刑と燎㉙
心の準備などできていないが姉を名乗る吸血鬼は妹の訴えを待ってくれたりはしない。
何せ彼女からすればただの我儘なのだから、姉として甘やかしたりはしないと聞く耳を持つわけがない。
最初に動いたのはやはりメアリーだ。
翼がこれまで同様に艶めかしく蠢き、幾本かの触手のようなものが生えたかと思えばそれらは鋭い刃と化していく。
身の危険を感じてハクは咄嗟に影の中へと身を隠した。
しかし同じ吸血鬼だからなのか、それともメアリーが特殊なのか、外界と断絶されたはずの影の世界にさえその刃は入り込んでハクへと襲い掛かった。
「あぅ!」
安全だったはずの場所が最も危険な場所へと変わり、ハクは傷を負いながら慌てて影から飛び出す。
床を転がれば流れ出た鮮血が点々と床を彩っていた。
「貴方はハクの初めてになるんだから少し静かにしていてね」
「——がッ!」
アルベルトがハクを助けようと動いたのだろう。
しかし鈍い音が響き、ハクが視線を向けた時には彼の体は壁へと叩きつけられ動かなくなっていた。
一流の狩人でさえも、吸血鬼が本気になってしまえば手も足も出ない。
その事実に背筋が寒くなる。
「バウッ!」
漆黒の狼が怯えた主を救うようにメアリーへと立ち向かう。
だが——
「チョコちゃん!!」
いとも容易くその巨体は刃に貫かれた。
この城に飾られていた串刺しのオブジェの様に、大狼の体は宙に貼り付けになっている。
そうしてやがて影に溶け込むように狼の姿は消え去った。
「そんなに嘆かなくても大丈夫よ。眷属なら貴方が死なない限り不死だもの」
この状況でそれは何の慰めにもならない。
殺す気がないとしても、死を目前に感じるところまで追い込まれるのは間違いないのだから。
それでも、とハクはボウガンに深紅の矢をつがえメアリーへと向ける。
逃げられないのなら、避けられないのなら、こちらから打って出るしかないと半ば自棄になって。
だがそんなものが届かないことはハクも理解している。
「駄目よ暴れちゃ。すぐに終わるから。ね?」
放たれた矢は容易く翼で弾かれて終わった。
そして残ったのはメアリーの変わらぬ優し気な笑みと、ハクの怯えた呼吸の音。
メアリーの言葉通り、それはすぐに終わった。
翼から変異した幾重もの刃がハクの体中を刺し貫き、ハクは身動き一つとれずそのまま宙へと持ち上げられる。
自分の体から鮮血が流れ出るにつれ、ハクは押さえつけることのできない餓えに襲われた。
何とか抵抗しなくてはと、飢えというたった一つの思考に囚われまいと体を必死に動かすも、それは昆虫標本の虫の様だ。
決して逃れることはできず、ただただ無駄に痛みを増すだけの哀れな行為。
変わらぬ慈愛の笑みを浮かべる姉は、その哀れな様を困ったように見つめている。
本当にしょうがない子ね、と。
そうこうする間にもハクの思考はいよいよ単一化されていく。
瞳は充血し、口元からは涎がたれ、視界は赤く染まって喉を激しい乾きが襲う。
両親を失ったとはいえ、施設では食うに困らず空腹など感じたことはなかった。
だからこそというべきか、今こうして襲い来る飢餓という名の苦しみはハクにはとても耐えられるものではない。
目の前にあるものが何であれ口にしてしまいたいと、この苦しみから逃れられるならば何でも捧げると、そう思わずにはいられないのだ。
「辛いわよね。でもすぐに収まるわ」
優しい姉が、今のハクにしてみれば本当に心優しい姉が、餓えた自分のために血を用意しようとしてくれている。
気を失った年老いつつも逞しい人間の男。
彼を翼で引きずるようにして持ち上げると、血がよく出るようにと首元へと刃を当てた。
あとほんの少しその刃を横に引けば、新鮮な血液が喉を潤してくれる。
だがそこで、メアリーの表情に戸惑いが生じた。
「え——ブラッド?」
その言葉とともに、彼女は石のように固まった。
***
ああ、まったく本当に手の焼ける女だ。
何事にも後ろ向きで臆病なくせして変に無防備で気づけば危険な場所に立っている。
けれどそう手間のかかるところが可愛らしくもあるのだ。
視界に収まるのは見るからに最悪な状況。
新米吸血鬼と言っても上位吸血鬼であるハクとあの累が認める狩人であるアルベルト、その二人がまるで相手にもならなかったとなれば、魔眼以外にこれといった力もない自分がどうにかできる相手ではないだろう。
そう理解しながらもルシアンは足を止めようとは思わない。
サングラスを外して大事にしまい込み、近寄りがたい異形の翼を生やした吸血鬼をあらわとなった黄金の瞳に収める。
