまくやってそうじゃない。フィズが面倒見るなんて意外だけど」
「いやぁ、ははは……。でも思ってたよりフィズ先輩は優しいっすよ。もちろん店長も」
「当然ですね」
最初の態度を見ると当然なのか? と首をひねりたくなるが、うまくやっていることは事実なのでスルーだ。
「スロージアさんとプラムちゃんもお元気そうでよかったっす」
「えへへ。また会えてよかったね」
「はい!」
そこからは他愛ない話でしばし盛り上がった。
妖精の夜会のことにハクがこの店に来てからのこと。
ここにはグリムしかいないからかそれとも同じ苦難を乗り越えたためか、五人は誰が主役というわけでもなく互いに言葉を投げかけあって――途中でプラムは寝てしまったが――気づけばとっくに零時を過ぎてそろそろ深夜一時である。
そして会話に夢中になっていたグリム達を現実に引き戻したのは来店の鐘だった。
「この時間に盛り上がってる声がしたと思ったら君らか……」
「魔女が普通にいるのだな。この店は」
「先輩! カザリさん!」
とっくに終電はないだろうに、この時間帯になって現れたのはカザリとギブソンだ。
ハクの嬉しそうな表情と変わりない様子に安堵した顔のギブソンがカザリとともに席へと座る。
「ギブソンがこの店の場所がわからないっていうもんだから案内するって言ったんだけど、これがなかなか現れなくて」
「狩りに手間取ってな。しかしハクは元気そうでよかった」
「はい! 店長とフィズ先輩によくしてもらってるっす!」
「先輩?」
怖がっていたフィズのことを先輩と慕っているのは予想外だったのだろう。
片方しかない瞳をこれでもかと見開いて驚いている。
「注文は?」
「私は車だからノンアルコールのジュースか何かでいいよ。ギブソンはどうする?」
「あまり酒には詳しくなくてな」
「お酒には強いの?」
「弱いわけではない。家でも飲むしな。単に銘柄に興味がないだけだ」
「なら先輩に飲んでほしいカクテルがあるっす」
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