妖精⑯
ハクの視界に広がるのはここで最初に見たような花園だ。
しかし異なるのはここが渓谷のようになっていて、左右を巨大な岸壁に挟まれていることだ。
おそらく谷底なのだろう。
「え? え?」
急に場所が変わったこと、周囲に誰の姿もないこと、そしてたった一人でいるという事実に気づいたことでハクの脳内は途端にパニックになった。
不安に満ちた顔で隠れる場所を探すがあたりは花々と岸壁ばかりで何もない。
もしここで妖精に襲われでもしたら逃げ隠れできずに瞬時にあの成れ果てたちと同じ結末になる。
「あ、えっと、どうしよう! そうだまずは武器を!」
大慌てで背負っていたリュックから取り出したのは、狩人になった時に初めて購入したドワーフ製の手斧だ。
グリムの武器を使うことに多少の抵抗感はあったものの、品質は素晴らしいからと同僚に進められて購入し以降は決して手放せない相棒だ。
この手斧のおかげで生きてこれたといってもいいくらいで、手に掴めば徐々に呼吸も落ち着き始めた。
「そうだ。先輩も冷静さが大事だって言ってたし……ふぅ、深呼吸」
視界も次第にクリアになってくる。
改めて見渡せば本当に花々ばかりで左右の岸壁は掴むところもなく登るのは難しそうだ。
となるとこの谷底を歩いていくしかないのだが、前に進むか後ろに進むかどっちが正解かわからない。
そもそもここはどのあたりなのだろうか。
「何か役に立つ霊薬はあったかな」
リュックの中には霊薬に魔術具を詰め込んでいる。
役に立ちそうなものは嗅覚を向上させる霊薬か聴覚を向上させる霊薬くらいだ。
どちらかを使えば誰かほかにいないかわかるかもしれない。
「距離が離れすぎてると意味ないんだけどね」
試しに聴覚を上げる霊薬をこくりと飲みほしてみる。
聞こえるのは谷底を流れる風の音と花々が揺れるざわめきだけだ。
前に狩りで使用したときはグリムの息遣いや鼓動の音が聞こえるほどだったのだが、今回はどうやら役に立たないらしい。
ひとまずグリムの気配がないことに安心したものの、求めていた仲間が近くにいないというのは絶望的だ。
「音がしないってことはこっちを使っても無理だよね。どうしよう……誰もいないなんて」
「私がいますけど」
耳元でささやかれた言葉に口から心臓が飛び出るほどの衝撃が走った。
ギクシャクと死にかけのカエルのように飛び跳ねながら振り向けば、そこに立っているのは白髪の美女。
誰かと会いたかったが、その中で一番出会いたくなかった人物。
「うわぁあああ!」
「え、ちょっとなんで悲鳴を上げるんですか。ショックなんですけど」
思わず声を上げてしまった。
わざとらしく頬を膨らませ不満を表すフィズに対して、ハクは再びのパニックをどうにか落ち着かせることに必死だ。
(おおおおおお落ち着け! 魅了されないためにはまず冷静に、そして強い意志を持たないと……こんなパニックになってちゃだめだ!)
ふうふうと荒い息で深呼吸を繰り返すハクをフィズは怪訝な目で見ているが、そんなことを気にしている余裕はハクにない。
それよりもじっとこちらを見つめないでと叫びたいくらいだった。
「フィ、フィズさん一人っすか?」
「見た感じそうみたいですね」
おかしな話だ。
さきほど聴覚を強化したときには足音も鼓動も呼吸音すら聞こえなかったというのに、急に背後に現れたのはいったいどういうことなのか。
いや魔女だと思えばそれくらいはやってのけるのかもしれないが、わざわざ音を立てずに声をかけるのは性格が悪い。
「あれ間違えました。そこにも一人いましたね」
「え?」
ギブソンかカザリがいてくれればと期待したのだが、フィズが指さした先には誰もいない。
しかしよくよく見れば花々に埋もれるようにして液体の塊が鎮座している。
大きめの猫くらいの大きさでピクリとも動かないが、こんなものが自然に存在してるとも思えない。
「こ、これっすか?」
「そうですよ。寝てるみたいですね。ほらプラム起きてください」
「プラム?」
あの膜を張って守ってくれたドームのようなグリムの名前だ。
フィズがそのプラムというグリムをつついて名前を呼ぶと、水の塊が伸びをするように大きく広がりそしてぶるぶるっと震える。
「あ、おはようフィズ。お花の香りが気持ちがよくて寝ちゃった」
「そうですか。相変わらずマイペースですね。それよりその状態だと話しにくいし首が痛いんでいつもの姿に戻ってもらえます?」
「うん。ちょっとまってね」
見る見るうちに水の塊が人型となり、そして先ほどまで一緒にいたスロージアという魔女とうり二つの少女となった。
しかし髪色や着ている服など微妙な差異が見られる。
