天使⑫
最初の記憶は天井からの暖かな光だった。
けれどそれが空ではなく、ただのマンホールの隙間から差し込んだ光だと理解したのはそれからもう少し先の話。
何故なら地下の下水道に住む少女にとって、世界は常に薄暗く汚く臭く孤独なものだったのだから。
「お前、ここは俺の場所だ」
ぼうぼうと伸びた髭に汚れ切った肌の男が窪んだ瞳に僅かな苛立ちを覗かせてそう言い放つ。
お前とか、ガキとか、こいつとか、少女には名前がないので自分が呼ばれていることに気付くのがいつも少し遅れてしまう。
そしてそのほんの少しの反応の遅れが男を苛立たせ、少女は唾を吐きかけられた。
「ごめんなさい」
相手の場所へ勝手に入った自分が悪い。
そう素直に少女は謝罪し下水道の奥へと歩を進める。
歩きながら彼女は『地下は誰のものでもないから』と言っていたとある老人の言葉を思い出した。
地上はどこを歩いても誰かの土地だが、ここは誰のものでもない。
だから地上に居場所のない俺たちはここに住み着いたんだ。
そう老人は言っていたが、その老人はしばらくして下水路に浮いているのを見つけた。
寝場所の奪い合いで刺されて殺されたとのことだった。
誰のものでもないのならどうしてそんなことが起きるのか、少女にはよくわからない。
しかし時間が経つにつれてこの地下でも様々な住人が居場所を奪い合っていることが分かり、そして自分はその地下にも居場所がないことに気が付いた。
この地下で居場所がないのなら、地上はどれほど恐ろしい場所なのだろうか。
見上げればマンホールの隙間から僅かに光が差し込んでいる。
明るい光とは裏腹に地上が恐ろしいと感じた少女は下水道の端の僅かなスペースを自分の居場所にして眠るようになった。
その場所は雨が降れば下水が溢れて体に汚水がかかり、悪臭が常に纏わりつくため地下の住人もあまり近寄らず、そのおかげで居場所のない彼女でも寝ることができたのだ。
「おなか……へった……」
寝床の次は飲食の問題があった。
以前はあの老人が食事を分け与えてくれてたがもう彼はいない。
どうやって食事を調達すればいいかもわからない少女は横になってただ空腹に耐えるしかなかった。
ついには喉の渇きに耐えきれなくなり下水を飲んでみたものの、翌日には強烈な腹痛と吐き気に襲われ苦しむこととなった。
「いたい……もうのまないから……おさまって。おねがい。たすけて」
下水を飲まないと心に誓ったところで体調は良くならない。
それに誰にお願いし助けを求めているのか、自分でもよくわからなかった。
普通の人間であれば神に救いを求めることもあるのだろうが、彼女は神を知らない。
教わってもいないのでそういう存在を知らないのだ。
「てんしさま……」
けれど老人から聞いたのだ。
いつか我々は背中から羽を生やした天使という美しい存在に救われ、この汚い世界から旅立つのだと。
ならどうか救ってくださいと、今連れて行ってくださいと、少女は涙を流しながらその名を呼び続ける。
そうして意識が朦朧として行く中、どこかから小さな悲鳴が聞こえた気がした。
翌日目を覚ますと腹痛が収まっており、彼女は天使が自分を助けてくれたのだと心から感謝した。
しかし空腹は変わらず、何か食べ物を求めて下水道を歩き始める。
そしてそう長く歩く前に床が赤い色で染まっているのを見つけた。
「?」
それが何なのか最初はよくわからなかったが、下水路に浮かんだ老人の胸からもこれが流れていたことを思い出し、少女はこれが血なのだと理解する。
血の跡は引きずられたように下水道の奥へと続いているが、そんなことよりも少女は空腹をどうにかしたいのだ。
血があるということは誰かが死んでいるかもしれない。
誰かが死んでいるのなら、その人が残した食料があるかもしれない。
空腹でもつれる足を必死に動かし血痕を追えば、予想通りそこには誰かが住んでいた痕跡と大量の血痕。
そして彼女の求めた食料があった。
「ああ、てんしさま」
救いを与えてくれたと感謝し、少女はそこにあった食料を持てるだけ持って自分の居場所へと帰っていった。
缶詰を開けて食べ、クッキーの袋を開けて食べ、下水とは違う綺麗な水を喉に流し込んでおなか一杯になり、幸せな気持ちで横になる。
