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なり損ない⑮

今銃を突きつけられている目の前の女よりもよっぽど自分は顔色が悪いだろうという自覚が男にはあった。

血の気が引いているのがわかるし、手は震え歯の根が合わない。

視界がにじむのは涙なのか汗なのか、なんで自分はこんな銃なんて恐ろしいものを人に向けているのか。

何もかもが現実離れしていて途方もない悪夢の中から抜け出せない気分だ。


「ここの倉庫の人ですか? 残業中? それとも反社的な人? そういう集まりがあったとか? ……私のストーカーだったりするとそれはそれで話は早いんですが」


こちらに背を向けたまま手を上げているのだから、銃を突きつけられているというのはわかっているのだろう。

だというのに女は気の抜けたような声で質問を投げかけてくる。

変に焦っている自分が滑稽に思えるほどだ。


「私は探し物に来ただけなんですよ。子供くらいの大きさの、見たら悲鳴を上げるような化け物なんですけど見ましたか?」

「あの子は化け物じゃない!」


咄嗟に反論してしまった。

女は「あの子?」と怪訝そうな声とともにこちらへと振り返る。

瞬間、息が止まった。


(なんて、美しいんだ……)


手の震えが止まりにじんでいた視界がクリアになる。

感じていた不安と混乱が、今は体の奥底でぐつぐつと溢れる言いようのない熱い感情によって上書きされた。

心臓を、自分の最も弱い部分を握られているような、不安定でそれでいてわずかに感じる快感。


こちらを見る女の藍色の瞳が薄く細まる。

値踏みするようなとても冷たいものだ。

しかしそれすらも快感に感じてしまう。


「あの子ってことは、依頼人はあなたですか。歳が離れてますし、なり損ないの父親?」


父親、という単語に呆けきった男の頭がわずかに冷静さを取り戻す。

それは彼にとって全く信頼できない最低最悪の男の存在を思い出したからなのだが、そのおかげで女の異常性に気づけたのだから多少は感謝してもいいだろう。

いつだったか、ずっと以前まだあの男を父と認めていたころ、時折男は自分の仕事について話をしてくれた。


『グリムってのはどいつもこいつも恐ろしいもんだがな、ただ単に襲い掛かってくるだけの奴らはまだマシなのさ。問題なのは洗脳やら魅了やら、こっちの頭をいじくろうとしてくる奴らだ。こいつが一番恐ろしい。自分がとんでもない馬鹿野郎に変わっていくってのに、それを止めるすべがねぇんだからな。おまけに変わっていく最中は気分がよくなっていきやがる。ほんの少しの恐怖が、理性が逃げろと叫んだところで、その快感に逆らえる奴はそうそういねぇ。俺くらいの狩人じゃないとな』


あの男の言っていたことは本当だった。

自分が自分ではなくなっていく感覚、それはとてつもない快感で、そして恐ろしい。

彼は靄を払うように頭を振って二歩ほど女から遠ざかる。

女が迫ってくるようなことはなかったが、興味深そうにほんの少し口の端を吊り上げて見せた。


「あの子は僕の娘だ。父親として、僕が守らなきゃいけないんだ。頼む、帰ってくれ」


ずっと実の父を軽蔑して生きてきた。

大切な時に守ってくれない最低な父親だと。

だがその息子の自分はどうだったか。


明かりの消えた自宅のリビングから響く、じゅるじゅるという奇怪な音。

薄い月明かりに照らされた血まみれで倒れる義理の母と、その母へ覆いかぶさるようにして血を啜る化け物になった妻と娘。

悲鳴を上げて逃げ出すことしかできなかった。

もし時間を戻せるなら家族を守るためにどんなことだってするつもりだ。

だがそんな夢のようなことはありえないし、化け物になった妻と娘を見捨てて逃げたという現実は、父と同じように家族を見捨てたという現実は受け止めなければならない。


「なるほど。なるほど」


面白そうに女はそう繰り返した。

先ほどの冷たい瞳がにこやかな笑みに隠され、とても好意的に見える。

あるいはそう思うように洗脳されてしまっているのか。


「その気持ちはよくわかりますよ。私も累さんのことがとっても大切なので、累さんを守るためならなんだってするつもりですから。お互い大切な人がいるってのは幸せなことですね」