「スライム? だったんすね……それにその姿」
「見た目はスロージアですけど中身はプラムですよ。双子だと思ってください」
「ふたご? ふたごって?」
「あーなんて言えばいいんですかね。一心同体、いやまぁそっくりってことでいいのかな」
スライムならば聴覚に反応がなかったことも納得だ。
呼吸はしないし動いていないならば足音、というか移動音もない。
しかしスライムが妖精などのグリムを撃退しあまつさえ言葉を話すなど聞いたこともなかった。
「えっと、とにかくこの三人だけなんすかね。この辺りにいるのって」
「そうだと思いますよ。近くに累さんがいたらすぐわかるので」
「プラムもスロちゃんがいたらすぐわかるよ。ここにはいないみたい」
非常にまずい。
一応は協力者とはいえ相手はグリムだ。
どちらか一方だけでも勝てる気は全くしないのだが、そんなグリムが二人も目の前にいる。
猛獣を放たれたような気分で落ち着けない。
「それじゃあ……列車の方角がわかる人は?」
「わかりませんね」
「わからないよ。なんでプラムたちはここにいるんだろ。スロちゃんどこ行ったのかな?」
「そっすよね。わからないっすよね……」
手詰まりだ。
一刻も早く誰かと――できるならギブソンかカザリと――合流したいのだがどこに向かえばいいのか検討もつかない。
そこでふと思い出したのはフィズが何だったのかということだ。
(そうだ。魔女だよ。魔術で探すとかしてもらえばいいじゃん)
魔女に魔術を使ってとお願いするのは吸血鬼に牙を見せてとお願いするようなものだがこの際は仕方ない。
腕輪をさすりながら意識を強く持つよう心掛けてハクはフィズへと話しかける。
「あの、フィズさんの魔術で合流できたりとか……せめてどこにいるかだけでもわかればいいんすけど」
「できますよ」
「ほんとっすか!」
「でもおすすめはしませんね」
喜んだのもつかの間、フィズは微笑みながらも困ったような顔を見せた。
相も変わらず端正な顔立ちで気を許せば魅了されかねないのだが、赤い月の下にいるせいかその表情には影ができて何かしら悪だくみでもしているように見えてしまう。
「何か問題があるんすか?」
「だって私が魔術を使ったらたぶん魅了されますよ。魔術はオドを使うから魅了が強まるんですよね。私がほんの少し魅了してみようかなと思った程度で駄目だったんですから、魔術なんか使ったら戻ってこれないんじゃないかと思いますけど。それでもやってみます?」
小ばかにするように目を細めながらくすりと笑う。
しかしそんな挑戦的なフィズに対して挑めるほどハクは無鉄砲ではない。
自分が魅了にあらがえる可能性はほぼ皆無だと理解している以上、魔術を使ってほしいなど言えるはずもなかった。
「やっぱりやめとくっす」
「それがいいと思いますよ。魅了されたみたいなので処分しました、なんてあなたの先輩に言ったところで納得してくれなさそうですしね。あと一応言っときますけど私は魅了を抑えてるんですからね? これでも魅了されるようなら邪魔なんで処分しますよ? まぁそうはなってほしくないのでできるだけ頑張ってください」
「……わかってるっすよ」
フィズは魅了したくてしているわけではない、というのは彼女の言動からよく伝わってくる。
実際フィズの言葉にはとげがあるものの、その表情は本当に困っているようなのだ。
累が言っていた通り協会との関係を維持するためにも狩人三人には生きていてほしいということなのだろう。
「まぁ私たちはここで待ってればいいと思いますよ。そう時間をかけずに累さんが来てくれるはずなので」
「スロちゃんも迎えに来てくれるよ」
「なんでそう言えるんすか?」
「それはもちろん累さんが私を愛してくれているからです」
意味が分からない。
「スロちゃんはね、いつもプラムを見つけてくれるんだ。だから大丈夫」
答えになっていないがまだこちらのほうが信じられるかもしれない。
「とにかく助けに来てくれるはずだからここで待っていたほうがいいってことっすね」
「そういうことですね」
「スロちゃんのためにお花の冠作ろうかな~」
「それはいいですね。私も累さんのために作って待ってましょう」
「……ええ。緊張感がない」
二人してあたりの花を手当たり次第に毟り始めたのを見てなんて能天気なのだと羨ましく思ってしまう。
きっと危険だなんてこれっぽっちも思っていないのだろう。
ハクはあきらめるようにしゃがみこみ、膝を抱えて谷底から赤い月を浮かべる夜空を恨めしく見上げた。
「誰か助けに来て……」
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