「ありがとう。てんしさま」
それから天使に祈ることが彼女の日課になった。
祈れば祈るほど、彼女にいいことが起きたからだ。
食料が減ってきたので再び天使に祈ると、翌日また大量の血痕とともに誰かが消えた。
そしてそこには大量の食糧があり、少女はまたしばらく幸せな気持ちで眠ることができた。
天使に祈るたび、おいしいご飯が手に入る。
幼い子供が天使の存在を信じるには十分な理由だ。
だがこの世に天使はいない。
天使という名の怪物はいても、人を救う天使はいない。
「だれ?」
手に入れた食料に囲まれながら、幸せな気持ちで寝ていた彼女は妙な音に目を覚ました。
ギギギっと耳障りな不快な音。
そして目を覚まして暗闇を見渡せば、そこに何かがいるのに気が付いた。
「だれ?」
もう一度問いかける。
返ってくるのは荒い息遣いだった。
目を凝らして暗闇を覗き込む。
マンホールの隙間から差し込む光がそれを僅かに照らし出し、そして少女は息を呑んだ。
何故ならそれは人間の様に二足歩行をしているが彼女と同じくらいに小さく、そして彼女より頭は大きく腹が膨れた異形だったからだ。
下水に流された死んだ魚の様に濁り切った瞳。
何かの肉片のカスを溜めた、汚らしくも鋭さを見せる牙。
そして下水のように濁った色の肌にズタボロとなった腰巻だけをつけ、片手には人間の骨で作り上げたこん棒のようなものを持っている。
何故それが人間の骨だとわかるのかと言えば、そこに腐りかけた人間の指が付いていたからだ。
その醜悪なこん棒を引きずった音が、彼女を目覚めさせた奇怪な音の正体である。
「ひっ!」
恐ろしかった。
そしてそんな少女の当然の反応を喜ぶように、その異形はひたひたと下水道をこちらに向けて歩いてくる。
「てんしさま! てんしさま!」
目の前の恐怖から逃げるよりも、彼女は自分を救ってくれた天使に祈りをささげることを選んだ。
きっと今回も救ってくれるはずだと何の疑いもない真摯な気持ちで祈り続ける。
だが眼前まで異形が迫った時、彼女の心に恐怖と天使への疑いが生じた。
「どうして」
天使は応えず、代わりに応えたのはその異形だった。
彼女の髪を掴み振り回し、壁に思い切り叩きつける。
少女は悲鳴を上げて逆らうが、異形は煩わしいとばかりに手に持ったこん棒で彼女の腹部を叩きつけた。
「うぁ……」
そのまま床に投げ捨てられ、再びこん棒で殴りつけられる。
声も出せず身動き一つとれなくなった少女を見て、異形は満足したようだった。
彼女の足を掴んで引きずり始める。
「……」
どこかへと運ばれていく中、自分の後に出来た血の跡を見て少女はなるほどと思った。
自分が手に入れた食料はこんな目にあった人々のもので、今度は自分以外の誰かが食料を手に入れて幸せな気持ちになるのだろうと。
そしていつかはこの化け物に襲われ、最後には天使に祈り、天使は助けてくれないと知って絶望するに違いない。
「は……」
生まれて初めての笑い声は、涙交じりのかすれた笑い声だった。
それも自分を嘲笑う悲しい笑いだ。
おなか一杯で眠る幸せな日々も、私を見守ってくれていた天使の存在も幻だった。
私を助けていたのはこの化け物だった。
そしてこの化け物に私はきっと殺され、どこかの誰かがそれに感謝する。
なんておかしな世界なのか。
少女はそう思うと笑いが止められなかった。
咳をするように笑い、そして焦点の定まらなかった瞳があるものを見て固定された。
手に握ったそれを見て、やはり自分がおかしいと少女は再び笑う。
そんなものを握っているのなら、心の底からは天使など信じていなかったじゃないか、と。
「グァ!!」
手に握っていたのは果物ナイフだ。
食料と一緒に見つけて持っていたそれを、少女は天使に救いを求める一方で身を守るための手段として握りしめていた。
天使に祈っても助けてもらえないのなら、自分が握りしめていたこれに縋るしかない。
「ギャァ!?」
一度振るい、二度振るい、何度このナイフを振りかざしたかわからない。
けれど気づけば異形がナイフで切り刻まれて床に転がっていた。
まだ息をしているのを見て、少女は何の躊躇いもなくその首を切り裂いた。
