天使⑬
結局のところ、男は自分ではどうにもできないと割り切り定期的に少女の様子を見るだけにしたようだ。
そしてその男が驚くほどに少女の狩人としての才能は突出していた。
男が来るたびに仕事の成果だと見せられたのはゴブリンに屍鬼にファンガス。
中には少女よりもはるかに巨大なオーガまでいた。
「おいしいかい?」
「うん」
男が仕事の報酬だと言っておいしい食事を提供してくれるおかげで彼女の生活水準は依然と比べてかなり向上した。
空腹になることも喉の渇きを覚えることもない。
とてつもなく幸せな毎日だ。
「ここを出ようとは思わないのかい?」
「どうして?」
十分に幸せなのになぜここを出ないといけないのか。
疑問に思ってそう問い返すと男は困ったような顔をして黙り込む。
それがよくある会話であり、また別の日にはこんな質問もされた。
「名前が無いんだったね」
「うん」
「なら僕が名前を考えてもいいかな?」
「いるの?」
「え? いや、まぁ、普通は名前があるものだから必要だと思うよ」
ここで名前を呼ばれることなんてない。
名前があったところで使われないのならないのと同じだ。
少女にとっては必要とは思えなかったが、男が気にかけているようだったので少女はわかったと首を縦に振る。
「よし! じゃあ次来る時までに考えておくよ!」
嬉しそうにそう言って、男は二度と現れなかった。
少女は特に気にせずそのまま名無しの狩人として地下のグリムを狩ったが、男が現れないのでは仕事の報酬がもらえない。
それに最近ではグリムを狩りつくしてしまったのか、下水道をかなり遠くまで歩かないと獲物が見つからないほどになってしまった。
まだ食料はあるがこのままではいずれ在庫が尽きてしまう。
そう少女が悩み始めた時、彼女のもとへ男が現れた。
「ずいぶんと狩りには慣れたみたいだな」
現れたのはいつもの男とは違った。
確か最初に二人で現れた時のチョコバーをくれたほうの男だ。
彼は前と変わらずにこの場所を嫌っているようではあったが、以前と雰囲気が少し違う。
一体何が違うのだろうかと不思議に思いつつも、少女は溜まった仕事の報酬をもらうべく男へ問いかけた。
「たくさん狩った。だから仕事の報酬をちょうだい」
「言葉も随分と流暢になったな」
「あの人から教えてもらった」
「そうか。だがあいつはもうここに来ないぞ。死んだからな」
「死んだ?」
「ああ、お前みたいなガキを庇ってグリムに殺された。大した稼ぎにならない協会の仕事で、無駄死にだな」
無駄死に。
少女はその言葉が不思議に思えて首を傾げた。
「無駄じゃない死に方があるの?」
「何?」
「ここで死ぬ人はみんな意味もない死に方だったよ」
下水路に浮いたあの老人も、ゴブリンに殺された人々も、とても意味のあった死に方とは思えない。
死ぬということはそう言うものだと思っていたのだが違うのだろうか。
少女の純粋な疑問が面白かったのか男は声を上げて笑うと、懐から紙の束を取り出して少女へ投げ渡した。
「これなに?」
「金だ」
「食べ物じゃないの?」
「それよりずっと価値のあるものだ」
「いらない。ご飯が欲しい」
こんな紙の束をもらったところで嬉しくもなければ幸せにもなれない。
必要なのは空腹を満たす食料だけだ。
「俺が渡せるのはこれだけだ。だが、その使い方を教えてやる」
「使い方?」
「そうだ。それがあればお前が欲しがっている食い物も好きなだけ手に入る。ほかにも、そうだな。こんなところに住み着いてるお前が欲しいと考えるものは何でも手に入るな」
「ほんとに?」
それは素晴らしいことだ。
少女はこの紙の束にどんな力が秘められているのか興味津々となり、男はその様子を見てほんの少し口の端を釣り上げた。
「だが金はただで手に入るものじゃない。相応の成果を出さなければ手に入れられないものだ」
「わかってる。これが私の仕事の成果なんだよね?」
以前と変わらない。
食料の代わりに金をもらうだけのことだ。
少女が理解したことに気分を良くした様子で男は続ける。
「そうだ。だがお前よりずっといい暮らしをしている人間でも、今お前が手に持っているほどの金を報酬としてもらう奴は少ない。つまりお前はそれだけいい仕事をしたということだ」
「それは……喜んでいいの?」
「ああ。その金の使い方を学べば、お前は世界の大半の人間よりもいい暮らしができるわけだからな。だから俺が金の使い方を教えてやる。それともまだ食い物のほうがいいか? それならそれでも俺は構わんが」