「……なら、頼むよ。僕たちを見逃して帰ってくれ」

「見逃すというか、私がお願いされたのはお嬢さんを見つけるまでなので、後は累さんが来るまで待つだけです。逃げたいなら累さんが来る前に逃げればいいのでは?」

「それは……」


逃げられるものならばとっくに逃げている。

しかし血を求めて暴れまわる娘を連れて逃げるには、自分ひとりの力では不可能だと彼は理解していた。

非常に情けないことではあるが、あの狩人の手を借りなければならない。


「ああ、あの狩人さんを待ってるんですか。わかりますよ。暴れまわるお嬢さんを普通の人が連れて歩くなんて自殺行為ですからね。でも累さんが相手してるからあの狩人さんは死んだろうし……いや累さんだと生かしてるかなぁ、どっちにしろここへ来るのは累さんだけですよ」

「……あいつを信頼してるわけじゃない。でも狩人としての腕は信用してる。だからここに来るのはあいつのほうだ。そういう契約だからな」


父親としては最悪だったが、狩人としては最高だ。

狩人としての契約さえ守れないならばあの男が存在している意味すらないのだから、その腕を信用したことだけは裏切らないでほしかった。


彼の確信したような言い草に、「ふむ」と女は呟く。

たったそれだけのことなのに、女の雰囲気が変わった。

だが何がどう変わったのか具体的にはわからない。

わからないのだが、何か取り返しのつかない失敗をしたように感じて男はごくりと喉を鳴らした。


「私ってお小遣い稼ぎ程度にFXとかやってるんですよ」


唐突に女はそんなことを言い出した。


「累さんにはおいしいものを食べてほしいし、いい服を着てほしいですから。そのためにはお金が必要だなぁって思ったので。もちろん狩りやバーの仕事で累さんからお給料はもらってますけど、私だけの手で稼いだお金を使って何かプレゼントしたいなって、そういう気持ちってわかります?」

「な、何の話だ急に」

「まぁわからなかったら別にいいんですけど、言いたかったのはそこじゃなくてFXとか株の取引きってチャートってあるじゃないですか? 折れ線グラフみたいなのが上がったり下がったりするやつ。あれって常に変動していて永遠に上がり続けるとか下がり続けるってないんですよね。そこがむずかしくて損することも多々あるわけで」


何の話を始めたのかわからない。

時間稼ぎのつもりなのか、仮にそうだとしたら戦うすべのない男としては老狩人が来てくれる可能性が上がるので望むところではある。


「これって人間関係にも言えると思うんですよね。人への期待や好き嫌いって時と場合によって上がったり下がったりするものだって。でも累さんは違うんですよね。どれだけ時間が経っても、どんなに難しい状況であっても、私の期待を一度だって裏切ったことがないんです! チャートは常に右肩上がりで一度だって下がったことがないんですよ!」