静けさが下水道を満たし、少女の体に痛みが戻ってくる。
しかしその痛みよりも興奮が勝った。
天使に祈らなくても、生きていける。
それが何よりの興奮であり喜びだった。
今にも笑い出しそうな少女の荒い息が一瞬止まる。
ここに近づく足音を聞いたからだ。
「ひどい匂いだな」
「文句言うなよ。これも狩人の仕事だ」
現れたのは男二人組で少女を見て驚いたようだった。
いや正確には血まみれでナイフを握りしめる少女と、その足元に転がる斬殺されたゴブリンの死体を見たからだ。
「こいつがやったのか?」
「そんなことよりもっと気にすることがあるだろう!? 君! 無事なのか!」
男の一人が少女に近寄り体を確かめ、少女が何かを言うよりも早くそれが当然とばかりに手当てを始めてしまった。
対してもう一人の男は悪臭のするこの場所と汚らしい少女が耐え難いとばかりに口元を覆って顔を顰めている。
「物資の無駄だぞ。そんなボランティアをしていたらきりがない」
「だからって怪我してる子を放っておけないだろう」
口元を覆った男はうんざりとした様子でため息を吐く。
しかし前の男はそれを意に介さず手当を続け、しばらくしてそれを終えると床に転がったゴブリンの死骸を見て息を呑んだように呟いた。
「依頼のあったゴブリンはこいつみたいだな。本当にこの子が?」
「そうだな。帰ろう」
「いや待て! この子はどうする!」
「どうすると言われてもな。最初からここに住み着いているガキだろう。俺らが何かする必要があるのか?」
二人は少女の前で言い合いをしている。
片方はさっさと帰りたいと、もう片方は少女の身の安全を想ってのことだろう。
だが少女からするとそんなことはどうでもよかった。
「ねぇ」
「なんだ?」
「これをさがしてたの?」
「そうだ。お前がやったから手間が省けたな」
「……ええとお嬢ちゃん。これはグリムっていう化け物なんだ。そして僕ら二人はそれを狩るのが仕事でね。わかるかい?」
「わかる」
男の言葉を理解した少女はさらに続けた。
「しごとをかわりにした。しごとをするとごはんをくれるんでしょう? ちょうだい」
「え? いやそれは……それよりここを出て僕らと一緒に行こう。君のような子を保護する施設がある。そこでならご飯もたくさん食べられるよ」
「それはグリムで孤児になったガキ用の施設だろう。こいつはもともと孤児なんだ。話が違う」
「しかし」
「そんなことを言いだしたらこの場所に何人ガキがいると思う? 全員施設に入れるのか?」
その言葉に言い返せないのか、少女の眼前にいる男は後ろめたそうに視線を逸らした。
しかしそんなことはどうでもいい。
少女にとっては仕事の対価が必要なのだ。
「しごとをした。ごはんちょうだい」
「ならこれをやる」
後ろの男が何かを投げ渡してくる。
それがチョコバーだと理解した少女はとてつもない喜びに喝采した。
ほんの少しのかけらを一度だけ食べたことがあるが、このチョコという食べ物は堪らなく美味しい。
それをこんなにたくさんもらえるなんて信じられない。
「こんなにもらっていいの!?」
「こんなに? チョコバー一本だろう」
「じゃあもっとたくさんしごとしたら、もっとくれるの?」
「君は……いや、そんな危ないことは——」
「いいじゃないか。やらせてみろ。どうせこういう所に住み着いたガキには一人で生きる力が必要だ」
奥の男が眼前に座り込んでいた男を押しのけて少女に近寄った。
悪臭に顔を顰めたものの、もう一本チョコバーを差し出しながら口を開く。
「この下水道には似たようなグリムが住み着いてる。殺すたびに食べ物や飲み物をやろう。しっかり働け」
「うんわかった!」
「お前! そんな無責任なことを!」
「心配ならお前が世話してやれ。協会からの依頼だからってゴブリンごときにこんな場所までくるなんて俺はごめんだ」
そう言い放つと男はさっさとこの汚らしい場所から出たいとばかりに去って行ってしまう。
残ったのはどうしたものかと頭を悩ますもう一人の男と、生きるための仕事を見つけた少女が一人だった。
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