そう言って男は少女の返答を待つ。
今の暮らしを続けるのか、新しい生き方を選ぶのか、ところどころ理解が及ばないところもあったが少女はそういうことだと理解した。
そしてその選択について考えれば、少女は今の自分の生活を不満に思う所があったことにも気が付いていた。
たとえば食事だ。
最初の頃は腐っていても、変な味がしても、ただ腹が膨れればそれで幸せだった。
しかしグリムを狩って食料を手に入れるようになってから、味にもこだわるようになっている。
それだけじゃない。
食料が無くなるということを恐れるようにもなった。
以前は食料がないことは当然だったのに、今では食料があることは当たり前なのだから、それをなくしてしまうのはとてつもなく恐ろしい。
グリムを知る前と知った後ではだいぶ変わってしまった。
そしてそう変えたのは食料を運んでくるあの男だった。
あの男の代わりに、今目の前にいる男は金の使い方を教えてくれるという。
それはまた新しい自分への第一歩だ。
「金の使い方を教えて」
「わかった。ならここを出るぞ。今日からお前はヘルメスの一員だ」
「へるめす?」
男について歩き始めると、ずっと少女の上にあったマンホールの蓋が開けられ、綺麗な青色がそこから覗いていた。
始めて見るそれが空というものだと理解した時、少女は体がぶるりと震え自分が何か新しいものに作り替えられたような気さえした。
そして男に手を引かれ、少女は初めて地下を出る。
果て無く広がる広大な空とその空に突き刺さるようないくつもの塊に圧倒された。
「おお、出てきた出てきた。うぉーいブロンクス。もう話し終わったのか?」
「ああ。交渉成立だ」
「本当にまだ子供じゃないの。役に立つわけ?」
「それよりずいぶんとひどい姿ね。まず体を綺麗にしてあげないと」
ブロンクスと呼ばれた男の他に大人が三人。
彼らは少女を見ると思い思いに声を上げる。
「そういうことなら私はパス。バレンシアがやってよね」
「なんだよレナーテちゃんは子供嫌いなのか?」
「給料もらえるなら相手してやるよ。気になるならユーリが世話してやったら?」
「俺は子供好きだけどよ。一応女の子だからな。あれ? 女の子だよな? まぁそういうことだからバレンシアに任せるわ」
「私は別に構わないけれど。ねぇ、貴方名前は?」
大人たちの中で一番おっとりとした雰囲気の女性が少女に視線を合わせるようにしゃがみこんで問いかけてくる。
だが名前のない少女はどう答えればいいのかがわからない。
「私はバレンシア。貴方を連れてきたのはブロンクス。後ろにいるのがユーリにレナーテよ。今日から貴方の仲間になるの」
「仕事仲間ね」
「レナーテちゃんはそうやって線を引くのが悪いところだよなぁ」
「このチームに入ったのは金を稼ぐためだから」
情報量が多くて戸惑っている少女に変わって答えたのは、ずっと少女の後ろで様子を窺っていたブロンクスだった。
「こいつの名前はチチだ」
「え?」
驚いて振り返るとブロンクスが手を組んでこちらを見下ろしている。
「あいつが決めていた名前だ。お前が好きにしろと言ったんだろう?」
「……そう、だね。チチ。私の名前」
「よろしくね、チチ」
にこりと笑う女性に名を呼ばれ、初めてチチは涙を流した。
自分の頬についた汚れが涙で流れ落ちるほどに泣き、そんなチチをバレンシアは優しく抱きしめてくれた。
ヘルメスは金を稼ぐために集まった狩人の集合体。
レナーテの言う通りメンバーは仕事仲間だ。
だが本当にただの仕事仲間なのか。
バレンシアは常に優しく厳しく、チチにとっては顔も知らない母親の代わりのような存在だった。
ユーリはふざけあい、笑いあい、まるで年の離れた兄の様だった。
レナーテは言葉が冷たく仕事以外で関わりたくないというくせに、チチが逆に面倒を見なければならないほど生活力がなく妹の様に思っていた。
そしてブロンクスは過度に接することはなかったが、常に遠くから見守ってくれている温かさと頼もしさがあった。
まるで父親の様に。
「チチ! お前か勝手に私の部屋を掃除したのは!」
「え~だって汚いんだもん」
「汚いんじゃない! すぐ狩りに出られるように最善の配置にしてただけだ! お前がいじったからどこに何があるかわからなくなっただろ!」
「なになにまたチチに世話されて怒ってんのか?」
「そうなの~。世話してあげたら怒られちゃったの~」