「は、はぁ……」


女は裁判所で陪審員に訴えかける様な勢いで拳をふるって熱弁をふるう。

しかし銃を向けられているというのに恋人を自慢するように頬を紅く染めて瞳が輝いているのはどこか頭がおかしいとしか思えない。

手に持っているこれはおもちゃだとでも言いたげな、撃たれたところでなんてことはないとでも思っているような、そんなふるまいだ。


だが不意に、とても唐突に、躁鬱状態が切り替わったかのように女の表情がすっと消える。


「そんな累さんがここには来ないって、あなたは言うんですね。それって累さんに対する侮辱ですよね?」


白髪の向こうの藍色の瞳が怒りと憎悪に満ちていた。

手が震え、持っていた銃がたまらず地面に落下する。

汗が噴き出すのと同時に膝が揺れ始め、立っていられずに崩れ落ちてしまう。


「う、あ……」


目の前の女から視線を逸らせず声が出ない。

だがこれは恐怖ではない。


とても、とても、とても、快感なのだ。


美しい彼女にひれ伏して許しを請いたい。

この胸の想いを告げて愛を囁いてほしい。

彼女のためならばどんなことだってしよう。

彼女のためならばどんなものだって捧げよう。


望むのならば、そこの木箱にいるあの子だって――。


「わかりますよ。私に愛してほしいんですよね?」

「は、はい! はいぃ!」


耳元の囁きに脳髄から震え、かつてない快感にとめどなく涙が溢れた。

愛してほしいと理解してくれている。

ただそれだけでとてつもない歓喜に満たされてしまう。


「でもあなたはほかにも愛している人がいたんじゃないですか?」


頭の片隅で「そうだ思い出せ」と誰かが叫んでいるが、この悦びには到底抗えないし抗いたくもない。

彼女以上に愛していた人などいただろうか。

ふと視界の端に落とした拳銃が映り込んだが、どうしてこんなものを彼女に向けてしまったのかわからない。

あの男から持っていろと言われたからといって、そのまま言うことを聞くなんてどうかしていたのではないか。


「そんなに涙を流して醜い顔をして、あなたの娘さんが見たらどう思うんでしょうね」

「むす、め?」

「そうですよ。とても大事にしていたんでしょう? 私に声をかけられただけでみっともなく喘ぐような最低な男でも、父親なんでしょう? だったらまず子供をきちんと愛さないと」


そうだ。

そうしないといけないはずだ。

何故なら父親に見捨てられて辛かったのは自分なのだから。

だから誰よりも子供を愛そうと決めたのだから。


彼は思考がクリアになっていく感覚を感じているが、それはすでに魅了され誘導された上でのことだ。

フィズという怪物が意図していないにも関わらず、ただその外見だけで魅了されかけた最初とは全く違う。

これはフィズがカンビオンとして対象に悪意をもって魅了をしている最低最悪の抗いようのない洗脳。

しかし男にはそれがわからない。


「ほら涙を拭いてください。娘さんにそんな情けない顔を見せてはいけないですよ。最期くらいは立派なところを見せないと」

「ありがとうございます。そうでした。僕はあの子をあなたと同じくらいに愛してあげないといけなかった」


あなたと同じくらいに、という言葉にフィズが呆れたように眉を下げるが、彼の目には映っていない。

というよりも彼が見るものはフィズが見せたいと思った現実だけだ。

魅了されてしまった彼に何かを不審に思うことや、何かを考える思考なんてもはやない。


「まずはあの子をしっかり抱きしめてあげてください。それができたら、私もあなたを抱きしめてあげますよ」

「本当ですか! ああ、早くあの子を抱きしめてあげなくては!」


フィズが「無理でしょうけど」と呟いたことなど耳にも入らない。

彼は幸福に満ちた表情で背後の木箱に手をかけ、南京錠を持っていたカギで手早く取り外すとすぐさま木箱の中へと駆けこんだ。


「紗枝、お父さんだよ。一人にしてごめん。ほらおいで、抱きしめてあげるから」


薄暗い木箱の中、奥に丸まっている小さな影がある。

声に反応してその影が立ち上がって振り返ると、荒れ果てた長い黒髪の隙間から除く黄色く濁った瞳が父親をとらえた。


「拗ねてるのかい? 紗枝? お父さんのところへ――」

「ギシャァァアアア!!」


そのなり損ないは父親を抱きしめた。

首筋に牙を突き立て、飢えが満ちていく感覚に醜い顔を歪めて喜びながら。


「さ、え。こんなに……大きくなって……いたんだ、ね」


血を吸われていようとも、男は幸福の中にあった。

娘の成長を感じることができたし、父親として娘を愛することもできた。

そして娘を抱きしめたのだから、このあとはあの人が抱きしめてくれるはず、愛してくれるはずなのだと。


「ぼ、ぼく、を」


薄れゆく意識の中で背後を振り返れば、あの愛しい人が木箱の扉を閉じていくところだった。

男の視線に気づいたのか、花咲くような笑みを浮かべて彼女は口を開いた。


「私が愛してるのは累さんだけなんですよ、お父さん」

「ま、まって……」


扉が閉められ完全なる暗闇の中で、血を求める薄汚れた黄色の瞳だけが爛々と輝いている。

かすれた嗚咽がほんの少し響いたあと、父親だった男は娘だった怪物の餌になり果てた。

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