相手にならないだろう。
勝てないに違いない。
殺されるはずだ。
百人が百人そう言ったとしても、それはルシアンを止める理由にはなりえない。
何故なら彼女はあの森でグリムとして生きていくと誓ったのだから。
たとえ相手が神だろうと何だろうと怪物として好き勝手に生きてやると、そう覚悟を決めたのだ。
だからこそ自分から大切なものを奪おうとしているあの白眼の吸血鬼が気に食わない。
「はっ」
思わず笑みがこぼれる。
悪い見本かもしれないが、自分はどうやらあの二人にずいぶん影響されているらしいと思ったからだ。
きっとあの二人なら、今のこの状況でも躊躇いなどしないだろう。
だからルシアンも躊躇わない。
ここでこの魔眼を使うのはあの時のフィズのスパルタに感謝しそうになって嫌な気持ちになるが、役に立つのなら使うまで。
あるいはこういった場合を予期してあんな無茶を言ってきたのか。
そんなわけはないと思いたいが、底の知れない魔女ならなくはない。
ほんの少しの感謝を込めて、そして少しの勇気をもって、最後に盛大な愛情を迸らせて、メドゥーサの魔眼が吸血鬼を捉えた。
***
メアリーは気分が良い。
非常に良い。
何せ退屈だからとほんの少し顔を出すくらいに考えていたマスカレードナイトがこうも面白くなるとは予想もしていなかった。
そしてそこには愛しの妹も現れ、食わず嫌いの我儘な子ではあるものの、そういった手間のかかるところにも姉の喜びが感じられる。
「我慢よ我慢」
先ほどまでの怯えつつも敵意を持った瞳が消え、餓えの苦しみに瞳を血走らせたハクにメアリーは優しく語りかける。
妹を強くするためとはいえ、やはりこうした姿を見るのは胸が痛むものだ。
できるだけ早く血を飲ませてあげなければと、遠くに転がってしまった老狩人を翼で引っ張り上げる。
「ふふ、初めての獲物にしては悪くないわよ。期待してて」
年季の入った熟成品だ。
思わず自分でも味わってみたいと思えるほどの高級品だが、だからこそ愛すべき妹に相応しい。
老狩人の首へと刃を当て、横に引こうとしてふと違和感がメアリーを襲う。
最初は理解ができなかった。
確かに目の前の獲物は老狩人であったはず。
しかしこれは一体?
「え——ブラッド?」
思わず言葉が漏れた。
眼前にいるのは間違いなく愛すべき父であり愛すべき唯一の男。
力なく項垂れる姿などいまだかつて一度も見たことがないが、その表情を見間違えることなどあるはずがなかった。
幻だろうか?
いやこの匂い、熱、纏う空気は本物だ。
ならば何故こんなところに?
信じられないと動きが止まり、嘘だと唇を動かそうとしてメアリーは気づく。
体が動かないのだ。
いや動かせないと言ったほうが正しい。
そして体の異常に戸惑っている間に、いつの間にやらブラッドの姿が元の老狩人に戻っている。
一体何が起きているのか。
自身の体と眼前の変化に戸惑う中、動かせない瞳の中に緑の影が入り込んだ。
「お——らぁ!!」
緑髪に黄金の瞳を持つ女がハクを串刺しにしていた翼を蹴り飛ばして破壊して見せた。
翼はメアリーの血でできているのだから、液体を破壊するなど普通ならばあり得ない。
しかし翼はまるで風化して脆くなった岩の様に簡単に破壊され、その残骸は再生する様子もなく床へと散らばる。
そして愛しの妹は現れた謎の部外者の腕の中だ。
「おーおー元気だな。助けてやったのにお礼よりも血の催促かよ。食いしん坊が」
そう言って笑いかける女の瞳からは一筋の赤い血が流れ、その血に反応したようにハクが暴れている。
メアリーはその女が眼前にいるおかげで、緑髪だと思っていたのが髪であると同時に数匹の蛇で構成されていることがわかった。
そうして今の異常事態と合わせてみれば、メアリーにもこの乱入者が何者なのかは想像がつく。
メドゥーサ。
メアリーは動かせない口の代わりに心の中でそう呟いた。
「わかったわかった落ち着けよ。すぐに飲ませてやる。ただし、アタシ流にな」
にやりと笑みを浮かべたその後、新しい新鮮な血の匂いがメアリーの嗅覚を刺激した。
老狩人の物でも、ハクの物でもない。
可能性としてはメドゥーサだが、視界に収まる限りでは瞳から僅かに血を流している以外に怪我をしているようにも見えなかった。
しかししばらくすると次第に彼女の頬が膨らみ始め、何をしているんだと思ったのも束の間、メドゥーサは押さえつけるようにして自分の唇をハクの唇へと重ねた。
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