「そりゃ災難だな。レナーテちゃんももっと大人にならないとさ~。子供に部屋を掃除されるってどうなのよ」
「だからあれは効率を考えた上での配置だと言ってるだろうが! 第一なんで部屋の鍵は私が持ってるのに勝手に入れるんだ!」
「私が開けてチチに掃除を頼んだのよ。何度言っても貴方は部屋を綺麗にしないんだもの。チチを見習ったらどう?」
「バレンシア……私は、だからその、あれは掃除してあの状態なんだ。私の動線に沿った洗練された配置で……」
「言い訳はだめよ。ヘルメスのチームリーダーがあんな汚い部屋で過ごしてるだなんて噂になったら困るの。これからも掃除ができないようならチチにしてもらうわ」
「任せて!」
「そんなにレナーテちゃんの部屋って汚いわけ?」
「汚いよ~。私が地下で寝てた時より汚い」
「マジで!?」
「そこまで汚くない!」
金の使い方を学んだ。
空腹に喘ぐことも無くなった。
体を綺麗にし身なりもよくなった。
もう地下でしていた暮らしなど耐えられないほどの贅沢を手に入れたのだ。
そしてなにより、多くのものを手に入れたことでそれらを失うことの怖さを知った。
「騒がしいな」
「おうブロンクス。聞いてくれよレナーテちゃんの部屋がさ~」
「言うな馬鹿! で、それより狩りの依頼がきたんだろう?」
「ああ、吸血鬼三体とメドゥーサ一体の捕獲依頼だ」
「捕獲? もしかしてまたあの人?」
「その通りだ。相変わらずあいつは金払いがいい」
「そうだけど、私あの人はどうも苦手で……」
「金がもらえるなら誰でも構わないよ。狩りには私が行く」
「じゃあチチも行く!」
だがあの時までは誤解していたのだ。
もし失ってしまっても、また取り戻すことはできると。
落としたアイスをまた買い戻すように、汚れた服を新しく買うように、金さえあれば何でも手に入ると誤解していた。
金の使い方を学んだことで、チチは金で解決できないことなどないのだと、それらがすべてなのだと誤解していたのだ。
「いやあの男の機嫌を取りに行かないといけないからな。チチは不向きだろう。俺とレナーテに——」
「あとは俺だろう? お前がご機嫌取りしてる間に俺とレナーテちゃんで狩りは済ませるさ」
「そうだな。狩りはユーリとレナーテに任せる」
「ごめんなさいね。気を使わせて」
「別にそう言うんじゃないさ。バレンシアはゆっくり休んでてくれよ」
「ふふ、ありがとう」
「まぁ、バレンシアが出ないおかげで私は稼げるから得なんだけどね。じゃあ準備してくるから」
「よっし俺も準備するか——っと、チチ。レナーテちゃんがいない間にもっと部屋を綺麗にしてもいいんだぜ?」
「一応言っておくけど入るなよ。絶対入るなよ」
「わかってるよ~」
レナーテの部屋をバレンシアと一緒に掃除し、帰ってきたときの驚いた顔を見ようと二人で笑っていた日のことを思い出す。
きっとまた怒るけれど、すぐに部屋を汚くするのが悪いよね、と。
わくわくしながら待っていて、帰ってきたレナーテは体を両断された冷たい姿だった。
いつもは仕事が終わったぞと大騒ぎして帰ってくるユーリも、今回は棺に入った静かな帰還だった。
この喪失感はどれだけの金を使っても埋められないのだと、チチは初めて理解した。
綺麗に掃除した部屋は主を迎え入れないまま少しづつほこりが増えていき、ヘルメスに活気をもたらしていた男がいなくなったことで世界が静かになったような気さえした。
ブロンクスは組織を立て直すことにかかりきりになり、バレンシアは二人の死が自分の責任だと思っているのか体調が以前よりも悪くなった。
あの日々はもう帰ってこない。
二人がいないのだから当然だ。
だがそれでもまた楽しく過ごす日々を取り戻すためにはどうしたらいいだろうか。
どうしてこんなことになったのだろうか。
悩みに悩んでも、どうしたらいいかはわからない。
けれどどうしてこうなったかはわかる。
あのグリムが悪い。
魔女が、人形が、吸血鬼が、メドゥーサが、あのグリムたちが全部悪い。
子供の小さな体に必死になって抑え続けてきた憎悪は、ついにその怨敵を前にして解き放たれた。
大切なものを奪われた。
失ってはならないものを失わされた。
どうあっても決して取り返せず何をしても意味はないが、それでもやらなければ前に進めない。
そのための行為を復讐という。
だからこそ——
「ユーリとレナーテの!! かたきぃぃ!!」
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