刑と燎⑱
とんとんと肩を叩くとようやく気が付いたのか紫のヴェール越しに僅かに透けて見える瞳がヒューゴを見つめた。
矢のように鋭い紫の印象的な瞳が警戒するように細まっている。
「あ、い、いきなりすみません。お、いや私はヒューゴと言います。よければ少しお話できればと思いまして……」
自分よりもはるかに小柄で弱弱しい外見の女ではあるものの、その瞳に気圧されヒューゴの声は徐々に小さくなっていく。
それでも最後まで言い切った自分を褒めてやりたい気分になったヒューゴだったが、ヴェールの向こうから小さくため息が聞こえたことに体が凍り付く。
もし少しでも機嫌を損なえば命を奪われても仕方ないのが吸血鬼の上下関係だ。
血で潤したばかりだというのに喉が渇いていく感覚に襲われる中、ヴェールの向こうで小さな唇が動いた。
「忙しい」
涼やかな心地の良い声だ。
しかしその言葉は明確な拒否である。
面倒だが一応返事だけはしてやった、といった雰囲気にヒューゴはここで大人しく引き下がるべきか頭を回らせる。
だがはいそうですかと引いてしまえばここに来た意味がない。
自分が吸血鬼としての長い一生を幸福に生きていくためには何が何でも上位吸血鬼との繋がりが必要なのだ。
ヒューゴが意を決して再度誘いをかけようとしたその時、音楽の止んだダンスホールに男の悲鳴が響いた。
「え? なんだ?」
視線を向ければ静まり返ったホールの中央で男が跪いていた。
あれは確か先ほど青いドレスの吸血鬼を誘った男のはずだが、その頬はこけて肌は枯れ木のように瑞々しさを失っている。
男は眼前に立つ青いドレスの吸血鬼に何かを叫んでいるようだったがここからではよく聞こえない。
だが被っていたヴェールを投げ捨て、ドレスと同色の青髪があらわとなった吸血鬼が叫んだ一言だけはよく耳に響いた。
「私は——狩人だ!!」
男の額に矢が突き刺さる。
その後に起きたことは恐ろしい光景だった。
深紅の矢によって男の体は絞れらた雑巾の様に無残に干からびていき、そこにアイドルだった面影など微塵もない。
一瞬のうちに男だったものは灰となり、深紅の矢だけがカランと音を立てて床に転がった。
「——うぁ」
碌に声も出せぬまま何が起きたのかと動きを止めて考えているのはヒューゴだけではなく、会場中の吸血鬼は時間が止まったように硬直している。
事実だけを見れば上位吸血鬼が中位吸血鬼を罰したということだろうか。
ヒューゴが混乱する頭を整理しようとする中、外から響いたのはさらに頭をかき乱す内容だ。
「狩人だ!」
何を言っているのだと視線を向ければ城内へ逃げ込むようにして叫ぶ吸血鬼の姿があった。
「か、狩人が襲撃してきたぁ!」
繰り返し発せられる言葉と血を流したその姿にようやくホールにいた吸血鬼たちが状況を理解したらしい。
先ほどまでの静けさが一転、ホールは上へ下への大騒ぎへ陥った。
「狩人!? ど、ど、逃げないと!」
ほかの吸血鬼たち同様に駆け出そうとし、そこではっとヒューゴは何か思いついたような顔で紫のドレスを着た吸血鬼の手を取った。
「え?」
「こ、ここは危険です! 私がまも、んん、守るので一緒に逃げましょう!」
ヴェール越しに困惑した視線を感じる。
しかしヒューゴはこれこそが起死回生の一手だと信じて疑わなかった。
(ここで彼女に恩を売っておけば上位吸血鬼との繋がりができる! 狩人が侵入してきてるみたいだが冷静に考えればここにいる吸血鬼を狩り切れるとは思えない! 二人で安全な場所まで逃げ切るだけなら簡単だ!)
むしろよくチャンスをくれたと襲撃してきた狩人にお礼を言いたいくらいの気持ちだった。
「さぁ行きましょう!」
輝かしい未来に向かってヒューゴは華奢な手を引き駆け出そうとするが、つんのめるようにして足が止まった。
まるで石像の手を引いたのかと思うほどで力を入れて引っ張ってもその小柄な体がピクリとも動かない。
「なんで着いていかなきゃいけないの?」
「え!? いや、それは……」
「守ってもらう必要も逃げる必要もない」
「……え、と」
周りの吸血鬼たちが大騒ぎで走り回る中、彼女だけが冷静で淡々と問いかけてくる。
ヴェールの向こうの瞳は不機嫌というよりも、本当に何を言ってるんだこの男はという戸惑いが強いようだった。
「手、離して」
「あ、いや、でも……」
この手を離したらすべてが終わってしまう。
そう躊躇ったことがいけなかった。
めぐるましく変化していく状況の中でヒューゴは自分が物語の主人公にでもなった気分だったが、本来の自分は中位吸血鬼の中でも底辺の存在であり、決して力あるものに逆らってはいけないという事実を失念していたのだ。
「じゃあいい」
面倒そうな声とともにトンと腕に何かがぶつかった衝撃があった。
そして不思議なことに手を繋いでいたはずの目の前の彼女が静かに離れて行ってしまう。
見れば自分の手がごみのように投げ捨てられたところだった。
「あ、あぁ、ぁああぁあ!!」
左手首から先がすっぱりと切り落とされていることにヒューゴは絶叫し、遅れて襲い掛かる痛みに悶えて床に膝をついた。
ようやく自分がただの中位吸血鬼であることを思い出したヒューゴは必死に左手を抑えながらもつれるようにして城の外へと向かう。
もはや上位吸血鬼との関係を構築するなどと言っている場合ではない。
とにかくここを離れなければと、痛みに視界が歪み何度も転びながらもようやく外へ出てみれば阿鼻叫喚の光景が広がっていた。
狩人と力ある吸血鬼が互いに殺し合いをする中で、無力な吸血鬼は悲鳴を上げて逃げ回っている。
その一人であるヒューゴも痛みにすすり泣きながら隠れるようにして庭の一角へと走り出す。
振り返れば大斧を手に持った男と両手に拳銃を持った女の狩人二人組が城から出てきた吸血鬼を淡々と処理しているところだった。
「あ、ぁぶ、危なかった……」
震える声で無事に城から出られた幸運に感謝しつつ、できるだけ狩人のいない場所へと逃げるがどこも混戦状態だ。
切り落とされた左手の再生は始まっているものの、上位吸血鬼やましてや真祖と違って瞬間での再生などヒューゴには不可能である。
おそらく元通りになるにはあと三十分ほどかかるに違いない。
それまでこの痛みに耐えるのかと腹の底から湧き出す罵詈雑言があの紫のドレスの吸血鬼に向かう。
「な、んなんだあいつ!! 助けてやろうとしたのに!! くそぉ……いってぇ……」
「おいヒューゴ! よかった無事だったんだな!」
呼びかけられた声にびくりと震えながら振り向けば、見慣れた小太りの男が安堵した顔で立っていた。
「ル、ルーカスか。どうしたんだお前」
「どうしたってヒューゴを探してたんじゃないか。無事で安心したぜ……ってそうでもないのか? 左手どうした」
「あ、ああ、いやこれは気にしないでいい。痛いけど再生中だからさ」
「そうか? まぁ今はとにかく逃げないとやべぇな。中位吸血鬼の中でも腕に自信がある連中はいいハプニングだって楽しんでるみたいだが、俺らみたいな中位吸血鬼の中でも下の下の存在じゃ狩人に勝てるわけがねぇ。噂にしか聞かねぇ上位吸血鬼が俺らのために戦ってくれるとも思わねぇしな」
二人で物陰に隠れながら視線を巡らせればルーカスの言う通り吸血鬼の中には戦闘を楽しむように高笑いを上げて狩人と交戦しているものもいる。
自分にもあれだけの力があればそう思ったのかもしれないなとヒューゴは羨ましくも感じたが、現実はそうはいかない。
「とはいえお偉い様が狩人の注意を引き付けてくれてるんなら好都合だ。俺たちは外の列車か船を使ってとにかくここを出よう」
「列車? 来るときに使った地下通路を通るんじゃなくてか?」
ヒューゴが使用したのはパリのスラム街にある地下通路だ。
ルーカスから最初に聞いたときは正気かと思ったものの、その地下通路を一時間ほど歩けばマスカレードナイトに無事到着したというわけだ。
もっと上位の吸血鬼ならともかく彼らのような下の下ではパリからここまでくるのに移動方法がそれしか選択肢がなかったのである。
「来た時と違う移動方法じゃ帰れたとしても別の場所に着くんじゃないのか?」
「そりゃそうだが、あの地下通路じゃ出口を抑えられてたら逃げ場がないじゃないか。列車や船なら最悪また乗って逃げられるだろ?」
「……ああ、なるほど」
意外とこの男は頭がいいのかもしれない。
いや普段であれば自分も思いついた当たり前のことだが、今は腕の痛みで考えに集中できていないせいだろう。
そう考えて少し冷静にならないとなとヒューゴは痛みを和らげる意味でも深呼吸を行った。
「大丈夫か?」
「問題ない。少し落ち着こうと思って」
「そうか? とにかくまずは列車まで行こう。この庭を抜けて外に出れば駅まですぐだ」
急に深呼吸を始めたせいか怪訝な顔をされたものの、ルーカスは目立たぬよう慎重に中庭を進んでいく。
ヒューゴもそのあとに続き、テーブルやイス、あるいは狩人の死体などで体を隠しつつ先へと進みながら、そろそろ出口が見えてきたというところで耳に響いてきたのは馬のいななきだ。
それは狩人と吸血鬼の戦闘音が響く中では異質であり、繰り返し空から響き渡るいななきに自然と狩人や吸血鬼の視線が空へと向かった。
「あれはなんだ?」
ルーカスのぽかんとした声が耳に届くが答えをヒューゴが持っているわけがない。
視線の先には流れ星か隕石かと思うほどに光り輝いた物体が眼を見張る速さでこちらへと降りてくるのだ。
近づくにつれその輝きが増し、思わずそのまぶしさに目を細めて手をかざしてしまう。
「な、何なんだよ! 今度は何だ!」
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